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【ノンフィクション】高島早百合「暗と明」イップスを乗り越えてドラコン女王へ

PHOTO/Tomoya Nomura、Yasuo Masuda

抜群のスタイルと美貌と飛距離でプロ入り後注目を浴びた高島早百合。いつしか表舞台から姿を消したように思えたが、今やユーチューブでも人気の飛ばし女子。彼女の人生は自分の「存在意義」を探す旅でもあった――。

京都には、千年の都が醸す優美な明るさのなかに、ふとした暗さを感じさせるものがある。それは、千年の間に起きた幾多の政争で流された血が、この地に染み付いているからだという人もいる。

そんな明と暗が織りなす京都で生まれ育った高島早百合のこれまでのゴルフ人生も、明暗、わかれる17年間だった。

12歳でゴルフを始め、15歳のときに京都を離れ東北高校のゴルフ部に入る。高3で東北ジュニアで優勝し、卒業の年にプロテストに一発合格。期待の新人として注目を浴びるなかでプロ生活をスタートしたものの、ショットイップスに悩み、その後、低迷。16年から3年間は、13歳からの師匠である和田正義のもと、仙台で再起を目指す。18年に出場したドラコン大会で当時の女子日本記録「365Y」で優勝。以後、ドラコン女王として再び注目を集めるようになった。

それにしても、スター選手になり得る資質を人一倍持ちながら、どうして高島早百合はイップスに侵されツアーの一線から離れることになったのか。話を聞いていくとどうやら、子どもの頃から彼女が自らに問い続けた、『自分の存在価値は何なのか』という強烈な自意識が仇になったのかもしれない。

「飛ばすことがなかったら
何の価値もない」と思っていた

高島が12歳でゴルフを始めたのは父親の勧めがあったからだった。

「スポーツは何でも得意で、小学校では習い事で水泳と部活で陸上をやっていました。中学校に上がるときに父がテニスかゴルフをやったらどうかと提案してきて、私はテニスをやりたかったけれど、結局、家の近くのゴルフ練習場のスクールに入りました。後に母親から、私は運動神経も良かったし、活発だし、負けず嫌いだし、将来スポーツで生計を立てていけるのではという期待もあったと聞きました」

ゴルフを始めて半年後に初めて出た試合で「100」を切り、3位入賞で表彰された。これを境に生来の負けず嫌いの性格に火が付き、練習に打ち込むようになったが、周囲は6歳からゴルフを始めた子ばかりで、12歳から始めた高島との差は歴然。高島は運動能力は抜きん出て良かったが、ゴルフの技術に関しては大きく遅れをとっていた。そんななかで唯一、誰にも負けなかったのが飛距離だったのだ。

「最初から、私より前にゴルフを始めた子たちよりも私のほうがずっと飛んでいました。でもそこに優越感はなく、それでようやくプライドを保っていた感じでした。他のモノがみんなよりも下手だったので、『私は飛ばすことがなかったら何の価値もない』と思っていましたから」

飛ぶことに最大の優越感を見出せるオヤジゴルファーのごときメンタリティを持てればよかったのだろうか。飛ぶことが今の自分の唯一の存在価値であるとする生真面目さが、その後も高島を追い詰めるのである。

中学2年生のときに、父親の仕事関係から紹介され仙台のプロのもとに夏休みの1カ月間、母親が付き添いレッスンを受けにいくことになった。それが和田正義だった。ツアープロだった和田は、2006年にLDA世界ドラコン選手権日本大会で優勝したドラコン界のレジェンドだ。このときから高島にとって和田は、「師匠」と呼ぶ存在になった。高校進学で東北高校を選んだのも、仙台で和田に教えてもらえることが大きな理由だった。

東北高校に入った当初は全国レベルにほど遠かった実力が、3年生のときには東北ジュニアで優勝し、全国のトップレベルに手が届くまでになっていた。そして、高校卒業の年にプロテストに一発合格する。折からの女子プロ人気のなか、美人で高身長、おまけに超ロングヒッターの高島は俄然メディアの注目の的となった。目の前に明るい未来が開けたようだが、それは高島の生真面目さから予想外の暗転をする。

「プロになりたてで、まだ成績も出せていないのに、メディアの人たちが寄って来て、突然世間から注目され、そのうちにスポンサーが付いてくれて。そうなると期待もされるわけだから、それなりの結果を出さないといけないという気持ちが強くなり、次第に失敗はできないんだと思うようになったんです」

しかし、なかなか期待通りの活躍ができないなか、QTで失敗した高島は、ショックからショットイップスに悩むことに。

「プロ入り後、3回目のQTのセカンドで落ちたときです。通って当り前と思っていたので、結構なダメージでした。落ちた原因が、まずドライバーで右にプッシュアウト、その後にアイアンで2回の引っかけ。こういうミスをしたらこういう結果を招くという『失敗体験』が体に残り、それがイップスの始まりです」

2010年の日本女子アマでの高島。ゴルフを始めた頃から“飛ばし屋”だった自分の武器にがんじがらめになり、周囲の期待が「失敗できない」気持ちを生み、イップスに。「逃げたいたわけじゃない。立ち向かおうとしたからこそドツボにハマッた」

「失敗できない」「逃げちゃダメ」
悪循環に陥った

高島は、自分が陥ったイップスというゴルファー特有の病の恐ろしさについて、そして、それがいかに他人に伝わらないか、そして、世間はそういった心の病に関していかに無知で時に冷淡かを、滂沱(ぼうだ)のように語り始めた。


