Myゴルフダイジェスト

  • ホーム
  • 週刊GD
  • 【ノンフィクション】陳清波<前編>「私は運がいい」

【ノンフィクション】陳清波<前編>「私は運がいい」

KEYWORD 台湾陳清波

1月14日、レジェンドプロ・陳清波が、93歳でこの世を去った。ゴルフ界に残したものは計り知れない。長年、陳清波を見て、聞いて、書いてきた著者が、伝説から歴史となったプロゴルファーの想い出を綴る。

TEXT/Ken Tsukada PHOTO/Seiichiro Matsuoka、Takanori Miki、Yasuo Masuda

陳清波 ちんせいは。1931年台湾生まれ。16歳から生家そばの淡水GCで働き、22歳でプロに。来日して川奈で修業し、59年には東京GC所属となり同年日本オープンで優勝。その後勝利を重ねる。自身のゴルフ理論をまとめた『近代ゴルフ』はゴルフのバイブルとなった。14年日本プロゴルフ殿堂入り

>>後編はこちら

  • 2025年1月14日、93歳でこの世を去った陳清波。長年にわたり彼を取材し続けてきた著者が、その思い出を綴る。 TEXT/Ken Tsukada PHOTO/Seiichiro Matsuoka、Takanori Miki、Yasuo Masuda 陳清波 ちんせいは。1931年台湾生まれ。16歳から生家そばの淡水GCで働き、22歳でプロに。来日して川奈で修業し、59年には東……

日本で、世界で
唯一無二

陳さんのご両親はとても長生きだった。父親の水深さんは102歳、母親の禾様さんは98歳で天寿を全うした。

だから陳さんもその血を受け継いで、100歳ぐらいまで生きるんじゃないですか、と話を向けると「でもそのときにはレッスンはできないと思うよ」と返してきたので、そこまでやればギネスブックに載りますよ、と水を向けたら「アハハ……、じゃあやろうか? あなたは大丈夫?」との返事。健康に自信を持てなかったときだったので首をヨコに振ると「ちゃんと健康管理して、一緒にやろうよ」と真顔で乗り気だった。

これは月刊ゴルフダイジェスト誌に『陳さんとまわろう!』を連載中の2014年10月に河口湖CCで取材したときの陳さんと私のやり取りだ。このとき陳さん83歳、私67歳だった。残念ながら願いはかなわず、陳さんは私を置いて先に旅立ってしまった。93歳3カ月はいかにも早すぎた。

陳さんが一躍脚光を浴びたのは1960年。前の年に日本オープン(相模原GC)に優勝し、報知新聞が陳さんのレッスン記事を連載したものをまとめた『陳清波の近代ゴルフ』が発刊(4月15日第1版)され、これが洛陽の紙価を高めるほど爆発的に売れた。

この本のなかで陳さんはクラブをスクエアグリップで握り、ハンドアップに構えることと、ウッドクラブでもダウンブローに打つことを解説した。それまでの日本のゴルフはフックグリップでハンドダウンに構え、アイアンはヘッドを打ち込み、ウッドはアッパーに打つものとされていたから、まさに旧弊を打破する近代的なゴルフを提唱するものだった。ところが陳さんの予想もしなかった事態が発生し、陳さんを面食らわせた。

「ウッドもダウンブローで打つんだよって書いたもんだから、パー3ホール以外のティーグラウンドでもヘッドを打ち込んだためにできた穴がたくさん残っちゃってさ。あなたがあんなこと書くからコースが荒れるんだよって、ゴルフ場の支配人から文句言われたことがあって、いや困りましたよ」

穴を開けるばかりでなく、打ち込んだヘッドが抜けず、シャフトが折れたとか手首を痛めたとかの苦情も直接間接に陳さんの耳に届いたそうだ。しかしこれは読者の甚だしい誤解によるものだった。

来日直後に日本オープン制覇
「私は運がいい」

日本オープンの優勝とレッスン書のベストセラー。この2つは陳さんを大いに安堵させた。とくに1959年の日本オープンの優勝は来日してわずかふた月足らずの快挙だった。8月に東京ゴルフ倶楽部の所属プロとして台湾から招聘されて来日、そして9月末の日本オープンで最終ラウンドの翌日18ホールのプレーオフを戦っての見事な勝ちっぷりだった。

「日本に来て2年3年たってから優勝しても意味がないんだ。来てすぐ優勝したからよかったの。これがなかったらいまの私はないよ。私は運がいいの。こんな幸運な人間はそういないんだ」

台湾にいれば、奥さんと2人の子供と一緒に何事もなく暮らせるのに(陳さんは24歳で結婚)、上手くいくかどうかわからない日本へ、妻子を置いてまで一人で行って、イチかバチかに賭けるのは不安でしようがなかった、と語っていた陳さんだから、まさに日本オープンの優勝は陳さんを勇気づけた。

