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「イップスのおかげでゴルフについて考えるように」カシオで復活Vの堀川未来夢がつかんだ新境地

先日の「カシオワールドオープン」で優勝した堀川未来夢は、「イップスになってよかった」と述懐した。その真意とは?

2年前、いちばんの武器だったパットで、突然イップスを発症したという。肝心なところで右手が悪さをする。

「ブレーキをかけるような感じだったり、水中で打っているような感じ」になり、読んだラインに乗せることなど不可能になったと堀川。

事態が好転し始めたのは1年前、練習グリーンでイップスが発症したことを逆手に取ったことがきっかけ。「本番でなら対処できないが、練習グリーンなら対策を練ることができる」と、10本以上のパターをテストし、あらゆる打ち方や呼吸法を試して、それをラウンドで活用したという。カシオでも14番でイップスが顔を出しかけたが、練習場でつかんだ対処法の1つで乗り切った。

「課題があったほうが練習に打ち込めるし、ゴルフについて考えるようになった。イップスのおかげです」

ちなみにイップスはゴルフに限ったものではなく、『局所性ジストニア』という神経疾患の一種に分類される、れっきとした“病気”。医学界では明確な治療法はまだないとされているが、ゴルフの世界では、名手たちが経験的にその克服法を語っている。

ここで、コース設計家・川田太三氏がトップアマ時代に学んだ2つの方法を教えてもらおう。

「まずはヘール・アーウィン。イップス発症中だった、とある試合で『ボールの左半分、カップの向こう部分を見て打つこと』を実践し、その試合で優勝しました。そしてジャック・ニクラスの恩師ジャック・グラウト。『ドライバーイップスを治すには、スタンスを狭く、ボールに近く、グリップを高く構えてインサイドにテークバックしてフックを打つことで、下半身を使わざるを得なくなる。上半身だけを使うから動かなくなるんだ』と言っていました」

悩んでいる人は、先人たちの英知に頼るのもあり?

イップスと真正面から向き合い、2年半ぶりの優勝を手にした堀川(PHOTO/Tadashi Anezaki)

週刊ゴルフダイジェスト2021年12月21日号より

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  • <カシオワールドオープン/Kochi黒潮CC(高知)/7335Y・パー72/11月25日~28日> 高知県のKochi黒潮CCで行われたカシオワールドオープンは、堀川未来夢が初日から首位を譲らない完全優勝で2年ぶりのツアーVを果たした。 PHOTO/Tadashi Anezaki カシオワールドオープンの主役になったのは堀川未来夢。初日に8アンダーで首位に立つと一度も首位を譲ることなく圧倒的な強さを見せ、初優勝した19年ツアー選手権と同じく完全優勝で2勝目を飾ったが、実は19年ツアー選手権で勝ってからショットとパッティングが悪くなり、正直「戦えないレベル」だったという。最終日も「14番のパッティングからおかしいと思い始めた。『キャディさんとも出てきちゃったね』と話をしていました」というが、何とかしのぎ切り、最終ホールのバーディパットを決めて渾身のガッツポーズを見せた。今大会で賞金シードが決定。大会前に当落線上にいた選手たちは、シード権をかけて争ったが、塩見好輝、藤本佳則、藤田寛之は予選落ちしてしまい早々にシード陥落が決定してしまう。さらに武藤俊憲、正岡竜二は、生涯獲得賞金上位の資格で出場を続けていた手嶋多一とともに予選を通過したものの、いずれも上位に入ることは叶わず、来期のシード権を手放した。また、賞金王争いは最終戦に持ち越されたが、現在ランキング1位のチャン・キムと4位の星野陸也の差が約2400万円。優勝金が4000万円なので、2位以下の選手にもまだまだ可能性が残されている。果たして誰が賞金王のタイトルを手にするのか⁉ 「アジアアマ」を制した中島啓太は通算11アンダーで14位タイに入りローアマを獲得した <カシオワールドオープン・最終成績> 優勝堀川未来夢-192位T宮里優作-172位T今平周吾-174位T塚田陽亮-164位T香妻陣一朗-164位T金谷拓実-167位Y・E・ヤン-158位石坂友宏-14 賞金王争いは最終戦へシード権は確定 来季ツアーのシード権は賞金ランク65 位までに与えられるが近藤智弘がシード復帰を果たした一方で、藤田寛之等5人がシード権を失った。また外国人選手には「コロナウィルス感染症入国制度」が適応され、規定試合中に今季賞金ランク65 位以内に相当すればシード権が与えられる >>初シードを獲得した15選手をご紹介! 週刊ゴルフダイジェスト2021年12月14日号より こちらもチェック!
