【1957カナダカップ観戦者の証言】<前編>日本初のゴルフ生中継! アナウンサーは用語も知らずに実況していた
週刊ゴルフダイジェスト
中村寅吉・小野光一ペアが優勝し、ゴルフブームを起こす転機となった1957年の「カナダカップ」。成績も報道記事も残されているが実際の会場の熱量はどうだったのか? 当時の試合を観戦した方々に貴重な証言をもらった。
TEXT/Junko Ogawa

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- 中村寅吉・小野光一ペアが優勝しゴルフブームを起こす転機となった1957年の「カナダカップ」。成績も報道記事も残されているが会場の熱量はどうだったのか? 前編に続き、当時の試合を観戦した方々に貴重な証言をもらった。 TEXT/Junko Ogawa >>前編はこちら 高い木も越えるスニードのショットに感動しました ……
日本初のゴルフ中継、
用語も知らずに実況してました

志生野温夫さん(93歳) 観戦時24歳 日本テレビアナウンサー
しおの・はるお。1932年生まれ。1956年日本テレビ入社、1972年に退社しフリーに転身後も野球、プロレス、ゴルフなどスポーツ実況で活躍
ゴルフを知らない人がテレビを見て、その後ゴルフを始めたりしたんですから、日本のゴルフの夜明けになったんでしょうね。サム・スニード、ゲーリー・プレーヤー、ジミー・ディマレー……日本からは中村寅吉と小野光一。でも、そんな人の名前も僕ら知りませんでした。
カナダカップは、本当のゴルフ中継だったと思います。今みたいにテレビは24時間放送ではなかったけど、朝一番のスタートから最終組のホールアウトまで生中継です。途中でニュースなんかが入りましたけど一日中中継。当時はVTRもありませんから全部生放送。実況もごまかしが利きません。肉眼で見てしゃべる、ゴルフをやったことないのに。
実況したのは入社2年目の僕を含め新人アナウンサーの何人かです。スポーツ中継といえば野球が主でしたから、「どうせ恥かくんだったらゴルフなんて新人に任せとけ」と、先輩は誰もやらなかったから(笑)。ゴルフというスポーツがあるのは知ってましたけど、やるのは皇族とか上場企業の社長さんとか一部の人。会社から急に「(カナダカップの中継)やるから勉強しろ」と言われて、プロにゴルフってこういうもんだっていうのを教えてもらったりして。レクチャーを受けに初めてゴルフ場に行ったとき、ゴルフのスパイクじゃなくて野球のスパイク履いて行ったくらいです(笑)。しょうがないからクラブも自分で買いました。値段は覚えてないけど、給料前借りして月賦で……こんなに高いのか! と思いました。新人アナウンサーができるスポーツじゃなかったんです。
初めてのゴルフ中継は、正直あまり面白くなかったですね。野球とかボクシングとか、スポーツって動きがあるもので「投げた」「打った」「大きな当たりだ」と実況で反応できるじゃないですか。でもゴルフはそんな雰囲気じゃない。間が空いているし(画は)広いし、焦点が絞りにくい。僕は18番の担当で、松の木に付けられたゴンドラにはしごで上って中継したんですが、ほとんど見えませんでした。今考えるとひどい中継だったと思います。「構えて打った〜」「グーンと伸びてグリーンに乗った〜」って、とにかくゴルフ用語はほとんど使わず、野球用語か相撲用語(笑)。でもほとんどの人がゴルフを知らないから大きなクレームは入らなかったんです。
スライスラインとかフックラインなんて言葉も知らなかったから「右に曲がった!」「左に曲がった!」としゃべってたら、日本ゴルフ協会の人に「それでよかった。スライスライン、フックラインはゴルフ用語じゃなくてキャディ用語。右に曲がる、左に曲がるが本来正しい」って。本当に知らなかったんですけどね(笑)。
一応勉強はしたけれど、よく理解していないから中継でゴルフ用語は出なかった。いつだったか何十年も経って試合のフィルムが出てきて、音声も聞かされて恥ずかしい思いをしました。恥ずかしいからもう(日本テレビが)出さないと思います。
試合には麹町の日本テレビから川越街道をクルマで通いました。高速なんてなかったから、毎朝早く起きてクルマに乗って中継終えて会社に帰って。当初は霞ヶ関CCから麹町まで、電波が届くかどうかが一番心配だったらしいです。小型のカメラからドラマを撮るような大きなカメラまで、スタジオから運んできて1番ティーの横に据えて。カメラの数が足りないから、試合中リヤカーに積んで運んだりもしました。カメラを3台か4台持っていって、中村とか小野を追っていきますから、1番が終わったらリヤカーに積んで2番に行くという感じだったと思います。今みたいにハンディじゃないし全部ケーブルが延びてますから、それを引っ張っていく。技術は本当に大変だったと思いますよ。
今写真で見るとこんなに居たかというくらいお客さんが入ってますね。当時はギャラリーという言葉も知らなかったけど、野球とかプロレスとか熱狂的に集まっている会場を見てるから、プロスポーツでお客さんが入るのは当たり前と思ってました。
チケット代は今の物価で3万円相当!!
入場券は一日券で1500円。当時の大卒初任給が1万円程度だったから結構な金額だが実売数は1万5000枚以上に達したという

