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知られざる陳清波<エピソード4>ベン・ホーガンのスウィングを見て確信「私のやってきたことは間違っていなかった」

ゴルフ界のレジェンド、陳清波が1月14日に93歳でこの世を去った。「チョイス」誌の連載で長年、陳さんを取材してきた記者が、その知られざる功績と人となりを述懐する。

文・谷田宣良

歴代最高のボールストライカーと称されるベン・ホーガン。陳さんもまた「東洋のベン・ホーガン」の異名を取り世界で称賛された

「昔の陳さん、アマチュアにレッスンするの、嫌いだったらしいですね?」と聞いたら、陳さん、苦笑して「嫌いじゃなくって苦手。自分が上手くなりたいという気持ちが優先だった頃はね」と認めて「だってドライバー1本握り締めて来て、『もっと飛ぶようにして』、『スライスを直して』って、いきなり言われても無理に決まっている(苦笑)」

今でも、スライスを直したい、真っすぐ打ちたいと言ってくるアマチュアゴルファーには、陳さんは「スライスを嫌がるのではなく、持ち球にしたほうが楽だし、すぐにいい結果が出て楽しいですよ」とアドバイスしているという。

「構えの向き、ボールの位置をチェックして、狙いをフェアウェイ左端にしっかり定めて、そこに球を打ち出すことに徹する。それができればかなりスライスしても2打目が打てるところにボールが残る。出球が安定するほど曲がりも少なくなってくる。なによりもいいのは、どちらか一方にしか曲がらないという自信が持てるようになること」

プロの持ち球「フェード」の効果も同じだ。

実際、球筋をフェードに安定させて好成績を出したというプロは、昔から今まで枚挙に暇のないほど登場してきて、得意気にその「持ち球効果」をレッスンしたりしてきた。だが、そういったレッスンへの陳さんの評価は低い。

そもそも川奈にまで多額の借金をして修業に来たのは、それまでの「べた足・手打ちスウィング」のショットでは、淡水の北風に翻弄されてゴルフをさせてもらえなかったからだ。陳さんの胸中を勝手に代弁してしまうなら「フェードボール? そんなこすり球、風にもっていかれちゃうだけじゃない!」

風に強く距離も出せるドローボール。ベースにすべき持ち球はこれしかない。次に大事なのは風の影響を最小限にとどめるローボール。アゲンストの風には、地を這うような低いボールを打っていきたい。そうそう、フォローの風のときは風に乗せて距離を稼ぎたいから高いボールも必要だ。

風は左右からも吹く。その風にボールを乗せていくか、あるいは逆にぶつけていくかの戦略も必要。そのためには高低に加えて、左右に曲げる技術も必要になる。

多分、そんなふうに考えて川奈の修業から、強風の待つ淡水に帰って、真冬の北風の中で、球筋を操る特訓がスタートした。

「風が吹こうが雨が降ろうが休まず毎日練習してこそプロ。そういう練習をしていけば、真っすぐ打つとか遠く飛ばすということなどよりも、ボールを自分の意志どおりに操ることのほうが遥かに大切だということがわかってくる。いやでも球の高低、左右の曲がりという4つの球筋のコントロールの大事さがわかって身に付けようと思うはずだし、上手く打てたときの喜びが後押しして、風と付き合うのが楽しくなってくるはずだし、いろいろな球筋が打ちたくなってくるはず。球筋1つだけ、2つだけなどという人は、私はプロとは認めない」

悪天候になると途端にスコアを崩すプロが多い。

「悪条件になるほど、ボールを操る技術のない(少ない)者から落ちていく。それは昔も今も変わらないはずなのに……」と陳さん、取材中に何度こぼしたことか。

陳さんを始めとする淡水育ちのプロたちは、天気が崩れるという予報だと「明日はチャンスだ」と張り切ったのだそうだ。

陳さんは、アマチュアゴルファーも風を厭わずに「風の中のプレーを楽しんでほしい」と、よく言っていた。アゲンストだったら、少しでも低い球にしたい。そのためにはどうしたらいいか考えてトライしてみる。それが「ボールを操る」に繋がってくるからだ。

ウェントワースGCで初めて
ベン・ホーガンのスウィングを目の当たりに

さて、陳さんの淡水での雨が降ろうが風が吹こうが特訓の成果は目覚ましかったようだ。

台湾を代表するプロとみなされるようになり、翌1956年、英国のウェントワースGCで開催された第4回カナダカップ台湾代表に選ばれた。そしてそのウェントワースで素晴らしい幸福な出会いを迎えることになる。

「アメリカの代表がサム・スニードとベン・ホーガンだった。そこで初めてベン・ホーガンのスウィング、ショットを実際に見ることができた。嬉しかったよ。私と同じスクエアグリップで私と共通するニーアクションを見事に使って、低く長くフォローを出して、ボールを自在に操っているんだもの。私が目指してやってきたことは間違っていなかったと思えたのが、すごい自信になった」

ちなみにこの年は米国が団体優勝。ベン・ホーガンは個人優勝だった。

この幸福な出会いで、陳さんの淡水での練習にさらに励みがついたことは間違いないだろう。

充実した楽しい日々の中で確実に腕を伸ばしていった陳さんは、翌1957年に日本で開催されたカナダカップでも台湾代表となる(1966年まで計11回出場)。

1959年の東京GC所属、日本オープン初参加優勝に始まり、1960年の『近代ゴルフ』出版で口火を切ることになる、”陳清波のダウンブロー”がゴルフ界でブレイクする土台は築き上げられ、幕開けを待つばかりとなっていた。

陳清波(1931-2025)
ちん・せいは。台湾・淡水生まれ。台湾GC(通称“淡水”)でゴルフを始め、川奈で修業を積む。のちに東京GCの所属となり、1959年日本オープンで初優勝。ツアー通算24勝。マスターズは63年から6年連続出場

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