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【ゴルフ野性塾】Vol.1729「気持ちが萎縮すると左右に曲る」

古閑美保、上田桃子など数多くの名選手を輩出してきた坂田塾・塾長の坂田信弘が、読者の悩みに独自の視点から答える。

前回のお話はこちら

15階から眺める桜の花、

満開の時を過ぎた。
今日4月7日木曜日。
曇りの空。
一昨日昨日と舞鶴公園の桜を見に行った。
一人の散策、500メートル程歩いた後、松の樹の下のベンチで10分程過した。
移動してまたベンチに座った。
石のベンチもあれば木のベンチもあるが、木のベンチの方が座り心地良しである。
大濠公園迄行った。
樹の葉は揺れてなかったが、濠の水面は北から南へ流れていた。樹の枝や葉よりも水面の方が風に敏感な事に気付いた。
カラスではない黒っぽい鳥3羽、低く飛んで行った。
北から南へと飛んで行った。
夕焼け始まる前だった。
桜の花が散った。樹の葉揺れぬ風でも散るのか、と思った。
1枚散れば続けて5、6枚散った。
昨年は15階から眺めるだけの桜だった。
今年は花を見上げた。
それだけでも昨年と今年は違う。あと少しか。ただ、あと少しがいつ迄続くのか。
予測の声を聞く。
そして、予測の声、散って行き、また新たな予測の声を聞く。
輪廻だな、この2年の出来事は、と思う。
回り回りて東西南北、回り回りて春夏秋冬。
昨日一日、無事に過せた。
今日も無事であれば幸いだ。
読者諸兄、如何にお過しか。
それでは来週。

小ぶりのドライバーへの変更を勧める。

ゴルフを始めたときから、アイアンよりもドライバーが苦手です。持ち球はややスライスです。練習場ではわりと真っすぐ飛んでいますが、コースでは右にも左にもいく感じで、OBが3~4発は出ます。調子が悪いと1発もフェアウェイに飛ばないこともあります。なぜドライバーが下手なのでしょうか。いい練習法はありませんか。(神奈川県・加藤光一郎・43歳・ゴルフ歴7年・平均スコア97)


クラブヘッドの大きさに違和を覚えなければ強き苦手意識は生じないと思う。
アドレスした時、大きいなと感じれば圧迫感が生じる。
私は柔道と空手の経験を持つが、相手を大きいと感じた時の己の気持ちは萎縮していた。
小さいなと思った時は相手の技の警戒すべき点を探していた。
競い事、己を知れと言うが、組み合う前から己の気持ちが萎縮してたんじゃ己を知るは難しいと思う。
相手を飲み込めと教わった。
眼の前の相手を小さいと感じた時は相手の存在を飲み込めた。そして、練習時以上の積極なる戦いは出来た。相手を大きいと感じた時は前に出る一歩の力、弱かったと記憶する。
興奮していても頭の中に冷静さがあった。己を見る冷静さだった。不思議と思った。ただ、その不思議さも試合を経験する程に消えて行った。
小学2年生の記憶である。

ゴルフ始めたのは24歳になったばかりの時であり、27歳と11カ月でプロテストに通った。
鹿沼CCの忘れ物の7アイアンで球を打ち、コースラウンドは貸クラブで始めたが、その貸クラブのヘッドは小さかった。
今より50年前のクラブヘッドはパーシモンであり、7本のクラブ総てが小ぶりだった。
最初に癖が生じる。
当てに行くか、思いっ切り振って行くか、の癖である。
空振りを怖れれば当てに行くスウィングとなり、飛ばしたいの欲、前面に出れば思いっ切りの振り生じると思う。
怖れたものは何か、怖れなかったものは何か、を知れば己を知る事に繋がるのではと考える。
私は好奇心強き人間だった。
私のゴルフの師は教えた。
「どこ迄、曲り行くかを確かめよ。中途半端は駄目だ。やるからは徹底した気持ちを持て」と。
私は師匠に恵まれた男と思う。
手取り足取りの教えは一度も受けていないが、ひと言の教えは多く受けて来た。
小針春芳プロ、金子光雄プロ、宮本留吉プロ、橘田規プロに教わった。スウィングを盗むは得意だった。ジーン・リトラー、サム・スニード、リー・トレビノのスウィングを彼等のラウンドから盗んだ。一番影響受けたのはジーン・リトラーだった。
トップから右の爪先が左足へとスリ寄って行く体重移動に驚いた。
真似た。運動靴の右足先っぽに穴が空いた。
補修した。追い付かなかった。
鹿沼CCはゴムの長靴を支給してくれた。
長靴履いて練習した。補修は運動靴よりも簡単だった。
誰も履かない古い長靴を切ってボンドでくっ付け、太い木綿糸で縫い込めば一週間は保った。
貧しい研修生だったが時間は充分あった。
夜の鹿沼の宿直室、眠る前の私の仕事は靴の補修だった。
プロテストに通った。
靴を補修しないでいい生活が始まった。プロになって一番嬉しかったのはそれだった。

