難コースが生む激闘の歴史! 識者が選んだ、心に残る「全米オープン」名勝負

今年はオークモントCCで開催される全米OP。長い歴史のなかで様々なドラマを生んできたこの大会では数々の名勝負が繰り広げられてきた。そんななかから識者5人にそれぞれの心に残る名勝負を語ってもらった。
TEXT/Masaaki Furuya PHOTO/Blue Sky Photos、Hiroyuki Okazawa、Getty Images

「予想を覆すことが起きるのが全米オープンです」(川田太三)

川田太三
コース設計家。成田GC、イーグルポイントGCなど国内40コース以上を設計・監修。解説者として活躍しながらマスターズや全英オープン、全米オープンで競技委員としてレフェリーを歴任
ゴルフ場の設計家でありながら、自身は全米OPの解説者、レフェリーとして携わってきた川田氏。そんな川田氏の心に残る全米OPの名勝負とは。
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全米OPはメジャー大会のなかでも特に“予想を覆すような出来事”が起こりやすいのが特徴です。私が初めて見た全米OPが1964年で、この年優勝したケン・ベンチュリーがとても印象に残っています。
予選会から勝ち抜いて、本戦に出場していたベンチュリーは2打差の2位で最終ラウンドを迎えました。このときコングレッショナルCCは猛暑で、ベンチュリーは体調不良を訴えて、午後の最終ラウンドを前に医師のところに駆け付けたのですが、脱水症状だと判明して、医師から棄権を勧められていました。ただ、医務室で30分横になって立ち上がったベンチュリーはその医師からの提言を振り切って、医師が同伴しながら最終ラウンドの18ホールに挑み、最終的に4打差で優勝しました。もう私は感動し泣きながら見ていたのを覚えています。

K・ベンチュリーがドクターストップを振り切り優勝(1964年)
この日のコングレッショナルCCは猛暑に見舞われ、午後の最終ラウンドで上位陣が続々と優勝戦線から離脱するなか、脱水症状になりながらも、不屈の精神で独走したK・ベンチュリー
次に心に残っている大会は1982年にペブルビーチで開催され、トム・ワトソンがジャック・ニクラスを振り切って優勝した大会です。大方の予想ではニクラスの優勝を予想する声が多数でした。しかし、ワトソンのパターが冴えわたり、3日目を終了した時点で、4アンダーでビル・ロジャースと並んでトップタイ。
最終日、ワトソンの2つ前の組でスタートしたニクラスは、3つスコアを伸ばし4アンダーでホールアウト。一方、スコアを伸ばしきれずにいたワトソンは、難ホールで有名な17番のパー3でグリーンを外し、およそ6ヤードの短い距離の難しいアプローチを残しました。これをフワッと球を上げて、吸い込まれるようにチップインバーディ。最終ホールもワトソンがバーディで締めて、最終的には2打差でワトソンが勝ったのですが、帝王に君臨していたニクラスの後継者の筆頭株であったワトソンの勝ち方はセンセーショナルでとても心に残っています。
ワトソンが17番の「世紀の一打」で“帝王”との激闘を制す(1982年)
ニクラスとの一騎打ちで勝負に出た17番のワトソンの2打目。キャディに後押しされる形で“入れにいった”アプローチがカップに吸い込まれ、優勝を大きく手繰り寄せた

3つ目が1992年、これもペブルビーチで開催され、トム・カイトが勝った大会です。PGAツアーでも幾度の勝利を重ねたカイトですが、この大会は初日から3日目までギル・モーガンが首位を走り、3日目終了時点で1打差の2位タイでカイトが追っていました。最終日のペブルビーチは強風が吹き荒れて、首位のモーガンも1日で一気に9つもスコアを落とすなど、苦戦する選手が多いなか、カイトは7番のロブショットで奪ったバーディを皮切りに最終的に3アンダーで優勝しました。なかなかメジャーで勝てなくて、やっと手にした92年のカイトの優勝はとても心に残る大会になりました。

トム・カイトがやっと手にしたメジャー制覇(1992年)
72試合目で念願のメジャー制覇を成し遂げたT・カイトはこの時41歳。強風吹き荒れる悪天候のなかでも淡々とプレーし、生涯初にして、唯一手にしたメジャータイトルが全米OPだった
「80年代のストレンジはアメリカゴルフの象徴でした」(タケ小山)

タケ小山
ゴルフ解説者。世界中のツアーに精通するプロ。TBSサンデーモーニングの解説者としてもおなじみ。小誌の「世界パトロール」を連載中
ゴルフ解説者でもおなじみ、かつてアメリカをベースに活動していたタケ小山が選んだ名勝負は?
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ザ・カントリークラブ・コンポジットコースで開催した1988年の大会で優勝したのがカーティス・ストレンジでした。この当時、アメリカゴルフはストレンジ一色で80年代後半のストレンジは絶好調でした。今の時代でこそ誰もが知る某スポーツメーカーのウェアとシューズをストレンジだけ身にまとっていたのもまたあか抜けていて、とにかくカッコよく、新たな時代の到来を感じさせてくれました。

