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【ゴルフせんとや生まれけむ】広橋公寿<前編>「8回目のラウンドで80台を飛び越して70台が出てしまいました」

ゴルフをこよなく愛する著名人に、ゴルフとの出合いや現在のゴルフライフについて語ってもらうリレー連載「ゴルフせんとや生まれけむ」。今回の語り手は、 元プロ野球選手の広橋公寿氏。

プロ野球選手はプロに入ってからゴルフを始める人が多いのですが、僕は大学時代からゴルフを始めていました。初めてクラブを握ったのは大学3年生のときです。大学は福岡の八幡大学で、今は九州国際大学に名前が変わっています。3年のときに大学選手権に出場したのですが、1回戦で負けて福岡に帰ってきたんですね。そうしたら当時つき合っていた妻の父親に「ゴルフやったことあるか?」と聞かれたんです。「いや、ないです」と答えたら、「じゃあ明日行こう」と言われたんですよ。クラブは妻の弟のものを借りました。妻の父親から「練習場に行ってこい」と言われたので、練習場に行ったら、これが意外と当たるんです。それで、次の日にゴルフ場に行ったら、55・56の111で回れました。パーを取ることもできて、「おまえ、すごいな」と褒められて。それからゴルフが面白くなりました。

大学から車で15分くらいのところにショートコースがあったんですが、大学野球部の活動が試験休みに入ると、僕ともう1人ゴルフ好きな友達がいて、2人で行くようになりました。貸しクラブがあって、確か2000円で回り放題でした。ショートコースを回るようになるとサンドウェッジが得意になり、2回目のラウンドが102か103で、3回目のラウンドで90台のスコアが出ました。それ以来、100を打ったことがないんですよ。そして8回目のラウンドでなんと34・41の75が出ました。それまで80台も出したことがなかったのに、80台を飛び越して70台が出たのでビックリしました。

でも、大学を卒業してから東芝で2年間、社会人野球をしましたから、そのときはほとんどしなかったですね。ゴルフを再開したのはプロ野球に入ってからです。西武はゴルフが盛んで、1年目のシーズンが終わると納会ゴルフの前に松沼兄弟(兄・博久、弟・雅之)からゴルフに誘われました。そのとき82くらいで回ったので、普通は新人選手なら納会ゴルフのハンディキャップは28もらえるのに、14に減らされました(笑)。それでも上位に入ったので、東尾(修)さんから「おまえ、うまいんだな」と、かわいがってもらえるようになりました。当時の西武はコンペのベスグロが東尾さんか、(投手コーチの)八木沢(荘六)さんのどちらかでした。ですから2人に勝ってベスグロを取るのが目標になりました。

何年後かのコンペで僕が前半のハーフをパープレーの36で回ったことがありました。そのとき東尾さんが37か38で、八木沢さんが34でした。僕は「後半追い上げなければ」と、最終ホールまで1オーバーで粘り、18番パー5で2オンが狙える位置にティーショットを運びました。ここは2オンしないとベスグロが取れないと思い、2オンを狙ったらキックが悪くて池に落ちてしまいました。結局、そのホールはボギーで、36・38の74でした。「ベスグロはダメだったか」と諦めていたのですが、実は八木沢さんが後半41を叩いていたので、逆転でベスグロが取れました。あれはうれしかったですね。

>>後編につづく

広橋公寿

広橋公寿

ひろはし・こうじゅ。1957年福岡県生まれ。80年ドラフト外で西武に入団。6度のリーグ優勝と5度の日本一に貢献。89年オフに中日、90年オフに福岡ダイエーホークス(現ソフトバンク)に移籍。91年現役引退。長女の夫は元メジャーリーガーの岩隈久志

週刊ゴルフダイジェスト2023年8月8日号より