パーシモンヘッドでも大きいヘッドとなって行った。
金属ヘッドの時代が訪れたが、最初の頃のヘッドは今と較べれば小ぶりだった。
私はパーシモンも金属ヘッドもロフトのあるクラブを好んだ。
そのロフト持つクラブで低い球を打つのが好きだった。
ドライバーの練習、ノーティーアップで打った。夕刻の周防灘の10番ティーが私のドライバーの練習場所だった。
鹿沼から周防灘に移籍したのは30歳の時だったが、移籍して1カ月過ぎた頃、理事長が私の練習を見に来た。
気付かなかった。私は気付かぬまま、球を打っていた。
70球打ち終えた。さあ、球拾いに行くかとボール入れのバッグを持った時、人の気配に気付いた。
挨拶した。
新貝修理事長は微笑んだ。その後、理事長は呟いた。
「やっぱりプロだな。ノーティーアップでそうも簡単に打てるとは」
私は何も言わず、ただ微笑んでいたと思う。
「好きなだけ練習してくれ。誰にも邪魔はさせん。いつ迄もこの田舎のコースにいる者とは思わんが、プロの仕事は試合と練習だろう。周防灘にいる間は存分にやってくれ」
私は頭を下げた。
理事長は私の球拾いを手伝ってくれた。そしてクラブハウスへ帰って行った。
良き時代だった。

私は田舎のコース、周防灘に30年間在籍した。移籍して7後、ペンを持った。
周防灘にも住む雇用促進住宅にも帰らぬ日々が始まった。
周防灘CC近くに住んだのは18年間。残り12年間は福岡市内に住み、周防灘に顔を出すのは1年に1度か2度のプロになっていた。給料は30年間、上り続けた金額を貰った。
女房が言った。
「1年に1度しか行かないのにこんなにお給料貰っていいのかしら。もう少し周防灘に顔を出すべきじゃない? このままだと従業員の方に忘れられるわよ」
理事長は亡くなった。
鹿沼の理事長も亡くなった。
周りの人に「坂田はいつ鹿沼に戻って来るんだ」と言い続けていたと聞く。
周防灘を離れた一番の理由は北海道ハッピーバレーGCの理事長になったからである。
理事長が他のコースの所属プロではおかしくないかと意見が出て来ていたが故の事。頼まれて理事長職、二期務めた。
周防灘には戻らなかった。
鹿沼にもだ。
振り返れば感謝の気持ちが湧くばかり。周りに迷惑掛ける好き勝手さではなかったと思うが、好き勝手に過して来た50年のゴルフ生活だった。
友は多い。
そして、その友も背中が丸くなって来た。勿論、私もだ。

貴兄には小ぶりのドライバーを勧める。
気持ちの萎縮を感じる。
技術的要因ならば球の曲りは一方方向。なれど左右の曲りであれば、アドレスした時の気持ちに要因あるのではと考える。
小さなヘッドで打って貰いたい。そして、低いティーでだ。
私のノーティーアップの練習経験は今も生きていると思う。
44年前、スプーンの高さの球が打てていた。
まずは小さなヘッドの購入を勧める。
以上です。

坂田信弘

昭和22年熊本生まれ。京大中退。50年プロ合格

週刊ゴルフダイジェスト2022年4月26日号より