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「プロを教えるプロ」の先駆け! 日本のティーチング界を変えた4人が集結<後編>映像解析を浸透させて江連忠の功績

30年以上前から同世代のゴルフを愛する若者たちが集う練習場が都内にある。ハイランドセンター。そこでゴルフを磨き、ゴルフを教えていた4人がそれぞれの夢に向かって独り立ちしていった。そして長い月日が経ち、久々に一堂に会し、これまでのこと、これからのことを語ってもらった。

PHOTO/Shinji Osawa

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江連 忠

1968年東京都生まれ。中学時代に棚網良平にゴルフを習う。日大櫻丘高校卒業後、渡米。マイアミ大学を中退後ジム・マクリーンに師事し、米国の最新メソッドを学ぶ。日本のプロコーチの第一人者で00年片山晋呉、01年伊澤利光を賞金王、07年上田桃子を賞金女王に導く。96年レッスン・オブ・ザ・イヤー受賞

永井延宏

1969年埼玉県生まれ。日大櫻丘高校ゴルフ部ではキャプテンを務めた。日大進学後、ゴルフ場に勤務しながらアマ競技に参戦。94年に渡米し、フロリダを拠点に試合に出ながらジム・マクリーンなどから米国のティーチング技術を学ぶ。帰国後、ハイランドセンターでレッスン活動を開始。06年レッスン・オブ・ザ・イヤー受賞

武田登行

1970年東京都生まれ。法政大学卒業後、22歳から渡米。フロリダでプロコーチのレッスンを見聞きして勉強。24歳からツアープロとなり、94~95年豪州ツアー、95~96年アジアンツアー、96~00年日本ツアーでプレー。35歳で引退し、指導者に転身。現在、松原ゴルフアカデミーでヘッドプロを務める

内藤雄士

1969年東京都生まれ。日大ゴルフ部在学中に米国へゴルフ留学。帰国後ハイランドセンターにて「ラーニングゴルフクラブ」を設立し、レッスン活動を開始。日本人初のツアープロコーチとなり、丸山茂樹の米ツアー3勝をサポート。現在、大西魁斗を指導している。日大ゴルフ部コーチ。03年レッスン・オブ・ザ・イヤー受賞

それぞれの思いを
胸にアメリカから帰国

それぞれがアメリカに渡って、ゴルフを学び、新たな知識を持って、再びハイランドセンターに戻ってきた――。

内藤 最初に江連がプロテストを受けに日本に帰ってきたんです。そしてプロテストに合格し、日本でゴルフスクールをやりたいと言い出したんです。アメリカのようにビデオ撮影をしてやるレッスンが日本にはなかった。画面にスウィングプレーンを描いたりすることもなかった。それを作ろうという話になって、ハイランドに室内練習場を建てたんです。スクールの名前は「ラーニングゴルフクラブ・イン・ハイランドセンター・ウィズ・江連忠」でした。

江連 94年だね。

内藤 ボクが事業部長という役職で、江連がチーフインストラクターでした。

江連 永井はオレのマネジャーとして入ったんだよね。

94年「ラーニングゴルフクラブ」の開校式。中央の白い服が江連で左のジャケット姿が事業部長の内藤

永井 いや、ティーチングをやりながらハイランド所属の江連のマネジャーみたいなこともしていたの。江連はクルマがなかったから運転手もしたでしょ。

武田 そうそう。試合は全部、オレがクルマで送っていたから。

内藤 そうだね。オレたちよく江連を迎えに行ったよね。途中から谷将貴が運転手をしていた。

江連 ここにいる4人以外にも、谷将貴や井上透も、当時ハイランドにいたね。


内藤 透は谷の紹介だった。その頃は植村啓太が生徒だった。

武田 啓太はボクが担当していたジュニアスクールの1期生です。

永井 ボクのイメージでは、武田はずーっとボールを打っていた記憶しかないんだけど。

江連 そう、ノブのスウィングはきれいだった。

内藤 ゴルフも上手かった。確かに練習ばかりしていた。めっちゃやっていたよね。

江連 そういえば当時、ジョグシャトルのビデオデッキを探すのが大変だったよな。

内藤 こういうのがないと困るって言うのは江連ですけど、探したのは全部、ボクですからね。文句ばっかり言うんですよ。1000分の1秒が撮れないと意味がないとかね。

永井 電器屋で江連がジョグシャトルを見つけて「買っていく?」ってよく言っていた。

内藤 ジョグシャトル付きのデッキってあまり需要がなくてすぐに廃番になったんで、メーカーや電器屋に電話して買いあさりました。それと打席を明るくしないと、撮影した映像のフェースが止まって見えないから、電球を明るくしないといけないので、よく電球が割れたりして大変でした。レンズも魚眼はゆがむからダメで、防犯カメラは暗くても映るからいいぞって、防犯カメラを付けたんです。そしたらパナソニックの本社の人が来てくれて。その後、見学にも来ました。そんな打席、日本にはなかったから。