最先端のスクエアグリップを生で見て身震いしました

塩田正さん(93歳) 観戦時24歳 『ゴルフマガジン』記者
しおだ・ただし。1932年生まれ。東京教育大学卒業後ベースボールマガジン社に入社。『ゴルフマガジン』編集長を経て独立。著書多数
それまで写真でしか見たことのない世界の一流選手を見ることができる! と、ワクワクし通しでした。「“カナダカップ”なのにどうして日本でやるの?」という感じで、分かっていない人がほとんどでした(笑)。でも正力松太郎さんの読売グループが力を入れた世界的にも大きな試合、力を入れて取材しましたよ。特集号は約80ページだったんですが、ゴルフが分かる人が私だけだったのでほぼ1人で作りました。
当時ゴルフの記者は私とあと2人くらい。試合も少なく日本オープン、日本プロ、関東プロ、関東オープンくらいしかなくて、あとはプロの月例を取材していました。カナダカップをやるというので、報道各社はゴルフを知らない、いつもは野球とか相撲とかボクシングを取材する人たちに急きょ「行ってこい」と。そんな記者が集まっていました。そもそもゴルフをするのがごく限られた人たちでしたからね。それがカナダカップ後、ゴルファーが一気に増えたんです。コースの予約が取れないようになり、ゴルフの大衆化に大きな役割を果たしたと思います。
印象に残っているのはグリップです。それまでは左手のナックルが上から3つ見えるくらいまで深くかぶせて、右手が下から支えるストロンググリップ。日本ではみんなそうでした。でも、アメリカの選手たちは左手甲が飛球線に対して直角に握る新しいものでした。スクエアグリップですね。それでアップライトスウィングも新しい。スクエアグリップの特集をずいぶんしたものでした。
でも日本では「あれじゃスライスばかりでプレーにならない」という声が大きくて、一部の学生や若いプロは憧れていましたがベテランは見向きもしなかった。そのグリップでプレーする選手を初めて生で見て身震いしました。
サム・スニードは世界一きれいなスウィングをする人、スウィングの神様のように言われていました。練習場で最初に見た時は衝撃でしたよ。球筋がまったく違う。ロングアイアンをつぶして打つ感じ。今で言うダウンブローです。低い球で200ヤードくらい飛ばしてました。ドライバーも、サンドウェッジで軽くスウィングするように打つので驚きました。日本のプロはドライバーをぶん回して、力いっぱい打つ。飛ばそうとして手首で力いっぱい弾く。
でも、スニードは本当にウェッジのように振って250ヤード以上飛ぶ。日本では220ヤードくらいが普通だった頃に、です。霞ヶ関CCの18番は右ドッグレッグで、セカンド地点が一番低い。当時としては大変厳しいホールでした。そこを8I、9Iで打つんですよ。ウッドで打つのが普通なのに。“Far and sure(遠くへ正確に)”で、流れるようなアップライトスウィング。手首は使わず、常にフェースがスクエアなんですよ。日本はかなわないと思ったかって? もちろんです。
お客さんもいっぱい入っていましたね。駅からコースまで歩いて20分くらいなんですが、ゴルフ場までずっと列になっていました。ゴルフをしない人はゴルファーに誘われて来ていたと思います。3対7くらいでゴルフを知らない人が多かったんじゃないかな。バンカーに入ったり、選手が構えているのに200ヤードくらい先を横切ったりしてましたね。池で手を洗う人も(笑)。
学生アルバイトが「静かに!」と叫んだりもしていました。一緒に来てるゴルフをする人が打つときは静かにするって教えたりしてね。それでもサム・スニードは観客のマナーの良さをインタビューの第一声で言ってました。スニードが女性キャディにびっくりしてね。途中、自分でバッグを担いだりもしてましたよ。女性にそういうことをさせてちゃいけないという気持ちの表れた場面が随所にありました。レディファーストの国の人たちですからね。
日頃、ベントのグリーンでプレーしている選手たちだから、グリーンの順目と逆目がきつい高麗グリーンには苦労してましたね。最初はお手上げみたいでした。でも3日目くらいになったらもう慣れてました。彼らには霞ヶ関のグリーン(メンテナンス)の良さが目についたんじゃないでしょうか。高麗でベントみたいな滑らかな転がりをしてましたからね。ゴルフを知らないギャラリーも来るし、コース整備は大変だったと思います。隣の東京倶楽部からも助っ人が来ていたのを覚えています。
一番印象に残っているのは、やっぱり寅さんの優勝シーン。これまで国際試合で優勝なんてないんですから。普段、取材をあまり受けたがらない人でしたけど、インタビューで堂々としていたのは、やっぱり優勝慣れしてるからでしょう。どんな試合でもたくましくプレーしていましたね。
コースの中でやったパレードは予定外だったんじゃないかな。来場者もたくさん集まったし、日本で初めてのテレビ中継もありました。その後、1964年の東京オリンピックで白黒だったテレビのカラー中継が始まるという流れに繋がったビッグイベントとしてもよかったんでしょう。ゴルフ場は画面が美しく、テレビにはもってこいですからね。

女性のキャディは日本発祥
日本では戦争中の男性の人手不足から女性が務めるように。欧米の選手は女性キャディが珍しく「バッグに入れて持ち帰りたい」という発言も出るほどの気に入りよう
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週刊ゴルフダイジェスト2026年6月23日号より


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