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【陳さんとまわろう!】Vol.225「戦争は絶対にダメ。自分の経験から、本当にそう思います」

KEYWORD 台湾陳清波

日本ゴルフ界のレジェンド、陳清波さんが自身のゴルフ観を語る当連載。今回は、「ゴルフは平和なときのスポーツ」と語る陳さんが若いころに経験した話について。

TEXT/Ken Tsukada ILLUST/Takashi Matsumoto PHOTO/Tadashi Anezaki THANKS/河口湖CC、久我山ゴルフ

前回のお話はこちら

台湾がめちゃくちゃにされた、
あのときを思い出すと……

――陳さんはゴルフ場や練習場に行かないときは家で何を?

陳さん ゴルフダイジェストの月刊誌や週刊誌を読んでいますよ。読むのに疲れたらテレビを見てね。私は昔から報道番組とか政治がらみの番組が好きでよく見るんです。しかし見ていて、このところ腹が立つことが多くてイヤになるんだ。ロシアがウクライナに戦争を仕掛けたでしょ。なんて馬鹿なことやっているんだって思いますよ。プーチンは安全な場所にいて、兵隊さんたちを危険な戦場に送り込んで鉄砲を撃たせているんでしょ。独りよがりなことやって、人を殺させて。兵隊さんが可哀想ですよ。ウクライナの人たちはもっと可哀想。そんなニュースが毎日ですからね。

――陳さんは昔、台湾で悲惨な光景を目にしたと聞きましたが。


陳さん はい、1947年の「2・28事件」だねえ。私が15歳のとき。太平洋戦争の敗戦で長い日本の統治が終わって、代わりに戦勝国になった中国から行政長官が台湾に派遣されたんだ。陳儀という人ですがね、これが横暴でよくなかったんだ。それで台湾人が反発して決起したら、武力で弾圧してきて殺し始めたわけね。それも機銃掃射で無差別にだよ。たぶん台湾全土で2万人以上の人が殺されたよ。ひどい話だ。それから、その2年後には毛沢東の中国共産党と喧嘩して負けた国民党の蒋介石が台湾に逃れてきてさ。一緒にたくさんの中国人もやってきたから大変だったんだ。しかも勝手に来たのに台湾人をいじめるわけね。だいたい言葉が通じないんだよ。

――言葉が通じない?

陳さん そうよ。大陸から来た人たちが話すのはだいたい北京語。しかし台湾人は福建語なんですよ。対岸の厦門(アモイ)あたりで話されている言葉だね。これ、ぜんぜん違うんだよ。北京語も福建語も方言だから、意味が通じないの。台湾は昔からフォルモサ(FORMOSA)と呼ばれていたんだ。フォルモサとはポルトガル語で「麗しい」という意味ですよ。その台湾が虐殺の舞台になったり、2人の親分の喧嘩のとばっちりを受けてめちゃくちゃにされたんですから悲惨だよ。ウクライナの人には同情するよ。

――陳さんはそんなさなかに淡水のゴルフ場(台湾高爾夫倶楽部=淡水球場)に就職したんですね。

陳さん そう。17歳のとき。だって6番ホールのグリーン下に私の家があったからね。バンカーショットをホームランすると私の家の屋根にボールが落ちてくるんだよ。そういう家に私は生まれたんだ。9人兄弟の3男。女、男、男、男(陳さん)、女、女、女、男、女。

――うわっ、にぎやかですね。

陳さん アハハ……。プロゴルファーになったのは私だけ。陳火順というプロが淡水にいて、その火順さんと知り合ったことがきっかけでゴルフ場の仕事を手伝うことになったわけよ。見よう見真似でクラブ修理をしたり、火順さんやもう一人のプロ陳金獅さんのキャディバッグを担いでコースに出たりね。そのうち金獅さんにゴルフの手ほどきを受けてボールを打ち始めましたけれど、なにしろ教えられたクラブの握り方がフックグリップだったからね。左手をかぶせて右手を開いて握る極端なやつよ。だからボールが引っかかるし、上がらないしでホント苦労したんだ。それを救ってくれたのが日本だよ。やさしい日本の人たちなんだねえ。

陳清波

ちん・せいは。1931年生まれ。台湾出身。マスターズ6回連続出場など60年代に世界で日本で大活躍。「陳清波のモダンゴルフ」で多くのファンを生み出し、日本のゴルフ界をリードしてきた

月刊ゴルフダイジェスト2022年6月号より