  • TEXT/Minori Fukushima PHOTO/Shinji Osawa、Hiroyuki Okazawa THANKS/森永製菓トレーニングラボ 7月のニッポンハムレディスでレギュラーツアー初優勝を飾った堀琴音。プロ入り8年目、プレーオフ3ホール目を競り勝っての勝利だった。苦しみ悩んだ時間。“こっちゃん”は逃げなかった――変化の3年を追った。 ほり・ことね。1996年生まれ、徳島県出身。2014年プロテスト合格。翌年賞金ランク33位でシードを獲得、LPGA新人賞に輝く。2018年にシード落ちを喫し、不振にあえぐも、今年ニッポンハムレディスで復活優勝を果たした 「バンザイした後悔しい3年がフラッシュバックした」 初優勝から1カ月。堀琴音は今日も、ルーティンとなっているトレーニングとケアのため、森永製菓のトレーニングラボにいる。ここで週1~2回、1時間ほど汗を流す。「ここではケアも含めたコンディショニングトレーニングを行っています。ゴルフは捻転する競技。回転のスピードを上げるメニューも入れて、堀選手本来の正しい体の使い方を身につけてもらいます。当初は体幹トレが全然できずキツイと言っていましたから、基本からやり直しました。今は応用的なこともこなせるようになった。モチベーションも上がり、意識が変わってきたのがわかります」19年から担当についたトレーナーの中島裕がこう語る隣で、堀は少し照れくさそうに「私のキャラじゃないですよね。でもやらないと試合に出続けるのに体がもたない。“キャラ変”です」と話す。そこには20歳のときに話を聞いた“こっちゃん”はいない。「5年経ちましたから。逆にあのままだとヤバイでしょう」期待を背負って戦い続け、どん底まで落ち、這い上がり、初優勝でステージを1つ上げたこっちゃんは、確かに逞しくなった。ウィニングパットを沈めた瞬間――堀は頭が真っ白になったという。そして嬉しくてバンザイをして周りの光景を見たとき、「優勝している人が見るのってこういう光景なんだ」と感じた。「でも、そのとき、一気に過去がフラッシュバックしたんです。悪くなってからの3年がブワーッと押し寄せた。あのときはあんな球を打ったなとか、試合であんなに右に打ってOBしたなとか、裏で『琴音ちゃんはもうムリだよ』と言う人がいたことを思い出したり……3年間悔しかったことが1つずつ頭に思い浮かびました」そうして次にきた感情は「頑張ってよかった」だった。「気づいたら泣いていました。こらえられなくなっちゃって。でも、すぐに(プレーオフの相手、若林)舞衣子さんに謝りにいったんです。最後の握手もせず、すぐにいなくなってしまったから」表彰式のときには、本当にゴルフをやめなくてよかったと思えた。「初めて自分を褒めていました。今日は、そうしてもいいかもしれないと思えたんです」 7月のニッポンハムレディスで、若林舞衣子とのプレーオフを制し逆転優勝。プロ8年目で涙の初優勝を果たした * * 1996年、徳島で生まれた堀琴音は、姉の奈津佳とともにジュニア時代からトップ選手だった。経歴は華麗で、14年にはステップ・アップ・ツアーでアマチュア優勝、直後のプロテストは3位通過、その後再びステップでプロ初優勝を飾り、翌15年には賞金ランク33位で初のシード権獲得。16年は日本女子オープンで2位に入り賞金ランクは11位。レギュラーツアー初優勝はすぐそこにあるように思えた。17年は5週連続トップ5入りなど賞金ランク21位。ただ、期待が大きいぶん「勝てそうで勝てない選手」などと言われたりもするようになる。この頃、堀自身に違和感が出はじめる。「少しずつ、調子が悪いな、球がつかまらないな……と。そして17年の終盤は予選落ちが続き、エリエールレディスで6番アイアンをすごく引っかけてOBになったんです。そのホールはトリプルボギー。その1打の感覚が体に残っちゃって。引っかけがイヤで、右にしかいかなくなった」そのオフは違和感を直すために猛練習した。するともっとわからなくなった。真っすぐ飛ぶ感じがしなくなった。そのうちパッティングまで悪くなっていった。「噂も聞こえてくるんです。あの子、絶対イップスだよねと。でも自分ではイップスじゃないと思っていた。周りはそう言えばいいと思っているんでしょうって。そうしたらもう、周りの言うことも聞けなくなっていく。私の気持ちなんかわからない、と思うと言葉が耳に入ってこないんです」予選落ちが続くと時間ができる。より多くの時間を練習に費やす。「ドツボですよね。眠れなくもなった。疲れも溜まって悪循環です。腰や肩甲骨も張って体も悲鳴をあげていた。気晴らししようと言われても、ゴルフが上手くできないと何をしても晴れないんです」そんなとき、プロコーチの森守洋と出会った。18年のことだ。同じように「悩んだ」経験がある原江里菜が声をかけてくれた。「すがる思いでした。どうすればいいか、右も左もわからない状態。一緒にスタジオに行ったんです」森とは最初からフィーリングが合った。「私、イップスですか? と言ったら、何言ってるの、そんなわけない。こっちゃんがイップスだったら皆そうだからって。そう言ってくれる人がいなかったから嬉しかったし、そういう考えを持っている人とだったらやっていけるかもしれないと思えたんです」森は、原江里菜を不調から立ち直らせている。その実績も信用できた。そしてアドレスの仕方から一つ一つ、細かく教えてくれた。「アマチュアも教えているからか、プロだからそんなこと当然わかっているという感じではなく、一から教えてくれる。私もう、すべてがぐちゃぐちゃだったんです」しかし、簡単に結果にはつながらない。焦りもした。