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【ゴルフせんとや生まれけむ】金村義明<前編>「ゴルフ場で腕立て・腹筋してました」

ゴルフをこよなく愛する著名人に、ゴルフとの出合いや現在のゴルフライフについて語ってもらうリレー連載「ゴルフせんとや生まれけむ」。今回の語り手は、 元プロ野球選手の金村義明

母親がゴルフ場でキャディをしていたので、ゴルフは子どものころから身近でした。叔父さんからもらったボロボロの7番アイアンが家にありましたから、それを持って田んぼに行き、ボールを打っていました。母親が勤めていたゴルフ場に忍び込み、勝手にゴルフをしてグリーンキーパーに追いかけられたことも……。時代ですね。

本格的にラウンドをしたのは高校3年のときです。夏の甲子園で報徳学園のエースとして優勝したことを滋賀県に住んでいたはとこが大変喜んでくれて、フルセットをプレゼントしてもらいました。

優勝して地元で名前が売れ、マスコミに追い回される立場になりましたから、はとこが滋賀の米原に1週間くらいかくまってくれました(笑)。そのときに近江富士(現・近江ヒルズゴルフ倶楽部)や彦根カントリー(倶楽部)などのゴルフ場に連れていってもらいました。初ラウンドのスコアは49・56の105でした。最初はスライスばっかり打っていましたけど、そのころからゴルフは面白かったですね。

プロ野球に入ってからも、オフはゴルフばかりでした。近鉄はゴルフがそれほど盛んではなく、招待コンペはほとんどありませんでしたが、プライベートで行く機会が多かったです。姫路の社会人野球チームの新日鉄広畑からチームに入ってくる選手がいましたので、青山ゴルフクラブ(兵庫県)のローハンディの方を中心に近鉄バファローズ後援会を作っていただき、そこでオフにコンペをするのが恒例行事でした。

僕の叔父さんが審判と仲がよかったので、審判ともよくゴルフに行きました。審判もゴルフ好きな人が多いんですよ。𨂊池(はすいけ)(均)さんは審判を辞めた後に北海道でレッスンプロをしていましたし、現役の審判では丹波(幸一)もレッスンプロの資格を持っていますよ。

近鉄時代は投手コーチの権藤(博)さんが、ゴルフが上手でした。そのときに(ラルフ・)ブライアントが入ってきて優勝したので、権藤さんが3Xのシャフトでブライアントにクラブを作ってあげました。それでコンペに出したら全然だったのが、引退してフロリダで毎日ゴルフをしていたらめちゃめちゃうまくなっていました。仰木(彬)監督とブライアントと一緒に回ることもありましたね。仰木監督はキャンプ中も深酒をするよりゴルフに行って体を動かすほうがいいという考えの人でした。ゴルフ場で腕立て伏せや腹筋をしたりして楽しいゴルフでしたね。

ベストスコアの74が出たのも近鉄時代です。1994年にFAで近鉄を出て中日に行くことが決まりましたから、早めにオフを迎えました。その時期に毎日ゴルフに行って好スコアを連発しました。温泉治療で岐阜のユーグリーン中津川(ゴルフ倶楽部)に行き、そこのプロのクラブを借りてプレーしたら、そのときも74くらいで回りました。ただ、そこから先は手首を手術したり、靱帯を断裂したりしたので、中日時代と西武時代はゴルフはほとんどできませんでしたね。

金村義明

1963年、兵庫県生まれ。81年夏の甲子園で報徳学園のエースで優勝。81年ドラフト1位で近鉄に入団。三塁手としてレギュラーを獲得。95年にFAで中日に移籍。97年にトレードで西武に移籍。引退後は野球解説者・タレントとして活躍

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週刊ゴルフダイジェスト2022年11月8日号より