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【大型ヘッドドライバー 天下分け目の戦い(前編)】クラブメーカーの勢力争い追跡ドキュメント

クラブのトレンドは常に変化している。スコットランド発祥のゴルフだが、クラブの進化を牽引してきたのは、米国であり我が日本だ。今回は互いに切磋してきたクラブ開発強国の主導権争いについてドライバーに焦点を当て振り返ってみる

高反発規制でクラブ開発が大きく変化

2008年、この年にR&AとUSGA(全米ゴルフ協会)はクラブの製造に関する大きなルール改正を行い、施行した。一般的には“高反発規制”と呼ばれるものだ。

筆者はその前年にゼネラルルール策定の総本山であるR&Aに出向き、用品ルールの責任者であるデビッド・リックマン氏に、なぜ高反発ドライバーを規制するのか?と聞いた。その理由は次のとおりだった。

「ゴルフのゲーム性の保持、それが理由です。道具の進化によりプレーヤー自身の技量で競い合うゴルフゲームの本質が歪められてはならない。大きな飛距離もそうですし、ラフからも激しいバックスピンがかかるスコアリングラインなども同じ理由で懸念されているポイントのひとつです」

反発係数が0.830を超える、 いわゆる高反発ドライバーについては、USGAが先行して独自ルールを策定し、傘下の国々(米国・カナダ・メキシコ)での使用を制限していた。

このため米国メーカーは自国向けには高反発モデルは発売せず、それ以外の国々向けの専用モデルとして高反発モデルを供給していた。その最大の輸出先こそが日本である。

日本市場は2000年以降、高反発ブームに湧いていた。ダンロップの『ゼクシオ』が先頭に立ち、米国とはまったく異なる“反発競争”が繰り広げられていたのだ。

タイガーの登場がクラブ開発に影響

思い返せば、USGAが飛びすぎ規制に大きく舵を切ったのは、タイガー・ウッズの出現が大きかったといえる。

とくに2000年前後の“タイガースラム”に代表される圧倒的な強さは、多くのファンを熱狂させた。しかし、かつてないパワーで名だたる世界の名門コースをねじ伏せていく姿は、ゴルフの伝統を守りたい協会筋にとっては脅威に映っただろう。

デビッド・リックマン氏は「スコットランドよりも米国側に飛距離アップに対する危機感が強かったのは確かです。それが一時的にダブルスタンダード・ルールになってしまった理由でもあります」と明かしてくれた。

96年にデビューしたタイガーは、キングコブラのメタルヘッドを原型にタイトリストの名器「975D」を作る流れを作った

実際、タイガーが登場以降、世界のプロツアーは急速にパワーゲーム主流となっていったのだ。リックマン氏は「長い間、たった1つのルールの下で行われてきたのが“ゴルフゲームの伝統”である」と言った。

USGA傘下の国々とそれ以外の国で異なるルールが存在する状態。そのこと自体がゴルフの伝統を揺るがす由々しき問題であった。ルールを一本化する狙いも高反発規制にはあったのである。

高反発規制前に起きた最初の戦い
00年、打倒ビッグバーサの狼煙が上がった!

最初にドライバー進化の系譜について整理しておこう。ドライバーに大きな変化が起こったのは、ヘッド材料がパーシモン(柿の木材)からメタル(ステンレス)へと変わった80年代だ。

メタルヘッドを世に広めたテーラーメイドの創設者、ゲーリー・アダムスは、その優位性をこう説明していた。

「メタルなら個体差なく生産できます。店頭で試したクラブと同じものが新品で買えますよ。またソールにロフト角を示しました。それぞれに合う打ち出し角を選ぶことで飛距離も伸ばせます」

精密なヘッドを作り、フィッティングして最適弾道を売る。それがテーラーメイドの始めたことだった。しかし、メタルヘッドの多大な利益を世の中に示したのはキャロウェイだった。

キャロウェイはソールまで貫通したショートホーゼル構造(S2H2)を考案し、他社がネックに取られている重量をヘッドの大型化のために利用。最初のモデルが1991年に登場した『ビッグバーサメタル』だった。

それまで170cc程度だったメタルドライバーを重量アップせずに190ccまで大きくした。これにより慣性モーメントが飛躍的に大きくなり、ドライバーでのミスが抑えられるようになったのだ。

当時の開発責任者、リチャード・C・ヘルムステッター氏は、こう答えている。

「ビッグバーサの登場でドライバーがみんなの友達になったんです。そしてもうひとつ重要なのはプロにアマチュアが勝つチャンスがなくなったこと。なぜならプロがアマチュアと同じやさしいクラブを使うようになったからです」