「ずっと焦っていました。早くよくならないといけないって。19年のQTも本当に悪くて……諦めそうになった自分もいました。もうムリじゃないかと」 逃げたと思われたくない練習は裏切らない 何度もゴルフをやめようと思った。それでもやめられなかった。「今やめたら逃げたと言われる。世間にそう思われるのはイヤだ、忘れられたくないと思いました」こっちゃんは、逃げなかった。すると、すべてがつながるときがくる。それが、今年の開幕戦、ダイキンオーキッドレディスだった。ここから堀の“キャラ変”が実を結んでいく。まずは、フェードボール主体のゴルフに変えた。「森さんに言われて思い切って変えました。もとはドローヒッターでこだわりもあった。昔、打てていたから今も打てるはずと頑固な自分がいて。ドローのほうが飛ぶと思っていたし、フェードだとイヤなスライスになって距離が落ちると困るとも思いましたが、上手くフェアウェイにいったんです」 もともとショットメーカーの堀。パーオン率は16年が70.8%だったが、17年は67%、18年は57.9%、19年は58.2%までに落ちた。現在は70.2%でその復調ぶりがうかがえる 堀のスウィングに合った球筋はフェードボールだと見抜いていた森の、絶妙のタイミングでのアドバイスだったのだろう。今年の2月から森の紹介で師事するパッティングコーチの橋本真和の指導もハマった。「森さん、いいものは取り入れるべきと友だちを紹介してくれました。今までと真逆なことを言われてびっくり。テークバックは低く上げようとしていたのに、高く上げるようになったり。でもダイキンの初日からフィーリングがよくて、2日目には入るようになって69が出たんです」自信は確信となり結果を生む。この試合で予選を通過したことで、さらに噛み合って進み始めた。「すぐにキャロウェイの方に、フェード用のヘッドとシャフトにしてもらい、球の右滑りもなくなった。クラブに助けられるなんて思っていなくて。昔のクラブで打てば感覚が戻ると思い使っていましたが、道具でヘッドスピードが上がったり、ボールコントロールできるようになるとわかりました」 優勝した試合もフェードボールで攻めた。 結果は、新しいことを吸収しようとする意欲を堀のなかに生む。「“ザ・フェード”のイメージの有村智恵さんとプライベートで回り、アドバイスをいただきました。もっとトレーニングしたほうがいいとか、スウィングはよくなってるから連戦に備えてもっと鍛えたほうがいいとか。森さんにも、フェード打ちで固めるなら、今はスウィングばかり意識しているけど、もっと体力をつけるよう言われた。すると今度はトレーナーさんが、私のスウィングに合わせて、ねじり系のクロスっぽい動きをメニューに入れてくれたり。ボールの勢いが強くなりましたし、1年通してよいパフォーマンスを続けるための土台もできてきました」 17年から通う「森永製菓トレーニングラボ」。今は、スウィングにつながる体幹トレーニングが中心メニューだ。最初は10回で息が切れていたトレーニングも、より負荷をかけてできるようになった。「自分がいいと思ったことは頑張って取り組めます」 そうして森がバッグを担いだ6月のアース・モンダミンカップで4位タイに入った。「アースの最後のパットは緊張しました。これでシードが決まるかもしれないパット。シードを持っている人からしたらただの1.5mかもしれないけど、私の立場では勝負の1.5mだった。でもそこで『打ち方がわからない、手が動かない』となったんです。すると森さんが『そこに出すだけのイメージでいくしかないよ』って。その通りに打ったら入った。これがまた自信になった。そこからは戦う心の余裕も出てきました」このとき、森には確信めいたものがあったようだ。「ラインがバンバン出ているから、優勝も近いよ」と堀の母にこっそり話していた。そしてニッポンハムレディス。最終日前日の堀のコメント「貪欲に頑張ります」を聞いて、森の確信はより強くなった。「確かに私、今までそんなコメントをしたことがなくて。自然に出た感じです。森さん、たまたまお客さんと小樽に来ていて、最終日の終盤、会場に来てくれた。そういうタイプの人ではないと思っていましたが『おめでとう』と言ってくれて。教える立場の人も、必死に一緒に戦ってくれていたんだと思いました。コーチを代えるのってすごく難しい。私も正直迷いました。前のコーチのこともすごく好きだし尊敬もしている。人としてムリに別れたわけではない。でもやっぱり、タイミングもあるし、流れがきていたんでしょうね」 いつか、姉妹で優勝争いを ツアー2勝の姉、奈津佳は、琴音が見ていないところで妹の優勝に涙したらしい。現在、井上透のもとで再起を図っている。別々に暮らしているが、ゴルフの話もするし、応援し合う。「お姉ちゃんに偉そうには言えませんが、きっともがいてると思うので、頑張ってほしいと思っています」 自分がよくなっていくのを見るのは楽しい 自分のことを「頑固だ」というこっちゃんは、多くの出会いと積み重ねた練習で、知識と経験という水を吸収し花を咲かせた。こっちゃんは変わった。でも、相変わらず可憐で、泥臭くもある。「私の座右の銘は『練習は裏切らない』。ルーキーキャンプで岡本綾子さんが、練習は裏切らないのでしっかり練習してくださいと言ってくださったことがすごく心に残っています。私はやっぱり我が強いんです。基本的には自分で決めてやろうとしますが、コーチ、トレーナーさん、栄養士さんなど自分以上に詳しい方々の言葉を聞ければ、心強いし、より成長できることがわかりました」今後の課題を聞くと、「全部です」と貪欲な答えが返ってきた。「技術面も体力面も、まだまだ足りないものが多い。