ファルドとのプレーオフを制したストレンジが全米OP優勝(1988年)
この年N・ファルドとのプレーオフを制し、全米OPを勝ったC・ストレンジだが、翌年も制し連覇を達成した。この時代のアメリカのゴルフ界はストレンジがけん引していた
2つ目が1990年のヘイル・アーウィンがプレーオフを制した試合です。この時はメダイナCCで開催されたのですが、アーウィンが最終日18番でロングパットを沈めてプレーオフに持ち込むんだ際、普段は冷静沈着なアーウィンがグリーン周りを走りながらギャラリーにハイタッチをしたシーンは忘れられないですね。結局、翌日マイク・ドナルドとのプレーオフでアーウィンが勝つんですけど、何よりあのハイタッチで走り回る光景が印象深かったです。
冷静沈着なアーウィンが14mのパットを沈めグリーンを駆け回った(1990年)
最終日18番の超ロングパットを沈めたバーディを含めて6バーディでプレーオフに持ち込み、翌日のプレーオフも制したアーウィン。自身3度目の全米OP制覇になった

3つ目がパインハーストで開催された1999年の大会です。この年はペイン・スチュワートが勝つんですが、前年も優勝争いをしていて、ディボット跡にボールがハマってそこから崩れちゃった反省を生かして、その1年間で本人もディボット跡にボールが入った想定をした練習を繰り返し、この年の大会もディボット跡にボールが入ってしまう事態に見舞われながら苦手意識を克服して勝ち取った優勝もすごく印象深いです。なので、この年のペインの優勝は前年の出来事なしには語れないですね。大変残念なことにその年の10月に飛行機事故で帰らぬ人になってしまったことも含めて、心に残る試合になりました。

“ディボット跡対策”でペイン・スチュワートが前年のリベンジを果たした(1999年)
3日目終了時点、1打差で2位のミケルソンが追う展開で、この1打差を最終日も守り抜き、優勝したP・スチュワート。この年10月に飛行機事故により帰らぬ人となった
「『ボールが動いた』事情聴取にも動ぜず優勝したダスティンのメンタルは圧巻でした」(佐藤信人)

佐藤信人
ツアー通算9勝。現在はテレビなどで解説者として活躍中。小誌の「うの目たかの目さとうの目」連載中
ツアー解説でおなじみの佐藤信人はどの試合を選ぶのか。
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まずはオークモントCCで開催された2016年です。最終日の5番で、ダスティン・ジョンソンが構えたときにボールが動いたと申告。その場では、彼の「アドレス前に動いた」という言葉を受け入れました。その後、12番ホールで競技委員が来て、再び事情聴取し、「動いた要因は自分じゃないと言い切れるか?」と他に要因があったかなどを聴取して、ペナルティが付くかもしれないという不明瞭な状態でその場を引き上げたんです。そんな措置をされ、凄い不安のなかのプレーにもかかわらず、彼は優勝しました。結局、ホールアウト後に1罰打を受けましたが、“1罰打を付けるなら付けて見ろ”という感じでプレーに集中していたダスティンの優勝はすごく印象に残っています。

ハプニングをものともせず、D・ジョンソンが優勝(2016年)
前年の全米OPでは最終日の18番でイーグルチャンスから3パットでプレーオフを逃したD・ジョンソン。強い気持ちで挑んで、見事前年の悔しさを晴らした
次に2018年のシネコックヒルズで開催された試合で、インパクトがあったのはミケルソンがグリーン上で動いている球を打つシーン(カップを逸れたボールがグリーンの外に出てしまうのを回避するため止まる前に打ち返した)。当時のUSGAトップのマイク・デービス氏がメジャーのセッティングをハードにし過ぎて物議を醸していました。この試合もグリーンが高速過ぎて、日曜日にグリーンに水をまいたら、最終日にフリートウッドが63で回るという事態に。
選手から不満が続出するなか、ケプカが何一つ文句を言わずにプレーをする姿が印象的でした。彼は、「セッティングがハードなメジャーでは、必ず不平不満を言う選手が一定数いる。その時点で彼らは相手じゃない。通常の試合よりも少ない人数を相手にすればいいから、メジャーで勝つほうが簡単だ」と。ケプカ流の極端な言い方ですが、彼はハードなシネコックを味方につけて優勝を果たしたのが印象深いです。
ハードなシネコックヒルズを味方につけて
ケプカが優勝(2018年)
最終日7アンダーで猛追してきたフリートウッドを1打差で振り切って、ケプカが前年に引き続き連覇を達成した。この連覇は88、89年のストレンジ以来の7人目の快挙だった

「“世界のアオキ”が“帝王”ニクラスに食らい付いたバルタスロールの死闘は今でも忘れません」(永井延宏)

永井延宏
大学卒業後アメリカに渡り、最新のスウィング理論を学ぶ。帰国後、ティーチングを広める。2006年レッスン・オブ・ザ・イヤー受賞
長く全米OPを見てきたという永井延宏はどの名勝負を選ぶのか。
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1980年のジャック・ニクラスと青木功さんの「バルタスロールの死闘」です。青木さんは最終日のフロントナインがパープレーで、ニクラスが2アンダー、バックナインは同スコアで、その2打の差で優勝が決まりました。当時、テレビの生放送がやっておらず、ラジオで青木さんが2位だったということを知りましたが、あのワクワク感は今でも忘れません。