写真右から。1991年「ビッグバーサ」、1995年「グレートビッグバーサ」、1997年「ビゲストビッグバーサ」

大型ヘッドの恩恵に気づいたキャロウェイは、95年にチタンヘッドの『グレートビッグバーサ』(250cc)、97年に『ビゲストビッグバーサ』(290cc)を発売し、時代の寵児になっていった。

他ブランドもこれに追随、争うようにドライバーの大型化を目指した。そして時代は21世紀へ。新たなドライバー開発の機運が芽生えていくことに。

キャロウェイ、テーラー、ゼクシオ、三つ巴の戦い

型チタンヘッドで時代の寵児に駆け上ったキャロウェイに、ナンバー1ブランドの座を奪われたメタルドライバーのパイオニア、テーラーメイドは2000年に打倒キャロウェイの狼煙を上げた。

ブランドロゴを一新し、『300シリーズ』を登場させたのだ。300・320・360の3ヘッドをラインアップし、それぞれに細かいロフトを設定。

テーラーメイド300シリーズ

1モデル・オールターゲットを標榜し、アマチュア向けモデルをプロに広めたキャロウェイに対し、テーラーメイドはトップダウン戦略で対抗。精悍でカッコよく、操作性もあって、適度にやさしい。それが新しいプロドライバーの姿となり、プロツアーを席巻していった。

その頃、日本でも画期的な出来事が起きた。00年、初代『ゼクシオ』が誕生したのだ。住友ゴム工業はずっとキャロウェイの販売総代理店として日本市場に大型チタンヘッドを広めてきたが、99年にその代理店契約が終了、更新はされなかった。

年間100億円近いキャロウェイ製品の穴埋めを果たすため、背水の陣で生み出されたのが『ゼクシオ』だったのだ。

初代ゼクシオ

ゼクシオの開発コードネームは“Cブレイク”。センチュリー・コモンセンス・キャロウェイ。3つのCを打ち破る!という意味が込められていた。

『ゼクシオ』は当時日本市場で人気を博していた キャロウェイの『ERC』シリーズをベンチマークとした。『ERC』は日本市場限定の高反発モデ ル。

これを超えなければ未来はない。さらなる高反発化、そしてキャロウェイにはない日本人が好む振り心地、爽快感を加味して『ゼクシオ』はスタートを切った。

ゴルファーが望む結果を目指した日本と、
ヘッド&シャフトの選択肢を増やした米国

2000年以降、キャロウェイがカーボンヘッドにシフトしていったこともあって、打倒キャロウェイドライバーの目論見は達成されていく。

米国ではテーラーメイドが復権し、今度はミスに対する許容性を高めながら、複数のヘッド、つまり選べる重心設計によって最適弾道(効率の良い飛距離)を目指す方向に多くのブランドがシフトしていくのである。

一方、日本でもRシャフトで285㌘という超軽量の『ゼクシオ』の軽快な振り心地とオートターン設計によるつかまり、そして強烈なインパクトの弾き感がたちまち人気となった。

『ゼクシオ』は初代から国内における売上げナンバー1を達成し、以来、自らをベンチマークとして開発を進めていく強大なブランドに成長していく。

そのゼクシオに対抗するために、その他の日本ブランドはもちろん、そして多くの海外ブランドが日本専用モデルとして、超軽量・長尺で、つかまりがよく、フェースの弾きがいい高反発ドライバーの開発に没頭していく。

2000年の戦いから数年間は、日本と米国で異なるドライバーが理想とされていた、ある意味わかりやすい時代だった。

クラブ設計家の松吉宗之氏は、この間のドライバー開発についてこう話している。

「日本(ゼクシオ)的なクラブ作りというのはターゲットゴルファーを明確化し、“クラブ全体で望まれる結果を出す”方向で進んでいきました。一方、米国はヘッドやシャフトの選択肢を増やし、さらに調節システムを付加することによって“ゴルファーが自由に結果を作っていける”方向に進化していきました。その出発点が2000年あたりにありそうですね」

当時、キャロウェイが米国で展開していたモデルは、フリーウェイト(余剰重量)の配置をターゲットゴルファーに応じて使い分けた『グレートビッグバーサ・ホークアイ』だった。

日本では前述の通り、高反発の『キャロウェイERC』チタンが大ヒットした。

日本と米国、それぞれの地で異なるキャロウェイドライバーが売れていたことが、後の日米ブランドのドライバー開発に大きく影響していくことになっ たのかもしれない。

打倒キャロウェイの志は同じでも、超えなければならない相手が違っていたのだ。(後編に続く)

週刊ゴルフダイジェスト2020年6月9日号より