でも、こう言えるのも優勝したからですよね」結婚願望はまだない。今はゴルフがしたいとはっきり口にできる。「一応、まだ25だと思っているんですが、試合で同組のなかで一番年上のときもあります(笑)」20歳の頃から探している趣味もまだ見つかっていない。「バッティングセンターに行くくらいかな。ネットショッピングも好きですが、それって趣味でしょうか(笑)。配信動画のドラマは見ます。『相棒』や『ドクターX』が好き。大門未知子と杉下右京には会いたい。一緒にラウンドしたいくらいです。でも結局、家でもゴルフのことを考えています。どういうトレーニングをしたらいいか、食事は何がいいだろうとか……」ゴルフ漬けのこっちゃんの日々はしばらく変わりそうにない。「次の目標は、まず2勝目。早く達成したいから、その先の目標はまだ考えられません。私はゴルフが好きなんですよね。仕事ですが、仕事の感じがしない」変わらず“黒髪ロング”のこっちゃん。「短い髪は似合わないし、気づいたら黒髪のままでした。ここまできたら、白髪になるまで頑張ろうって(笑)」真っすぐ、長く、しなやかに――そんなこっちゃんを、これからもずっと見ていきたい。 週刊ゴルフダイジェスト2021年9月14日号より こちらもチェック! https://my-golfdigest.jp/lesson/p30197/ https://my-golfdigest.jp/tournament/p33437/
  • PHOTO/Tomoya Nomura、Yasuo Masuda 抜群のスタイルと美貌と飛距離でプロ入り後注目を浴びた高島早百合。いつしか表舞台から姿を消したように思えたが、今やユーチューブでも人気の飛ばし女子。彼女の人生は自分の「存在意義」を探す旅でもあった――。 京都には、千年の都が醸す優美な明るさのなかに、ふとした暗さを感じさせるものがある。それは、千年の間に起きた幾多の政争で流された血が、この地に染み付いているからだという人もいる。 そんな明と暗が織りなす京都で生まれ育った高島早百合のこれまでのゴルフ人生も、明暗、わかれる17年間だった。 12歳でゴルフを始め、15歳のときに京都を離れ東北高校のゴルフ部に入る。高3で東北ジュニアで優勝し、卒業の年にプロテストに一発合格。期待の新人として注目を浴びるなかでプロ生活をスタートしたものの、ショットイップスに悩み、その後、低迷。16年から3年間は、13歳からの師匠である和田正義のもと、仙台で再起を目指す。18年に出場したドラコン大会で当時の女子日本記録「365Y」で優勝。以後、ドラコン女王として再び注目を集めるようになった。 それにしても、スター選手になり得る資質を人一倍持ちながら、どうして高島早百合はイップスに侵されツアーの一線から離れることになったのか。話を聞いていくとどうやら、子どもの頃から彼女が自らに問い続けた、『自分の存在価値は何なのか』という強烈な自意識が仇になったのかもしれない。 「飛ばすことがなかったら何の価値もない」と思っていた 高島が12歳でゴルフを始めたのは父親の勧めがあったからだった。 「スポーツは何でも得意で、小学校では習い事で水泳と部活で陸上をやっていました。中学校に上がるときに父がテニスかゴルフをやったらどうかと提案してきて、私はテニスをやりたかったけれど、結局、家の近くのゴルフ練習場のスクールに入りました。後に母親から、私は運動神経も良かったし、活発だし、負けず嫌いだし、将来スポーツで生計を立てていけるのではという期待もあったと聞きました」 ゴルフを始めて半年後に初めて出た試合で「100」を切り、3位入賞で表彰された。これを境に生来の負けず嫌いの性格に火が付き、練習に打ち込むようになったが、周囲は6歳からゴルフを始めた子ばかりで、12歳から始めた高島との差は歴然。高島は運動能力は抜きん出て良かったが、ゴルフの技術に関しては大きく遅れをとっていた。そんななかで唯一、誰にも負けなかったのが飛距離だったのだ。 「最初から、私より前にゴルフを始めた子たちよりも私のほうがずっと飛んでいました。でもそこに優越感はなく、それでようやくプライドを保っていた感じでした。他のモノがみんなよりも下手だったので、『私は飛ばすことがなかったら何の価値もない』と思っていましたから」 飛ぶことに最大の優越感を見出せるオヤジゴルファーのごときメンタリティを持てればよかったのだろうか。飛ぶことが今の自分の唯一の存在価値であるとする生真面目さが、その後も高島を追い詰めるのである。 中学2年生のときに、父親の仕事関係から紹介され仙台のプロのもとに夏休みの1カ月間、母親が付き添いレッスンを受けにいくことになった。それが和田正義だった。ツアープロだった和田は、2006年にLDA世界ドラコン選手権日本大会で優勝したドラコン界のレジェンドだ。このときから高島にとって和田は、「師匠」と呼ぶ存在になった。高校進学で東北高校を選んだのも、仙台で和田に教えてもらえることが大きな理由だった。 東北高校に入った当初は全国レベルにほど遠かった実力が、3年生のときには東北ジュニアで優勝し、全国のトップレベルに手が届くまでになっていた。そして、高校卒業の年にプロテストに一発合格する。折からの女子プロ人気のなか、美人で高身長、おまけに超ロングヒッターの高島は俄然メディアの注目の的となった。目の前に明るい未来が開けたようだが、それは高島の生真面目さから予想外の暗転をする。 「プロになりたてで、まだ成績も出せていないのに、メディアの人たちが寄って来て、突然世間から注目され、そのうちにスポンサーが付いてくれて。