「打つ前はボールの周りの景色がゆがんで見えるし、体中がぞわぞわする変な感覚に襲われ、何とかクラブを上げても、ダウンスウィングで腕の力が入らない。でも、腕が動かなくても『打たないといけない』と思うと、体で打ちにいくんです。そうまでして試合に出たのは『存在意義』のためです。プロゴルファーというものは、スポンサーやファンのためにも試合に出ることに存在意義があると思っていましたから。だからもうすべてがプレッシャーで、失敗したらまたこれでスポンサーや応援してくれる人に恩返しができなくなる。そう思うとショットが怖くなるじゃないですか。本当は、試合に出続けたかったわけじゃないんですよ。でも20代前半で、ここからでしょうと言われているときに、とりあえず休みたいとか言うと、『そんなのは逃げでしかない』と言われるし、そう言われたら、逃げちゃダメだって思うじゃないですか。まあ、苦しかったですね」

滂沱のごとく語る高島が、本当に泣いているのではないかと思い、目を上げて彼女の顔を見たら、そこには、しっかりと目線を据えてこちらに訴えかける目があった。

「私が96のワーストスコアを出したときに、姉が『なんかヤフーにコメント載っていたから大丈夫かなと思って』ってわざわざ連絡をくれて(笑)。見ると『こんな下手くそを出す主催者側の意図がわからない。もっと有望な奴を出せ』とか『プロ辞めたほうがいい』とか。ソレを見たときに、当たり前だけど、こっちの事情や過程なんて見せられないわけだから、やっぱり数字なんだなって。イップスって運動障害的なこともあるけど、精神的なことも相当にあると思う。メンタルが弱いからだとかよく言われるけど、私は別に逃げていたわけじゃなくて、逆に立ち向かおうとしたからこそ、ドツボにハマッたのかなって思っています」

ゴルフ以外でお金を稼ぐ経験をして
何か変われた感じがした

そのうちに、同時期に左手を怪我したことも重なって、練習もほとんどしなくなり、所属先のコースでの仕事後の練習も球を数発打って家に帰ることが多くなった。することがないのでベッドで仰向けになって天井を見つめながら、試合に出ない自分に何の価値があるのかを考えて毎日を過ごしていた。そんな日々を師匠の和田に話したら、仙台に帰ってこい、純粋に自分のためにゴルフをやっていた中・高校生の頃の環境に身を置けば、何かわかることもあるんじゃないか、と提案してくれたのだ。高島は16年に仙台に行き、和田とともにプロゴルファーとしての再生を図ることにした。

「仙台に行った2年目からはまったくスポンサーがない状態になり、精神的には楽になったけど、でも生活費を稼がないといけなくなって。それで、夜の10時から夜中の2時までファミレスのホールの仕事を週3日やったり、夜12時から朝までパチンコの新台入れ替えをやったりしました。このときに、社会って大変だなって思ったけど、でも自分はゴルフがなくても生きてはいけるのかなって思えた、それが大きかったですね。イップスで悩んだ最中は、ずっと自分はプロゴルファーとしての高島早百合しか存在価値がないと思っていて、だからゴルフができなくなったらもう終わると思っていたんですよ。だってゴルフ以外に何もやってこなかったから。でも、ゴルフ以外でお金を稼ぐ経験をして、何か変われた感じがした。そんなときに、和田さんに勧められドラコンに出るようになったんです」

2018年のLDJ日本大会予選に出場した高島は、「365Y」という、当時の女子日本記録を出し、いきなり優勝という、ド派手なドラコンデビューを果たしたのである。

今春のジア・メディカルCUP日本ドラコン選手権でも優勝。「ツアーでは運ぶことが目的なのに、ドラコンはとにかく遠くに飛ばすことを目指して振る。これが良かったんでしょうね」

高島早百合の1Wスウィング

「最初はイップス克服のきっかけになればとドラコンに出たけれど、いざ出てみたら、ツアーでのドライバーショットとはまったく違う感覚がそこにありましたね。ツアーではアソコに運ぶことが目的なのに対し、ドラコンはとにかく遠くに飛ばすことを目指して振る。思い切り振れるので全然、感覚が違う。ソレが良かったんでしょうね。このときに、純粋にその競技で勝てたという成功体験が、プロになってようやく私に訪れたわけですよ。私の才能ってこれだったんだなって感じました。もちろん今でも、『飛ぶだけ』って思われているし、『飛ぶけどプロゴルファーとしては下手くそ』だとか言われるだろうけど、でも『自分は飛ぶ』っていうことに対して初めて自信を持てたんです。だからドラコンという競技にはすごく感謝をしているし、それを紹介してくれた和田さんにも感謝をしています。プロゴルファーという道筋はツアープロだけだと思っていたものが、こういう道も歩いていけるんだという可能性を見出せたことは、本当にありがたいことでした」

高島は、2017年のQTでセカンドを突破してサードまで進み、ツアープロとしても復帰への途上にある。「ゴルフが普通にできるようになったけど、まだ試合に出たいとは思えないんですよね」というから、本格的な復帰はあと少し待つことになるだろう。そんな高島が今年の8月21日に『高島早百合Presentsドラコン大会』を開催する。

「ドラコンというと、力自慢の大男がゴリゴリ優勝を競う大会をイメージしがちですが、今回は『普通の人が、普通に楽しめるドラコン大会』にしたいと思っています。もちろんプロも出ますし私も出ますので、ドラコン選手のスウィングを間近で見て、感じてほしいですね」

「私は飛ばすことがなかったら何の価値もない」と思っていた12歳の少女は、「見るだけの価値がある飛距離を生む」プロフェッショナルになった。


文●古屋雅章

ふるや・まさあき。雑誌記者、業界紙記者を経て、ゴルフ専門雑誌の編集記者となりゴルフの取材に長く携わる。現在はゴルフを中心に、ボクシングや格闘技などの取材も行うフリーのライター


週刊ゴルフダイジェスト2021年8月10日号より

高島早百合
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