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【陳さんとまわろう!】Vol.241 ひたすらローボール練習。若いころの夏の思い出ですね

日本ゴルフ界のレジェンド、陳清波さんが自身のゴルフ観を語る当連載。今回は、陳さんの“夏の思い出”について聞いてみた。

TEXT/Ken Tsukada ILLUST/Takashi Matsumoto PHOTO/Tadashi Anezaki THANKS/河口湖CC、久我山ゴルフ

前回のお話はこちら

初めにやったことは
9月末開催の日本オープン対策

──8月になると、陳さん、いろいろと思い出すことが多いんじゃないですか?

陳さん そうだねえ、東京ゴルフ俱楽部に所属するために日本に上陸した(笑)のが1959年の8月だったからねえ。台湾の松山空港から羽田まで10時間かかったのよ。プロペラ機だったし、途中で沖縄と大阪に寄って燃料を入れたからね。

――54年に半年間、55年に3カ月間川奈ホテルゴルフ場(静岡)にゴルフの修業に来て、その後、台湾代表としてカナダカップ(現在のワールドカップ)に出場しながら腕を磨いていった後の59年でしたね。

陳さん はい。カナダカップは私をずいぶん成長させてくれましたよ。当時の私の活躍を見て、日本ゴルフ協会の野村駿吉さんが私を東京ゴルフ倶楽部に呼んでくれたわけね。野村さんは理事長だったんだねえ。私はこの約3年前の25歳のときに結婚していて、子どもも長男と長女の2人いましたけど、当時はビザなどの関係で家族を連れてこられなかったんですよ。子どもが小さかっただけに寂しかったですよ。でも日本の名門コースに所属する意味とか自分の将来や家族のことを考えると、ここで頑張らなくちゃ何もならないって腹を決めたんだねえ。


――当時の台湾のゴルフ事情はどんなものでしたか。

陳さん ゴルフ場は少ないし、プロゴルファーの数も少ないし。仕事といえばゴルフ場でクラブの修理をしたり、お客さんにレッスンしたり。試合がありませんから、そういう仕事しかないんだ。もう先が知れているというかな。だから日本行きの話が来たときは、これで世界が開けると思いましたよ。

――8月に日本に居を固めて、初めにやったことが9月末開催の日本オープン対策だったんですね。

陳さん そう。早速、会場の相模原ゴルフクラブ(神奈川)に偵察に行って(笑)、必要な対策を考えました。相模原は開場してまだ4年目ぐらいの新しいゴルフ場でしたが、日本では珍しいワングリーンでね。それがまた大きいんだ。距離も長かったし。そこで考えたのはローボールを打ってランの多い球で距離を出し、攻略するということだったわけね。

――低いボールは陳さんの真骨頂。

陳さん はい。ローボールを打つためにはアドレスのときよりもハンドファーストの度合いをインパクトで強める必要があるんですよ。これでロフトが立ちますから低いボールが出るわけね。そこで必要になるのがフットワークを使って、下半身を左にスライドさせることなんだねえ。

――腰を回転させるんじゃなくて、左にスライドさせる──。

陳さん そうよ。私がよく言うダウンブローのスウィングがこれで完成するわけよ。腰を回転させて打ったら打点が安定しなくなるために、ボールがどこへ飛んでいくかわからなくなるんだ。力も逃げていきますからボールも飛びませんよ。だから左腰を開かないようにしながら、目標に向かって腰をぶつけていくというかな、それが必要なんだ。もう練習、練習の毎日でね。クラブのメンバーはみな軽井沢とかの避暑地に行ってプレーしに来ませんから、練習時間はたっぷり。暑さにぐったりして休んでばかりいる(笑)先輩プロたちを横目で見ながら、ほんとうに練習しました。そういうことをね、夏が来るたびに思い出すんだねえ。

陳清波

陳清波

ちん・せいは。1931年生まれ。台湾出身。マスターズ6回連続出場など60年代に世界で日本で大活躍。「陳清波のモダンゴルフ」で多くのファンを生み出し、日本のゴルフ界をリードしてきた

月刊ゴルフダイジェスト2023年10月号より