そうなると期待もされるわけだから、それなりの結果を出さないといけないという気持ちが強くなり、次第に失敗はできないんだと思うようになったんです」 しかし、なかなか期待通りの活躍ができないなか、QTで失敗した高島は、ショックからショットイップスに悩むことに。 「プロ入り後、3回目のQTのセカンドで落ちたときです。通って当り前と思っていたので、結構なダメージでした。落ちた原因が、まずドライバーで右にプッシュアウト、その後にアイアンで2回の引っかけ。こういうミスをしたらこういう結果を招くという『失敗体験』が体に残り、それがイップスの始まりです」 2010年の日本女子アマでの高島。ゴルフを始めた頃から“飛ばし屋”だった自分の武器にがんじがらめになり、周囲の期待が「失敗できない」気持ちを生み、イップスに。「逃げたいたわけじゃない。立ち向かおうとしたからこそドツボにハマッた」 「失敗できない」「逃げちゃダメ」悪循環に陥った 高島は、自分が陥ったイップスというゴルファー特有の病の恐ろしさについて、そして、それがいかに他人に伝わらないか、そして、世間はそういった心の病に関していかに無知で時に冷淡かを、滂沱(ぼうだ)のように語り始めた。 「打つ前はボールの周りの景色がゆがんで見えるし、体中がぞわぞわする変な感覚に襲われ、何とかクラブを上げても、ダウンスウィングで腕の力が入らない。でも、腕が動かなくても『打たないといけない』と思うと、体で打ちにいくんです。そうまでして試合に出たのは『存在意義』のためです。プロゴルファーというものは、スポンサーやファンのためにも試合に出ることに存在意義があると思っていましたから。だからもうすべてがプレッシャーで、失敗したらまたこれでスポンサーや応援してくれる人に恩返しができなくなる。そう思うとショットが怖くなるじゃないですか。本当は、試合に出続けたかったわけじゃないんですよ。でも20代前半で、ここからでしょうと言われているときに、とりあえず休みたいとか言うと、『そんなのは逃げでしかない』と言われるし、そう言われたら、逃げちゃダメだって思うじゃないですか。まあ、苦しかったですね」 滂沱のごとく語る高島が、本当に泣いているのではないかと思い、目を上げて彼女の顔を見たら、そこには、しっかりと目線を据えてこちらに訴えかける目があった。 「私が96のワーストスコアを出したときに、姉が『なんかヤフーにコメント載っていたから大丈夫かなと思って』ってわざわざ連絡をくれて(笑)。見ると『こんな下手くそを出す主催者側の意図がわからない。もっと有望な奴を出せ』とか『プロ辞めたほうがいい』とか。ソレを見たときに、当たり前だけど、こっちの事情や過程なんて見せられないわけだから、やっぱり数字なんだなって。イップスって運動障害的なこともあるけど、精神的なことも相当にあると思う。メンタルが弱いからだとかよく言われるけど、私は別に逃げていたわけじゃなくて、逆に立ち向かおうとしたからこそ、ドツボにハマッたのかなって思っています」 ゴルフ以外でお金を稼ぐ経験をして何か変われた感じがした そのうちに、同時期に左手を怪我したことも重なって、練習もほとんどしなくなり、所属先のコースでの仕事後の練習も球を数発打って家に帰ることが多くなった。することがないのでベッドで仰向けになって天井を見つめながら、試合に出ない自分に何の価値があるのかを考えて毎日を過ごしていた。そんな日々を師匠の和田に話したら、仙台に帰ってこい、純粋に自分のためにゴルフをやっていた中・高校生の頃の環境に身を置けば、何かわかることもあるんじゃないか、と提案してくれたのだ。高島は16年に仙台に行き、和田とともにプロゴルファーとしての再生を図ることにした。 「仙台に行った2年目からはまったくスポンサーがない状態になり、精神的には楽になったけど、でも生活費を稼がないといけなくなって。それで、夜の10時から夜中の2時までファミレスのホールの仕事を週3日やったり、夜12時から朝までパチンコの新台入れ替えをやったりしました。このときに、社会って大変だなって思ったけど、でも自分はゴルフがなくても生きてはいけるのかなって思えた、それが大きかったですね。イップスで悩んだ最中は、ずっと自分はプロゴルファーとしての高島早百合しか存在価値がないと思っていて、だからゴルフができなくなったらもう終わると思っていたんですよ。だってゴルフ以外に何もやってこなかったから。でも、ゴルフ以外でお金を稼ぐ経験をして、何か変われた感じがした。そんなときに、和田さんに勧められドラコンに出るようになったんです」 2018年のLDJ日本大会予選に出場した高島は、「365Y」という、当時の女子日本記録を出し、いきなり優勝という、ド派手なドラコンデビューを果たしたのである。 今春のジア・メディカルCUP日本ドラコン選手権でも優勝。「ツアーでは運ぶことが目的なのに、ドラコンはとにかく遠くに飛ばすことを目指して振る。これが良かったんでしょうね」 高島早百合の 「最初はイップス克服のきっかけになればとドラコンに出たけれど、いざ出てみたら、ツアーでのドライバーショットとはまったく違う感覚がそこにありましたね。ツアーではアソコに運ぶことが目的なのに対し、ドラコンはとにかく遠くに飛ばすことを目指して振る。思い切り振れるので全然、感覚が違う。ソレが良かったんでしょうね。このときに、純粋にその競技で勝てたという成功体験が、プロになってようやく私に訪れたわけですよ。私の才能ってこれだったんだなって感じました。もちろん今でも、『飛ぶだけ』って思われているし、『飛ぶけどプロゴルファーとしては下手くそ』だとか言われるだろうけど、でも『自分は飛ぶ』っていうことに対して初めて自信を持てたんです。