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追悼・坂田信弘「きみは、そのでっかい体とでっかい脳ミソで、ゴルフの歴史を変えてしまった」

2024年7月、76歳で逝去した坂田信弘。プロゴルファーでありながら、雑誌のコラムや漫画原作など、文筆家としても異彩を放った。そのきっかけを作った週刊ゴルフダイジェストの元編集長が、40年来の親友にして戦友・坂田信弘の在りし日を振り返る。

突然、優勝してしまったナイジェリアオープン。皆、一斉に、世界地図を広げたものだった

友であり
師でもあった
きみへ。

きみに出会ったのは、1984年、36歳のときだった。いきなり週刊誌の編集長に任命されて、戸惑ったり気負ったりのさなかにあった。

そこで偶然、きみについての、地方新聞の小さなコラムを目にすることになった。記者の質問に答えるきみの言葉が新鮮だった。

言葉を持った人だな、と思った。

さっそく、僕は動いた。

「ペプシ宇部」という試合に出ていたきみに、自戦記を依頼した。

続けて、『過激ラウンド」という1ページコラムを用意した。

プロ仲間からの売り込みがあったりもして、ちょっとした人気プロになっていたようだ。

1ページには収まりきれないパワーがあって、翌年『ゴルフ野性塾』として2ページになり、ずっと続いてきた。

わかりやすく書くことが求められるこの世界で、中国の古典を読むような古風な文体に賛否が分かれて当然だろう。が、それがきみの魅力だった。

マスターズや、(自戦記を含む)全英オープンレポートは、スポーツメディアを吃驚させたに違いない。

ペンを執って4年ほどして、1988年。アフリカのナイジェリアのトーナメントで、なんと優勝してしまった。もちろん、初優勝だ。

芝がなく、重油で固められたグリーン上で、きみは高々と両手を上げて、黒人たちの祝福に応えていた。

いつもなら、ボギーを叩くと、そのホールのグリーンの脇で、空を見上げて流れゆく雲を目で追っていた冴えないフロゴルファーが、異国の地で、晴れやかにガッツポーズを作ってみせた。

  *  *  *

きみの才能は、ペンを執ることで一気に開花していったように思う。

表現の場は、小学館漫画賞を受賞した『風の大地』(作画は2022年逝去した、かざま鋭二さん)など漫画の原作から、ジュニアを育成するための『坂田塾』へと広がりをみせた。

坂田塾は、パブリックなゴルフ塾で、やる気と才能さえあれば、学費はタダ、試合の遠征費も坂田個人が負うというものだった。

上田桃子や古閑美保らに「坂田塾がなければ、ゴルフをしていなかった」と言わせた塾である。

経験したことのない事件? だったから、外圧も半端でなかったようだ。レッスン風景をテレビで見た人たちからも、

「ボールを打つ道具であるクラブで塾生を叩くとは!」

という批判を浴びたこともあった。

そんなときにも、

「清濁、併せ呑むんじゃ」

と、超然としていた。

こういう心の大きさ、したたかさは、きみの生い立ちによるのだろう。

小学館漫画賞の受賞パーティでの僕とのツーショット。きみのタキシード姿を見たのはこのときだけだった

  *  *  *

事業の失敗から、一家は夜逃げ同然で熊本を出て、尼崎の開拓村に逃げ込んだ。中学3年のときだった。

父親は、外出すると青い顔して帰ってきて、いつも横になっていた。栄養剤だと言っていた赤い錠剤は、造血剤だった。売血していたらしい。

母と2人で、3人の弟妹を養わなくてはならなくなった。力仕事をしながら、猛勉強して、単位ギリギリで高校を卒業して、京大に入ってしまうのである。

入学した京都大学は、大学紛争のさなかにあった。きみは、京大ではなく、たしか花園大学の図書館で本を読みあさったり座禅したりの日々を送っていた。

言いたくなさそうに打ち明けたことがあった。京大で、自分の前に立ちはだかったヘルメットの学生を殴りつけて、

「なんだか空しくなってね、大学を辞めてしまった」そうだ。

それから、自衛隊、研修生になって、プロゴルファーヘの道を歩むことになった。

「ゴルフは、お金持ちのスポーツ、金がかかって当たり前」という風潮が厭だった。お金がなくたって才能さえあれば(自分はそうなれなかったが)プロになってお金を稼げる。そんなことを証明してやろう。

あのときのきみの姿は、多彩な人脈を生かして維新日本の扉を開いた坂本龍馬のようだったと、僕は、今も思っている。

  *  *  *

さて、坂田塾ってどんなことを教えるのか。

およそ10年、マスターズや全英で世界の一流を見て、その最大公約数が見つかったのだという。

スウィングの理想は、真円で、それに近いのが、ニクラスだった。

日本では、ジャンボ尾崎と戸田藤一郎……。

そして、フルショットを覚えるために、6番アイアンからスタートする。なぜなら、ドライバーとサンドウェッジの中間が6番アイアンだから。6番アイアンのハーフスウィングで、体幹で打つことを覚えるのだ。

きみは、それを「ショートスウィング」と命名したね。

今、日本の女子ゴルフは、呆れるほど強くなってしまったが、始まりは、30年前の坂田塾だった。

「外国人との体力差、女子には、ほとんどないんだよ」

あのときの、自信ありげなきみの表情が蘇ってくる。

  *  *  *

「ゴルフするより面白いゴルフ雑誌」というのが、この雑誌のコンセプトだった。

「変なことを言う編集長」と思われていただろう。が、あの時代、B5版200ページくらいの小さな舞台で、素敵な役者が面白いゴルフを演じてくれた。

坂田信弘の『ゴルフ野性塾」を筆頭に、

歴史の語り部、夏坂健の
『アームチェア・ゴルファーズ』

レッスンの神さま、福井康雄の
『自然がいいんだ』

正統派、中部銀次郎
『わかったと思うな』と、心の持ちようを説き、

百歳のエージシューター塩谷信男さんの
『ボビーよ、待っとれ!』が、生きるコツみたいなものを教えてくれる。

そして、ゴルフを始めた「オヤジギャル」の好奇心を全開させた『中尊寺倶楽部』の中尊寺ゆつこ。

皆、いなくなってしまった。

早逝してしまった中尊寺ゆつこさんの『中尊寺倶楽部』。きみはオヤジギャルたちに愛されるキャラクターだった

  *  *  *

「ノブタカさん」

1年ちょっと前の、きみの電話の声が蘇る……。

「ノブタカさん、オレたちの出会いは、ほんとうに、運命的だった」

僕は、皆と同じに「さんちゃん」と呼んでいたが、40年間僕にはさん付けで呼んでくれた。

じつは、僕ときみとは、団塊の真っただ中、生まれた日が4日違いで、きみがお兄さんである。

不運にも、きみの二人の弟さんが、同じ月に亡くなったばかりだった。そのせいか、いつになくしんみりした声だった。

「運命的だった。ノブタカさん」

僕は、「うん」と答えただけだった。

そろそろ「思い出」を肴に酒を呑みたい頃だった……。が、きみは、呑めなかったんだ。

っていうか、もうきみはいなくなってしまった。

合掌!

中村信隆
元・ゴルフダイジェスト社専務取締役、主幹。1984年から2008年まで『週刊ゴルフダイジェスト』の編集長

週刊ゴルフダイジェスト2024年9月3日号より