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知られざる陳清波<エピソード3>「ダウンブロー」の大いなる誤解…“上から下に強く打ち込む”打法ではない

ゴルフ界のレジェンド、陳清波が1月14日に93歳でこの世を去った。「チョイス」誌の連載で長年、陳さんを取材してきた記者が、その知られざる功績と人となりを述懐する。

文・谷田宣良

川奈で磨いた本物のダウンブローを駆使して球を自在に操った

1954、55年と2度、川奈で修業して、スクエアグリップを教わり、ダウンブローの基礎を作った――陳さんファンならだれでも知っている話だが、ふと疑問に感じて「川奈の渡航費とか滞在費は誰が負担してくれたのですか」と率直に聞いてみたことがある。

陳さんの答えは「誰も出してくれないから、淡水(台湾GC)の有力者の人に頭を下げて借りたの。けっこうな金額でした。トーナメントで賞金もらえるようになって少しずつ返したけれど、全部払い終わるまで2年くらいかかったかなあ」

なぜそこまでしても川奈でなければならなかったのか。当時の日本の主流の打ち方は「べた足手打ち」だった。フックグリップで握り、下半身はガニ股気味に踏ん張って横殴りに振る。陳さんも淡水でこの打ち方を覚えた。この打ち方自体がいけないとは言えないだろう。割と最近まで、特にビギナーやスライサーに「べた足手打ちで打ちなさい」と教えるベテランプロはいたし、有効だった場合も多かったと思う(特に年配者には)。

ただ、当時、川奈だけはまったく異次元のスウィングが行われていた。その理由は「芝から打って練習するのが厳禁だったからだ」と、川奈一門の総帥格の石井茂プロ(1912-2002/1954年日本プロ優勝)から以前に教わったことがある。引退した石井プロが愛知県の葵CCの支配人を勤めている頃だった。

バンカーから打つことしか認められなかった。靴は運動靴。クラブヘッドは砂面にソールせず浮かせなければならない。クラブを吊るように構えるから、自ずとグリップはハンドアップのスクエア気味になっていくし、構えもスウィングもアップライト気味になっていったのだそうだ。

砂の上のボール、ちょっとでもダフったらアウトだ。そこからボールを上手くとらえようと思ったら、まだフェースが最下点に向かって「下降中」にボールをヒットして、打ち終わった後で最下点を迎える打ち方にしたほうがいい。この発想から川奈一門のスウィングは生まれた。もうおわかりだろう。これが陳さんの代名詞「ダウンブロー」の原点である。

「ダウンブロー」という言葉には「上から下に強く打ち込む」イメージが強かったが、その誤解について、陳さんはいつも丁寧に説明していた。その中でも、陳さんと同年代で、デビュー時代の陳さんをよく知る作曲家の神津善行氏と対談した時の解説は非常にわかりやすく適切だったので、引用しながら説明していこう。

「上から下に打っていくこと自体は間違いではないが、アマチュアがやると打ち込んで終わりでフォローが取れない。当時の日本のプロは『べた足手打ち』で打ち込んでいた。ダウンのスピードで打つ打ち方。この打ち方だとまっすぐ飛んでくれても距離は出ないし、球筋の打ち分けも難しい。ダウンブローはボールに当たる寸前からスピードアップさせていってフォローのスピードで打っていく」

「トップから切り返して右腰の高さまで下ろしていくところまではバックスウィングと同じスピード。つまりゆっくりとアマチュアのみなさんには教えている。だから軽く振っているように見えるが、インパクト寸前からフィニッシュまでは、ここで一番速くなるように一生懸命しっかり振らなければいけない」

「トップからの切り返しのシッティングダウンは絶対に必要だし、その後の下半身の踏み込みやニーアクション、体重移動……と、ダウンが始まったら本当に大変になる(苦笑)」

バンカーからボールをクリーンに打ち出す一番簡単な方法は「カット軌道にすること」だろう。アウトサイドインに振るほど上から下のインパクトにしやすくなる。事実、川奈一門のプロの持ち球といえばフェードだった。

しかし、陳さんの目標は遥かに高かった。「ボールを意のままに操りたい!」である。

「ボールに当たった後、フォローでどのくらい返すか、返さないか。スナップをどう効かせるか、抑えるか。フェースを入れる角度、抜く方向、スピードなどをどうアレンジしていくかでスピンや球筋をコントロールして、ボールを自在に操る。そのための私のスウィングがダウンブローです」

その武器を川奈で手に入れた陳さんは、24歳。ホームコース淡水に戻り、その武器に磨きをかける。

陳清波(1931-2025)
ちん・せいは。台湾・淡水生まれ。台湾GC(通称“淡水”)でゴルフを始め、川奈で修業を積む。のちに東京GCの所属となり、1959年日本オープンで初優勝。ツアー通算24勝。マスターズは63年から6年連続出場

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