【岡本綾子 ゴルフの、ほんとう】Vol.831「どんな時代になろうと練習する人間が成長します」
米国人以外で初めて米女子ツアーの賞金女王となった日本女子ゴルフのレジェンド・岡本綾子が、読者からの質問に対して自身の経験をもとに答えていく。
TEXT/M.Matsumoto
先日、YouTubeで1977年当時の岡本さんのプレーなどプロのスウィング映像を見ることがありましたが、私がゴルフを見始めた80年代半ばの岡本さんのスウィングは進化しているんだという印象を受けましたが、それはどのプロも進化していくものなのでしょうか。(匿名希望・49歳・HC10)
そんなに昔の映像が今ではネットに出回っているのですね(笑)。
ご覧になったのはワールドレディスだそうですが、わたしには特別思い入れの深いものでした。
プロ入り3年目、東京よみうりCCで行われた日本での開幕戦だったこの大会で、首位をキープしたわたしは最終日、1打差で追う樋口久子さんと最終組で競り合うことになりました。
試合はもつれて同スコアのまま最終18番ホールのパー3。
樋口さんはティーショットをドライバーで打ってワンオン。
わたしは4番ウッドでミスをしてグリーン右手前のラフへ。
そこからわたしがアプローチを寄せたのに対して、樋口さんは3パットして決着がつきました。
当時“女王”と言われていた樋口さんと正面からぶつかり合って勝てたんだ!
その喜びが心から湧き上がって来たのを覚えています。
翌1978年の3月、ロサンゼルスで開催されたサンスタークラシックに、日本から大勢の女子プロが招待選手として出場する機会があり、わたしもその中にいました。
しかし、当時はLPGAのライセンスがないことでアマチュア扱いだったのでそれが何より悔しかったです。
実はその大会の2カ月前、わたしはフロリダで行われたLPGAのツアーテスト(現在のQスクールに当たるもの)に挑戦していましたが、残念な結果となっていました。
そのときは、情けなくて落ち込んで、帰国後もしばらくクラブが握れなかったのを覚えています。
それでも、初めての挑戦で上手くいかなくてもしょうがない、「もう一度、挑戦しよう」と心に決め、そしていまがあります。
自分で心に決めたとおり、クオリファイを突破して83年からアメリカを主戦場にするようになりました。
それまで日本の選手は、国内の試合がない時期に海外遠征に出ていたのですが、シーズンを通じてアメリカでプレーすると決めたのは、わたしが初めてでしたね。
前例がなかったこともあり、当時国内でいろいろと大きな論議になりましたが、今の選手が聞いたら「何がそんなに問題なんですか~」なんて言われそうですけど、当時はいろいろと大変だったのですよ(苦笑)。
今年で言えば、全米女子オープンに21名の日本の女子選手が出場、笹生優花選手が2度目の優勝を飾り、渋野日向子選手が2位に。
全米女子プロでは山下美夢有選手が2位タイ、エビアン選手権は古江彩佳選手がメジャー制覇……、というように日本の女子選手が海外で大活躍するのは、いまでは当たり前になりつつあります。
その現象はここ10年ほど急激に進展しているような気がします。
道具の進化、練習環境の改善、トレーニングやスウィング理論の進歩など、理由はさまざまあると思いますが、選手層はかつてなく分厚いものになり、個々の技術力の向上の差も少なくなってきているように感じます。
さらに、選手の気質も変わりました。
昔はオシャレを気にする時間があったら練習しろ、と言われたものですが、今はそんなことは言いませんし、言う必要もありません。
ゴルフ界のみならず、社会全体が変容しているのですから、時代の流れについて行かざるを得ません。
ただ、そうした変化にも順応して自分の力を発揮できるかどうか。
そこにプロとして今を生き抜く強さが求められています。
強いプロ選手とは、いまをしっかり見つめ、プロになってからさらに成長していくものだと思います。
「“昔は良かった”という人に、成長は望めないことはわかりますよね(笑)」(PHOTO by Ayako Okamoto)
週刊ゴルフダイジェスト2024年10月1日号より