だからドラコンという競技にはすごく感謝をしているし、それを紹介してくれた和田さんにも感謝をしています。プロゴルファーという道筋はツアープロだけだと思っていたものが、こういう道も歩いていけるんだという可能性を見出せたことは、本当にありがたいことでした」 高島は、2017年のQTでセカンドを突破してサードまで進み、ツアープロとしても復帰への途上にある。「ゴルフが普通にできるようになったけど、まだ試合に出たいとは思えないんですよね」というから、本格的な復帰はあと少し待つことになるだろう。そんな高島が今年の8月21日に『高島早百合Presentsドラコン大会』を開催する。 「ドラコンというと、力自慢の大男がゴリゴリ優勝を競う大会をイメージしがちですが、今回は『普通の人が、普通に楽しめるドラコン大会』にしたいと思っています。もちろんプロも出ますし私も出ますので、ドラコン選手のスウィングを間近で見て、感じてほしいですね」 「私は飛ばすことがなかったら何の価値もない」と思っていた12歳の少女は、「見るだけの価値がある飛距離を生む」プロフェッショナルになった。 文●古屋雅章 ふるや・まさあき。雑誌記者、業界紙記者を経て、ゴルフ専門雑誌の編集記者となりゴルフの取材に長く携わる。現在はゴルフを中心に、ボクシングや格闘技などの取材も行うフリーのライター 週刊ゴルフダイジェスト2021年8月10日号より 高島早百合ドラコンでの激闘の様子はこちらから https://my-golfdigest.jp/information/p27485/
  • TEXT/Yuzuru Hirayama PHOTO/Takanori MikiTHANKS/新宿プリンスホテル 一流と称される者には、自身のゴルフスタイルを確立するためのきっかけとなった転機がある。例えばそれは、ある1ホールの苦しみかもしれない。例えばそれは、ある1ショットの歓びかもしれない。積み重ねてきた勝利と敗北の記憶を辿りつつ、プロゴルファーが静かに語る、ターニングポイント。羽川豊の場合、それは、長いイップスから抜け出せた道具との出合いでもあった。 羽川豊1957年生まれ、栃木県出身。80年プロ入り。レギュラーツアー5勝、シニアツアー3勝。81年「日本オープン」でプロ初優勝を飾り、「日本シリーズ」でも青木功をプレーオフで下して2勝目を挙げた。82年には「マスターズ」に出場し、15位でフィニッシュ。“世界のレフティ”と評された。IPOC所属 容易にできていたことが、ある出来事を境に突如できなくなる。そんな「イップス」という病に、いつ誰が蝕むしばまれるかわからない。それはたとえ、将来を嘱望されたプロゴルファーだとしても。1980年に当時のプロテスト新記録となる8アンダーで合格した羽川豊は、翌81年には日本オープン、日本シリーズとメジャーを制した。その国内での活躍からマスターズに招待されたのは、初めてクラブを握ってから8年目、24歳のときのことだった。オーガスタでも決勝ラウンドに進出したばかりか、15位と健闘し、「現役最高のレフティ」と現地で称賛された。けれども、その直後から、無明の闇へと迷い込む。ドライバーが曲がりだし、恐怖心から振り上げたクラブを振り下ろすことができなくなった。4年間予選落ちを繰り返す苦悩の日々、思い余って駆け込んだのは、尾崎将司の軍門だった。 僕のドライバーが2番アイアンの飛距離。その差に愕然としました マスターズの結果は15位だったんですけど、このままではダメだなと。僕のドライバーは、海外選手の2番アイアンの飛距離。その差に愕然としました。270ヤードは飛ばしていたんですけど、海外で戦うなら、そんな飛距離ではどうにもならないと、当時の僕には思えたんです。大手の下請け工場を営んでいた実家が新たに始めたゴルフ練習場で、16歳からとにかく球数を打つことで技術を身につけました。理論武装をしていないし、肉体的な土台もできていない。それなのに無理に飛ばそうとして、スウィングを崩してしまったんでしょうね。打ち急いだり、力んだり、球筋もバラバラで右に左に曲がる。練習をして上手くなってきたから、必死に球を打つんですけど、打てば打つほど深みにはまって身動きがとれなくなる。トップまではクラブを振り上げられるんですけど、ダウンスウィングで手が異常な反応をしてしまうんです。なぜなら、きっとインパクトでは、フェースが開いたりかぶったりするだろうなと予測できてしまうから。ドライバーで恐怖心を抱えてしまってからは、予選落ちばかりでシード権を喪失しました。人前でショットを見せるのがプロの仕事なのに、見られていると困るようでは、ゴルフを諦めて仕事を変えるしかないですよね。4年間苦しみ抜いた末に、ジャンボさん(尾崎将司)に相談に乗ってもらったんです。するとこう言ってくれました。「4年も苦しんできたなら、4年かけてもとに戻したらいいじゃないか。オフに体作りに来い」。 1980年のプロテストをトップ合格した翌年の81年、日本オープンと日本シリーズで優勝。“飛ぶ鳥を落とす勢い”で日本を代表するトップ選手へと上りつめた。その活躍でマスターズの切符をつかんだ シード選手が10名くらいいるジャンボ軍団の合宿だと、腹筋も背筋も、自分の肉体が彼らに劣っていることがよくわかりました。ジャンボさんはよく言うんです。「心技体ではなく、体技心だぞ」と。3年が経って徐々に体ができてくると、ある日の練習中、上下左右に軸がぶれていた自分に気付いたんです。つまりは、それに気付ける肉体的な土台が初めてできたということでしょうね。