同じ組で4日間の“一騎打ち”青木とニクラスの激闘(1980年)
初日から4日間ニクラスと同組でラウンドした青木。最終日、2打差を追いかける展開で最終ホール両者がバーディを奪取し決着。お互いに譲らない戦いを象徴する幕切れとなった
2つ目は2000年のぺブルビーチで、タイガー・ウッズがぶっち切りで優勝した大会です。先日亡くなられた陳清波さんと、当時週刊ゴルフダイジェストで対談を連載していて、陳さんとこの試合でトップ選手のティーアップの検証をしていたのが懐かしいです。タイガーのドライバーの弾道の高さと圧倒的な強さは別格だったというのが印象的でした。
15打差をつけてタイガーが圧勝(2000年)
難コースで知られるペブルビーチで最終的に12アンダー、2位のヒメネスとエルスに15打差をつけて歴史的な圧勝劇を演じたタイガー・ウッズ。タイガーにとって、3つ目のメジャータイトルになった

2006年のウィングドフットも印象的です。タイガーが父親の死で喪に服した後の復帰戦でプロ入り初となるメジャーでの予選落ちを喫しました。同年のマスターズでミケルソンはドライバーを2本にして勝ち、全米OPでは短尺ドライバーを投入しましたが練習場でヘッドに鉛が貼ってあったのを見て、完成度としては高くないのかなと思っていました。案の定、最終日は17、18番でドライバーを曲げて、1打差の18番でティーショットは左のラフに。2打目は前方の木に当てダボを打ち、ジェフ・オギルビーが優勝しました。短尺ドライバーを持って乗り込んだミケルソンですが、全く機能しなかったことが印象に残っています。

オギルビーが接戦を制し、優勝(2006年)
ミケルソンが土壇場でもたつき、3位で最終日を迎えたオギルビーが逆転優勝でメジャー初制覇を飾った。オーストラリア人としては2人目の全米OPチャンピオンに輝いた
「メジャーでのタイガーの強さは“別格”の一言でした」(内藤雄士)

内藤雄士
日大ゴルフ部時代に米国に留学し、最新のゴルフ理論を学ぶ。その後、丸山茂樹のコーチを務め、現在は大西魁斗、清水大成らを指導。日大ゴルフ部コーチ
自身も丸山茂樹のコーチとして全米OPを戦っていた内藤雄士にも聞いてみた。
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1つ目は2002年のベスページステートパークです。僕がコーチをしていた丸山茂樹選手は調子が良い状態でこの試合に臨んだのですが、距離が長く、練習ラウンドではオーバーパーしか出なくて試合前に、「こんなコース、タイガーが優勝するに決まってるじゃないか」と言っていましたが、本当にたった一人アンダーパーでタイガーが優勝しました。丸山選手の見る目は凄いなと思いました。

2位のミケルソンと3打差でタイガーが優勝(2002年)
この勝利で生涯獲得賞金が史上初の3000万ドルに到達したタイガー・ウッズ。最終日、雨や雷の影響で一時中断し、暗がりの中なんとか大会が終了した
次に記憶に残るのは2004年のシネコックヒルズです。丸山茂樹選手が2日目終わってトップに立ち、3日目は練習場で大勢のギャラリーが注視するなか、ミケルソンと丸山選手が2人だけで球を打っている。最終組しか経験できない光景でした。3日目の最終ホールでダボを打って、結果的にそれが最後まで響いて4位でした。でもメジャー優勝の可能性が垣間見えた試合でした。フェアウェイも硬く、元々ライナーボールが得意なので、飛ばし屋たちと遜色ないくらいにランで距離が出た。それでパーオン率も1位でした。しかし、本来得意なパットの平均だけが20位くらいで、もしパットが本調子なら、勝てていたかなと思います。
丸山茂樹の健闘及ばず、グーセンが優勝(2002年)
2日目終了時点でミケルソンと並びトップに躍り出た丸山だったが、最終的には健闘及ばず4オーバーの4位タイ。南アフリカのレティーフ・グーセンが全米オープン2勝目を飾った

3つ目は2008年のトーリーパインズです。タイガーが最後に全米オープンに勝った大会で、ひざが痛そうにしてラウンドしていたのを覚えています。満身創痍のなかプレーオフを制した歓喜のタイガーがとても印象的でした。私も20代前半にサンディエゴにゴルフ留学していたときに、よくこのコースをラウンドして思い入れがあるので、印象に残っています。

91ホールの激闘を制し、タイガーが優勝(2008年)
初の全米OP開催となったトーリーパインズでプレーオフ18ホールでも決着がつかず、サドンデス1ホール目で決着。怪我の影響でタイガーが満身創痍で手にした2002年以来の大会3勝目だった
週刊ゴルフダイジェスト2025年6月24日号より