日本ツアー通算12勝。シニアツアーでは4勝、グランドシニア12勝。海外では、全英オープン2回、ワールドカップ11回出場。マスターズには63年から6年連続出場しすべて予選通過した。78年日本に帰化

しかし、好事魔多しというべきか。廣野GCで開催された翌1960年の日本オープンは、陳さんが小針春芳に3打差をつけ、一騎打ちを制して2連覇を達成したかに思われた。が、なんとスコア誤記という初歩的ミスによって競技失格という天国から地獄を味わうことになった。この一件を報知新聞は次の見出しで報じている。

《陳清波(東京)一位で失格/日本ゴルフ史上初のミス/11番(午後)で5を4/規則38条にふれるスコアの記入に誤り》

このスコア誤記を発見したのがなんと陳さんの連載レッスン記事を書き、『近代ゴルフ』の発売につなげた報知新聞の記者浜伸吾さんだったのがなんとも皮肉だ。

このスコア誤記については当然ながら陳さんに話を聞いたことがあって、どんな答えが返ってくるのか耳を傾けたら、途中から意外な展開になって、そういうこともあるだろうなと得心した。

「あのスコア誤記はね、新聞記者の人たちのせいよ。18番グリーンからクラブハウスまでの間、みんなが私の周りを取り囲みながら2連覇は凄いとかワ~ワ~話しかけるもんだから舞い上がっちゃってさ、小野光一さんが書いたスコアカードをトータルの欄だけ見てサインしたんだねえ」

何となく冗談めかした話しぶりだったが、これはたぶん本心だ。目がそう語っていたもの。

極東のベン・ホーガン

陳さんが初めて海外の試合に出場したのは1956年の国別対抗戦カナダカップ(後のワールドカップ)だった。場所は英国ウェントワース。個人戦優勝のベン・ホーガンに30ストロークも離されて30位タイの成績だったが、翌年の日本大会では22位タイ、次のメキシコ大会では10位タイと順調に成績を上げていったから、59年の日本オープンの優勝は運のよさではなく間違いなく実力だった。

その後陳さんは66年の日本大会まで11年連続してこの世界のひのき舞台で活躍した。そんなあるとき、どこの会場であったか、ジャック・バーク・ジュニア(1956年マスターズ、全米プロ優勝/昨年1月101歳目前で死去)が陳さんにこう語って敬意を表したことがあったという。

「ぼくはほとんどアメリカでプレーしているから、名前は知られているけどインターナショナルじゃない。あなたこそ世界中で戦っているのだから、インターナショナルプレーヤーだよ」

確かに。この世界大会での活躍は多くの知るところとなり、シェル ワンダフルワールド・オブ・ゴルフから声がかかり、マスターズの招待につながった。

シェルは62年(対テッド・ロール/ロイヤル香港)、64年(対トニー・レマ/川奈)、66年(対トミー・ジェイコブス/茨木)の3回出場。このときから司会進行役のジーン・サラゼンと親交が深まり、マスターズ出場の折にはサラゼンが陳さんをオーガスタナショナルで待っていてくれたそうだから、陳さんは好かれていた。

そのマスターズで陳さんは6年連続出場して一度も予選落ちしなかった。これは立派と言うほかない。初出場の63年は15位タイの成績。一時は優勝するかもしれないとの情報が広まったほどだ。

「いつだったか、サラゼンが言うわけ。お前はベン・ホーガンに似ているよって。スウィングも姿かたちもね。だからファーイーストのベン・ホーガンだって。ま、お世辞だと思いますけど(笑)」

海外試合は、ほかにも全英オープンなどに出場しているが、その証拠となるものが手元に残っていないのが残念だ。たとえばマスターズ委員会からの招待状、ワールドカップのスコアカードの数々。

「不思議なんだね。マスターズのスコアカード1枚が残っているだけで、あとは全部どこへ行っちゃったんだか。マスターズの招待状なんて家宝だよ。なんて馬鹿なことをしたんだって思うよね」

どこかに紛れて残っていることを望みたいものだ。

>>後編はこちら

  • 2025年1月14日、93歳でこの世を去った陳清波。長年にわたり彼を取材し続けてきた著者が、その思い出を綴る。 TEXT/Ken Tsukada PHOTO/Seiichiro Matsuoka、Takanori Miki、Yasuo Masuda 陳清波 ちんせいは。1931年台湾生まれ。16歳から生家そばの淡水GCで働き、22歳でプロに。来日して川奈で修業し、59年には東……

週刊ゴルフダイジェスト2025年2月18日号より