永井 あの頃、秋のビッグトーナメントになると、海外招待選手の映像をよく撮りに行っていたよね。

内藤 名古屋までデービス・ラブⅢとジャスティン・レナードを撮りに行きましたよ。

江連 オレはニック・プライスを撮ったな。でも、その試合にオレも出ていたから、プライスに「もう
撮らなくていいから、自分の練習をしなさい」って怒られた。

内藤 ニック・ファルドにも怒られたよね。

江連 そう、ドラールでずっと付いていたら怒られた。

武田 ビジェイ・シンにも怒られた。「お前らどっか行け」って。

江連 トム・カイトのティーアップもよく観察した。ティーグラウンドに寝転がってずっと見ていた。ノブも一緒だったよね。そしたら翌年のペブルビーチの全米オープンで優勝した。分析するには比較する映像が必要で、それを持っていたのがオレだった。マクリーンのところにいたから手に入ったんだけど。当時、カール・ウェルディという先生がいて、その人が歴史的な映像をたくさん持っていた。そのアカデミーがあって、全員のデータを見ることができたんだ。91年か92年にグレッグ・ノーマンが来て、86年のスウィングにしたいと言うと、その映像が出てくる。今のスウィングと比較できるわけ。チチ・ロドリゲスやリー・トレビノなどのレジェンドたちとも話せた。20代の若造がね。それで日本に戻って、アメリカで培ったノウハウを日本に持ち込み、アメリカと同じシステムを導入しようとハイランドに設備を造ってもらったんだ。あの映像解析ができる打席は日本のレッスンの聖地だよ。

95年末のハイランドセンターにて。右端から谷将貴、永井、内藤で左端が武田。ここが日本のティーチングの聖地だ

内藤 ボクが24歳、江連が25歳のときです。

江連 日本のツアー会場にVHSのデカいビデオカメラを担いで行ったのはオレが最初だからね。

永井 江連の功績は大きいですよ。ビデオを使った画期的なレッスンを広めたことはもっと称えられるべきだと思います。昨今はYoutubeとか動画がたくさんありますけど、40年経ってもレッスンはそれほど進化していない。そのなかにおいて江連がアメリカから映像解析のシステムを持ち込んだことは明らかな飛躍でした。

内藤 永井さんもレッスンにおいては、すごいアイデアマンでしたね。ボクや江連は普通というかスタンダードですが、永井さんの視点はすごく独特で、そういう技術論を話しているのが楽しかったですね。

武田 確かにそうですね。永井さんはボクらとは視点が全然違うんです。ボクや北野(正之)にとっては永井さんが師匠的な感じですから、永井さんの発想が頭の中にできてスウィングが研究できるようになりましたね。

「レッスンの視点が全然違う。永井さんはボクの師匠です」(武田)

左が武田で右が澤田繁典(ゴルファーレのヘッドプロ)。撮影したのが永井だ

江連 永井の印象で大きいのは竹林(隆光)さんでしょう。クラブの知識、理解度をプロたちに説明するところはすごかった。感覚的から理論的なものへとね。みんな永井に竹林さんを紹介してもらったよな。

永井 竹林さんを紹介してもらったのはダイジェストの編集者さんからですけど、本当に貴重なご縁でした。クラブとスウィングの関係を取り込むことができましたから。江連は(竹林さんが設計した)ゲロンDという長尺ドライバーを使用して、ドライビングディスタンスでダントツの1位で、ゲロンDのローンチに一役買っていました。江連はプレーヤーとしての才能もあった。とにかく飛んだんです。テーラーメイドの契約になったときも、青いステンレスヘッドにインテグラルシャフト(後のバブルシャフトの原型)を挿して350Yくらい飛ばしていた。

内藤 ウチの所属だったので、江連にはもっと自分のゴルフに専念しろよって言っていましたね。94年にブライアン・ワッツと優勝を争ったのはどの試合だっけ?

