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【陳さんとまわろう!】Vol.226「1日1ミリずつスクエアグリップに。懐かしいねぇ」

日本ゴルフ界のレジェンド、陳清波さんが自身のゴルフ観を語る当連載。今回のお話は、陳さんの代名詞ともいえる“スクエアグリップについて。

TEXT/Ken Tsukada ILLUST/Takashi Matsumoto PHOTO/Tadashi Anezaki THANKS/河口湖CC、久我山ゴルフ

前回のお話はこちら

フックからスクエアに。
グリップを変えるのは時間がかかるもの

――前回、ゴルフを覚えたての陳さんがフックグリップでボールを打っていたために球筋が定まらず苦労したという話があって、それを救ってくれたのが親切な日本の人たちだったということでした。

陳さん そうだねえ。私に日本でゴルフの修行をするよう勧めてくれた外交官の木村四郎七さん(後の中華民国(台湾)大使)や東京ゴルフ倶楽部の所属プロになるよう働きかけてくれた野村駿吉さん(東京GC理事長、後の日本ゴルフ協会副会長)のほか、たくさんの日本の人たちに親切にしてもらいました。

――木村さんは陳さんが川奈(ホテルゴルフコース)で修業するお膳立てをしてくれた方ですね。


陳さん はい。22歳のときの1954年と55年の2回、半年ずつ川奈で修業できたのは木村さんのおかげなんだ。木村さんとは淡水(台湾高爾夫倶楽部=淡水球場)でよく一緒にゴルフをやったんですよ。2人ともフックグリップでしたから、木村さんはダットサン(左に大きく曲がるボール)しか出ないし、私もフックボールだったから、いつも2人でホールの左端を歩くわけね(笑)。面白いんだ。

――しかしそういうゴルフを通じて、陳さんに将来性を感じた木村さんが、台湾の大先輩、陳清水さん(ちん・せいすい/1937年日本オープン、42年、53年日本プロ優勝)のいる川奈に話を持ち掛けたわけですね。

陳さん 修業しやすいからね。清水さんはアメリカに武者修行に行ってたくさん試合に出た人でね。マスターズにも出場して、たしか20位だったはず。アメリカから帰ったときにはホートン・スミスとかバイロン・ネルソンの影響を受けて、スクエアグリップの正統的なスウィングを身に付けていましたから、川奈でもそれを広めたんだね。私が修業に行ったときには石井茂さん(54年日本プロ優勝)をはじめ川奈の先輩プロたちはみなスクエアグリップでゴルフをやっていましたよ。そんな中にフックグリップの私が入っていったもんだから、「そんな握り方じゃゴルフにならないよ」ってすぐに直されたわけ。でも5年もフックグリップでボールを打っていたのを、スクエアグリップに変えるのは難しかったね。それでグリップの握り方を1日にミリずつスクエアに直していって。

――その成果あって、最初の半年間で急成長。

陳さん はい。川奈に来て最初に回ったときは1OBの79。しかし日本を離れる1週間前に回ったときは68よ。グリップをスクエアに直し始めるとボールが高めに上がって右に飛ぶの。そこでこんどは手に返しを入れるわけよ。スクエアに近づけるほど手の返しも大きくしていくんだねえ。これを失敗を繰り返しながらなんとか身に付けるまでに半年かかった。

――1日1ミリずつというところに苦労を感じます。

陳さん そうでしょ。まだまだ本物のスクエアグリップとは言えませんでしたがね、でもこれで陳金獅さん(陳さんの技術上の師匠)が淡水で私に勧めてくれていたダウンブローショットが上手く打てるようになったんだねえ。金獅さんは日本の試合に何度か出ていて、戸田藤一郎さんのスウィングを見て「これは凄い」と。それで淡水に戻ってくると私にその打ち方をやって見せるわけ。でもダウンブローなんて言葉は当時なかったし、「こうやるんだよ」と形を見せながら「こう」「こう」って言うばかりでね。それにフックグリップでしたから上手くいくわけがないんだ。それがスクエアグリップにして打つようにしたら上手く打てたんだねえ。

陳清波

ちん・せいは。1931年生まれ。台湾出身。マスターズ6回連続出場など60年代に世界で日本で大活躍。「陳清波のモダンゴルフ」で多くのファンを生み出し、日本のゴルフ界をリードしてきた

月刊ゴルフダイジェスト2022年7月号より