コースでは最初は怖々と、トップ気味に低い球を打っていました。やがて弾道を高くしても狙いどおりの球筋が出だすと、いつしか恐怖心も消えていました。海外での合宿で、池が張り出した狭いフェアウェイをドライバーでとらえたとき、「おまえ、よくこんな狭いところを狙えるな」とジャンボさんが褒めてくれました。闇夜に光が差したような気分でしたね。 ときに病は容赦なく、一度は克服した者に、再び襲いかかってくることがある。あたかもそれは、何かを試しているかのように。尾崎将司の言葉どおり、4年苦しんだドライバーイップスを、4年かけて克服した。90年にシード権を奪還し、翌91年にはインペリアルで8年ぶりに優勝。しかもその翌週の静岡オープンで、2週連続優勝まで成し遂げた。その後もたびたび上位に進出し、完全復活かと思われたが……。 ショットが良くなったのも束の間今度はパットが打てなくなりました ジャンボ軍団で体を鍛えて、ショットが良くなったのも束の間、今度はパットが打てなくなりました。コースのグリーンに立つと、利き手の左手に電気が走るようになったんです。そのせいで変な動きをしてしまい、1メートル以内なのに、押し出したり、引っかけたりの繰り返し。50センチさえ、ポロッ、ポロッと外して、9ホールで3、4回も3パットしてしまうんですから。握り方をどんなに変えてもダメ。100本以上パターを替えても、メンタルコーチを付けても、全部ダメ(笑)。2打目でピタッとピンそばに寄せても、絶対に入らないだろうなと。案の定カップを行ったり来たりしていると、俺はホールアウトできないんじゃないかという不安に襲われたことさえありました。そして、2000年の日本プロでも散々で(初日80、2日目79で128位タイ、予選落ち)、その年できっぱりやめようと思いました。ドライバーのときはまだ頑張ればどうにかなるかなと思えましたけど、パットのイップスは万策尽きました。 人生には「出合い」がある。それは人との「出会い」ばかりではない。パットのイップスによって引退を決意し、テレビ解説者に転身した。全米オープン、全英オープンなど、数々のメジャーを10年以上にわたってリポート。プレーするのではなく、試合をロープの外側から見つめるのが仕事になった。若かりし頃のタイガー・ウッズをはじめ、スーパースターのプレーを間近に見ると、あらためてゴルフの楽しさを実感した。 そして、シニア入り目前の49歳になった2007年、家の隅に転がっていた、それまで見向きもしなかった一つの道具が、彼を再び、ロープの内側へと戻してくれた。 もう選手としては、未練はありませんでした。どうせパットを外して負けるだけだとわかっているんだから、これほどつまらないことはない。とはいえ、クラブを投げつけるようにして終えたのではなく、クラブをそっと置くような引退でしたね。試合を外から見るようになると、なんの苦しみもなくプレーしている若手を見るのが、楽しくてね。全米、全英での海外のトッププロは、僕の想像から絶対に逃げないんです。この深いポットバンカーから出して近いピンに寄せるには、わずか数cmしかない縁にぶつけてショックをやわらげて転がすしかないな、と想像すると、そのとおりにやってのけてしまうんですから。 “魔法の杖”を得てもう一度競技の世界へ戻った テレビの仕事を続けていた2007年のある日、家の隅に転がっていた長尺パターに、なにげなく目がとまったんです。誰が送ってきてくれたものかもわかりません。それまでの僕には、長尺なんか使ってゴルフができるかという固定観念があったから、見向きもしませんでした。握ってみると、ネックがグラグラ動いてね(笑)。それを調整してコースへ出て、1番グリーンで2メートルのパットをドキドキしながら打ってみました。入りはしなかったんですけど、ヘッドがスッと動いてくれたんです。あれっ? 俺が狙ったラインに転がるじゃないかと。グリップは、握る位置によってはまだ左手に電気が走るような感じがしたんです。でもシャフトの下側を、手のひらを目標方向に向けて握れば大丈夫なことを発見しました。もしかしたら、この「魔法の杖」となら、試合にも出られるんじゃないか、そう思えてきたんです。 パットのイップスで一度は引退を決意していた羽川だったが、長尺パターのおかげで競技へ戻ることができた。「狙ったラインに転がせるこの“魔法の杖”となら、試合にも出られる」と思ったという 「魔法の杖」である長尺パターとともに、50歳になった2008年、シニアツアーに参戦した。復帰後4年目の2011年、PGAフィランスロピーシニア。首位と4打差の8位タイで迎えた最終日、まさに魔法がかったパッティングで猛追を見せる。11番で13メートル、12番で5メートル、16番で10メートルをカップイン。短いパットもことごとく決めてみせ、10番からの3連続を含む7バーディ、1ボギーのベストスコア66を叩き出して通算10アンダー。首位に並んでプレーオフの末、シニアでは初めての、ツアー競技では実に20年ぶりとなる栄冠を手にした。2度のイップスによる苦悩の果てに、一度はクラブを置きながらのカムバック。リポーターとして長年選手に向けてきたマイクを、この日は自身が向けられたその勝利者インタビューで、しみじみと彼は言った。「優勝って、こんなに嬉しいものなんですね」 2011年のPGAフィランスロピーシニアの頃には、長尺のおかげで戦えることはわかっていました。グリップエンドを固定して支点を作り、ヘッドを振り子のようにゆっくり動かす。小さな筋肉が微妙に動いてしまわないから、長尺って、いいなと。