江連 KBCオーガスタ。最終日の朝にマクリーンに「トップなんだけど、どうしたらいい?」って電話したら「調子がいいんだからそのままやればいい」って言われてね。でも体力で負けちゃいけないって思って、ユンケルとか栄養ドリンクをたくさん飲んだら、スタート前に吐いちゃった(ワッツ、尾崎将司と優勝を争って4位)。

内藤 江連は緊張しいだから。

江連 次の週の関東オープンでも最終日トップだったの。永井にキャディをしてもらって。

永井 3日目のフロントナインが終わった時点では9打リードしていたからね。それで最終日の朝の練習もドライバーが全部真っすぐ飛ぶし絶好調。

内藤 ハイランドからも大応援団が駆け付けました。

永井 それで会場の都賀CCの1番ホールは打ち下ろしの330Yくらいで、ドライバーで打てば1オンも狙えるホール。江連が「永井、どうする?」って聞くから、「あれだけ調子がいいんだから、ドライバーで行けよ」と言ったら江連も「そうだな」とドライバーを持ったら……。

武田 右45度のOB!

内藤 絶対に勝つと思っていたんですけどね。

武田 あのショットはなかなかの伝説ですよ(笑)。

江連 あのとき勝っていたら、その後のオレの人生は変わっていたかもしれない。

永井 確かに。そのとき勝ったのが佐々木久行さんで、その後に日本シリーズにも勝って、翌年にはQTを突破してPGAツアーに参戦しましたからね。江連がそうなっていた可能性もありますね。

江連 前の週に優勝争いしたときは真面目にしていたの、遊ばずにね。でもそれで負けたから、今度は前夜に遊びに行こうって永井に言ったの。そしたら永井が「ニック・プライスはそんなことしないよ」って。当時、オレはニック・プライスのファンだったから、そうだなって我慢したの(笑)。でも、オレが何でいいコーチになれたのか。答えは簡単で、オレが一番、緊張しいでミスをする。ミスをすると呼吸が浅くなって不安になり、震える。それがわかったからこそ、教えられるんだと思う。

内藤 そうだね。みんな、あの頃がなかったら今はない。

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永井 最後にみんなに聞きたいんだけど、この30年余りを振り返って、どんなことを思う。これからやりたいこととかある?

武田 日本にはアメリカのようなコーチングサミットみたいなものがない。最近の若手のコーチは第七世代で、ボクらは第三世代らしいんだけど、そういう世代によっても教え方はバラバラなんです。もうちょっと教え方のアイデアや発想をみんなで話し合える機会があってもいいかなって思います。

内藤 ボクは今もツアーに行っていますけど、行き始めたのは98年くらいから。ツアーからコーチバッジを最初に出してもらったのが、ボクと井上透と宮下(修)さんと秋山(武雄)さんの4人でした。ジャンボ(尾崎将司)さんとかに署名してもらって実現したんですけど、アメリカではコーチがすごく認められています。でも日本のツアーではあまり待遇がよくなくてクラブハウスに入れない試合もあります。だからこれからコーチになる人たちのためにも、居心地のいい場所にしていきたいですね。井上透くんがコーチ協会を作りたい、一緒にやりませんかと言ってくれていて、まだ全然進んでいないのですが、ノブが言うコーチサミットも含めてコーチたちのポジションを確立していきたいですね。

江連 オレがETGAを立ち上げたのが2003年で、50歳までにメジャーチャンプを作ることが目標だった。そして50歳になるときに渋野日向子が勝った。松山英樹くんもマスターズに勝った。日本人がこれからどんどん勝てるよっていう方向には行っていると思う。そして今、ゴルフは個人戦からチーム戦になった。その礎を築くことはできたと思う。これまではコーチがチームを作ってきたけど、選手が作るほうがいいよね。今は教えていないけど、小1から教えていた杉原大河が世界に行くんだったら個人的には行きたいなって思う。そういう夢はある。以前から言っていたけど、国内男子ツアーの試合数が20試合くらいになれば、選手たちは世界に行くしかなくなるって。今そうなってきて、実際に世界に行く選手が増えてきた。だからこれは衰退ではなく、チャンスなんだよね。そして最後の夢は“練習場で教え子がいい音をさせて打っているときに死ぬ”だね。

永井 ボクは、ゴルファーが幸せになれているのかっていう疑問がある。今はYoutube全盛ですが、ああいう情報発信とは別に、我々の現場から生まれるものがある。トラックマンとかのムーブメントも我々の功績は大きいし否定をするつもりはないけど、我々が見てきた知識や経験はゴルファーに還元すべきだし、もっともっとゴルファーに幸せになってもらいたいですね。ボクらもあと何年レッスンできるかわからない、人生は有限ですから。そして当時のボクらにとってハイランドセンターは、内藤くんのお父さんの理念も含め、ゴルフを愛する者たちが集まる場所でした。

江連 いいこと言うね、やっぱりキャプテンだよ(笑)。

週刊ゴルフダイジェスト2024年4月2日号より