【ゴルフ野性塾】Vol.1817「苦労した記憶はない。ただゴルフが好きだった」
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古閑美保、上田桃子など数多くの名選手を輩出してきた坂田塾・塾長の坂田信弘が、読者の悩みに独自の視点から答える。
過ぎし日を
想って
過ぎし日、近付く事はなかった。
勿論、戻る事もだ。
しかし、過ぎし日を想えば己の若さと出会う事があった。
今、私は76歳を過ぎて77歳へ向う途中の者。
父は49歳で鬼籍に入った。
高校2年生だった。
私は父の逝った年齢を生きる目標とした。
49歳は若い。
それでも高校生の私には遠い年齢だった。
結果を申せば太くも細くもないが濃く生きて来れたと思う。
80歳迄と想えばゆっくりとした生き様になったのではないかとの想いは生じる。
結果は大事だ。
生き行けば成功よりは失敗の方が多い筈。
そして、成功でも失敗でもない結果の方がもっと多かった想いを持つ。
悪い結果は忘れて来た。
ただ、悪い結果生じた原因は分析の必要があった。
結果も原因もイヤなものからは遠ざかれとばかりに忘れるは勿体なさ過ぎる。
30歳。ゴルフの練習が仕事だった。
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野性塾大濠公園18人衆と集うた。
寒い日だった。
ただ、誰一人、寒い日ですネと言う者はいなかった。
寒いな、と言うは私一人。
熱いカフェラッテが5分後には冷えてしまう寒さだった。
「今日は質問を聞く。悩んでいる事、疑問を感じる事を聞いてくれ」
一人の男が手を挙げた。
「坂田プロにとって大切なものは何でしょうか? 30歳、40歳、50歳、60歳、70歳。そして今、大切にされているものを教えて下さい」
「大切なものか。簡単に答えの出る質問じゃなさそうだ。少し考えさせてくれ」
カフェラッテを飲んだ。
濠の水を見た。
暗い色だった。
雲は低かった。
大濠公園スターバックスから眺める事出来るのは西空と南空。
東、そして北の空はビルと樹木に遮られて見る事は出来ない。
大切なもの、何だったかなと考えた。
30歳の時、40歳の時、私は何をしていたんだろうと思った。
幼き頃の記憶は結構残っている。
しかし、30歳迄行くと記憶定かでない部分が多い。
プロテストに通り、ツアー参戦し、結婚し、長男雅樹が生れ、福岡県豊前市の雇用促進住宅に住み、朝6時から12時迄、自転車で山道を走り、午後は周防灘CCで球叩く日々だった。
試合のある時は電車とバスで試合地に向った。
私は免許証を持たない。
取る時期は貧乏だった。
食うに精一杯だった。
免許証取れる生活になった時はゴルフが忙しくなり、その後、執筆生活も加わって免許証は諦めた。
女房もそうであった。
お互い、豊かな家庭環境ではなかった。
ただ二人共、その生活に満足していたと思う。
雇用促進時代。女房の財布の中、395円入っていた。千円札はなしだ。
冷蔵庫は梅干し1パックを除けば空っぽだった。
今日一日過せば明日は周防灘から給料が出る、と女房は楽観的だった。
行く処迄行けば人は楽観的か悲観的になるものだ。
その時の楽観的悲観的性分はいずれも強きものを持つと思うが、女房は395円で過し切った。
食えんプロゴルファーの女房も大変だなと私は言ったが、その時の女房の返事が面白かった。
「大丈夫よ。食べる物なくなれば団地の外の畑耕してるお婆さんとこ行ってお願いすりゃいいんだから。大根1本分けてくれませんか。お支払いは明日の午後になりますが。あるいは団地の中に友達沢山いるから御飯分けて頂戴と頼んでもいいのよ。田舎生活に困難なしッ」
あの時の女房の明るさが30歳の大切な時だったのかと思う。
ツアー参戦。予選通るか落ちるかの生活が続いた。
そのレベルのプロに用具契約、ウェア契約なんて有難い話ありゃしない。
予選通れば賞金の半分は次の試合の経費として貯えた。
2試合連続で予選落ちすると一遍にツアー参戦状況は悪化した。
女房は周防灘の給料で生活した。
私は一度も周防灘の給料、手を付けた事はない。
高い給料ではなかった。
でも、それで充分だった。
周防灘では練習が私の仕事だった。
出勤するもしないも私の勝手にさせてくれた。
私は女房の不平不満を聞いた事がない。
周防灘には私に餌を与えて忠犬を求める人はいなかった。
ツアー参戦時代も今もアマチュアの方に指導頼まれはするが指導料貰った事は一度もない。
一度もだ。
好き勝手に過して来た。
全国各地に友がいた。
試合地、友の家に泊めて貰った。
送り迎え付き、食事付きの大名待遇だった。
周防灘の支援、友の支援なければ現在の私はなかった。
苦労したとの意識もない。
ゴルフが好きだった。
その想い強き30歳から35歳の日々だったと思う。
気付かなかった。
熱いカフェオーレが置いてあった。
「気が利くな。疲れないか?」
「疲れません。緊張高まる程に周り見える様になっています」
「緊張するのか?」
「します。ただ、恐怖含む緊張ではありません。喜びと楽しみ入り混じる緊張です」
「そうか。喜びか。今、想えば私の大切なもの、喜びであった様な気はする。27歳と11カ月の時にプロテストに通り、翌年ツアー参戦。結婚もした。長男雅樹も生れた。ツアー成績は悪かったが小さな目標は出来た。練習が楽しかった。パットの練習だけはイヤだったが。どうして上手く行かないのかの原因がコロコロ変るから考えるのもイヤになった時期がある。考え過ぎたのかも知れん。もうチョット時間をくれ」
熱いカフェオーレを飲んだ。
今日、3杯飲むな、との予感がした。そして4杯目は紅茶か。
その日の支払いは私だった。
このカフェオーレ代、誰か払ったのか、と思った。
立て替えてくれた者に金を渡すべきかと考えた。
私も気は使っていた。
この日、半袖の下着2枚、カシミアのタートルセーター1枚、ダウンジャケットを着ていたが、この冬初めての下着2枚重ねの日だった。
寒かった。
木の葉が舞った。
遊歩道を飛び跳ねるが如く転がっていた。
以下、次週稿―――。
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坂田信弘
昭和22年熊本生まれ。京大中退。50年プロ合格
週刊ゴルフダイジェスト2024年2月20日号より
>>坂田信弘への質問はこちらから
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