パットさえ入れば勢いに乗れるし、そんなスコア(最終日の66)もまだまだ出せるということが、この歳になって自分で再認識できました。イップスに2度も苦しんだ僕が言えるのは、もうダメかなと思ったところから、固定観念を捨てて、新しいものを探すことも大切だということです。ドライバーのときの体づくり、パットのときの長尺と、模索し続ければ、出口が見つかることもあるわけだから。 昔には戻らないほうがいいと思うんです。時間が解決したものにこそ価値があります ダメになったとき、昔に戻りたいと言う人がいるじゃないですか。だけど僕は、昔には戻らないほうがいいと思うんです。人間って、変わってゆくものだし、戻ろうとするよりも、新しい自分を作っていくほうがいい。時間が解決したものにこそ価値がありますから。シニアになっても体が動く自分を作りたい。そのために毎朝5時に起きて走って下半身を強化したこともありました。プロって、勝てるかもしれないという、夢を追えるから、続けていけるんですよね。それがある限りは、たとえ悔しい負けがどれだけ積み重なろうとも、これからもやっていこう、そう思っています。 ● ● ● シニアツアーに参戦しつつ、2016年からは母校・専修大学ゴルフ部の監督に就任し、後輩の指導にあたってもいる。 63歳になる彼が、10代、20代の若者たちに何を伝えようとしているのだろうか。「プロになれるのは、ほんの一握り。思いどおりにいかないのが社会だから、ナイスショットばかりを求めるのではなく、忍耐強さが、大切なんだよ、と」今年の大学の合宿では、朝寝坊した3年生に雷を落としたという。祖父のような年齢の強面の監督は、学生よりも早起きで、そして、ゴルフにまだまだ真剣だ。 月刊ゴルフダイジェスト2021年9月号より
  • キャメロンに替えて苦手克服! 堀川未来夢の14本
    PHOTO/Hiroaki Arihara プロの14本のクラブセッティングと、それらのクラブを選んだプロのこだわりを紹介する連載「プロスペック」。今回は、19年にツアー選手権で初優勝を飾った堀川未来夢のセッティングに注目! 堀川未来夢ほりかわみくむ。1992年生まれ。神奈川県出身。日本大学ゴルフ部を経てプロの道へ。19年日本ゴルフツアー選手権で悲願の初優勝を飾る 昨年は優勝こそなかったものの、たびたび優勝争いを演じ、今やツアーの中心選手へと成長した堀川未来夢だが、ちょっと気になることを口にしていた。「ずっとパターはスパイダーのセンターシャフトモデルを使っていて、それを替えるつもりはなかったのですが、昨年の11月からキャメロンのマレットタイプを使っています。一昨年くらいからパッティングに違和感があったんです。試行錯誤した結果いまはこのパターに落ち着いています」堀川が違和感を覚えるのは上りのパットで、下りでは感じないとのこと。トーナメントのような高速グリーンではパットでストレスを感じないためにオートマチックに動くネオマレット系が重宝されるが、感性を失ってしまうこともある。「今は上りのロングパットが一番苦手。その点新しく替えたキャメロンは、よく“飛んで”くれるので、小さいスウィングでもしっかり届くのが嬉しいです」パターと同様に、長年使っていたドライバーも新しいモデルへとチェンジしていた。「すごく構えやすかったですね。飛距離も出ていますし、直進性も申し分ありません。狭いホールでも狙い撃ちできるので、開幕が楽しみです」今年の活躍に期待したい。 スコッティキャメロンのマレットは、それまで使用していたモデルに比べて弾きがよく、上りのロングパットでもしっかりと転がってくれるという アドレスでしっくりきたという堀川。弾道をイメージしやすいオーソドックスなフォルムで、直進性がとにかく高い。フェースの反発も適度にあり強い弾道で飛ばせる 2本入れていたUTのうち、1本は7Wに替えたが、この1本は残した。ラフからでも高い球が打てて、攻めのゴルフには欠かせない1本になっている 以前は3番UTを使っていたが、それを7Wにチェンジ。番手間の弾道の流れがよくなったという このウェッジには他のウェッジにはない構えやすさと安心感があるという堀川。溝が減ってきたら新しいものに取り替えて使い続けている 堀川未来夢の14本1W ブリヂストン ツアーB X(9.5度)/ツアーAD PT-7・X/285Y3W テーラーメイド M4(15度)/ツアーAD PT-9・X/255Y5W テーラーメイド M4(18度)/ツアーAD PT-9・X/235Y7W  ブリヂストン ツアーB JGR(21度)/ツアーAD PT-9・X/220Y5UT ブリヂストン J15HY(23度)/DGツアーイシュー・X100/205Y5I ブリヂストンツアーB X-CB(25度)/DGツアーイシュー・S400/190Y6I ブリヂストンツアーB X-CB(28度)/DGツアーイシュー・S400/180Y7I  ブリヂストンツアーB X-CB(32度)/DGツアーイシュー・S400/170Y8I  ブリヂストンツアーB X-CB(36度)/DGツアーイシュー・S400/160Y9I  ブリヂストンツアーB X-CB(40度)/DGツアーイシュー・S400/150YPW  ブリヂストンツアーB X-CB(45度)/DGツアーイシュー・S400/135YAW ブリヂストンツアーB XW-F(52度)/DGツアーイシュー・X100/110YSW ブリヂストンツアーB XW-F(58度)/DGツアーイシュー・X100/90YPT スコッティキャメロン サークルT プロトタイプBALL ブリヂストン ツアーB XS 週刊ゴルフダイジェスト2021年3月9日号より