Myゴルフダイジェスト

【全英オープン物語<前編>】「出場選手は8人」「12ホールを3回」161年前“The Open”はこうして始まった

TEXT/Takeo Yoshikawa PHOTO/Joe Yoshikawa、Hiroaki Yokoyama  SPECIAL THANKS/Andrew Thomson

今年の全英オープンはイングランドのロイヤルセントジョージズGC、通称“サンドウィッチ”で開催される。第1回大会が行われたのは1860年10月、スコットランドのプレストウィックGCだった。今年で161年目(大会は149回目)を迎える世界最古のオープン競技の歴史をたどってみると、近代においては米国選手の圧倒的な強さが際立っていた。

第1回全英オープンは
1860年10月17日
プレストウィックGCで行われた

最も歴史のあるオープン競技といえば全英オープン。最初はスコットランドのプロだけだったが、参加者が少なく、プロアマを問わず呼び掛けたことから今につながっている。

12ホールを3回プレーして
勝者を決めた

1851年、プレストウィックのパブ、レッドライオンインにゴルファーが集まり、A・O・エグリントン卿をキャプテンに選出し、入会金、年会費を1ポンドずつ徴収してプレストウィックGCが設立された。

12ホールのゴルフ場が完成すると1853年にセントアンドリュースのトム・モリスを専属プロとして雇用。

1856年にチャンピオンシップ開催の話が持ち上がったが、そのときには詳細が決まらず、1860年10月16日になって再度レッドライオンインで会合が開かれ、勝者に贈られるチャンピオンベルトが披露された。翌17日の正午に会合を終えると、歩いてプレストウィックGCに向かったのは、トム・モリス、ウィリー・パーク、アンドリュー・ストラス、ボブ・アンドリュー、ダニエル・ブラウン、チャールズ・ハンター、アレックス・スミス、ウィリアム・スチールのわずか8人。全員がプロで、競技は12ホールを3回プレーする方式だった。

トム・モリス(奥)とアラン・ロバートソン(手前) アラン・ロバートソンはプロゴルファー1号。本業はクラブとボールの製作で、1835年、14歳のトム・モリスが弟子入りしている。競技者としても優れ“不敗の名手”と呼ばれた。セントアンドリュースのオールドコース改修、カーヌスティGL設計も手掛けた

第1回全英オープンが行われたのはスコットランドのプレストウィックGC。早くから鉄道が発達した英国らしく、バンカーの壁が崩れないように枕木が随所に使われている。後年、ここを訪れたコース設計家のピート・ダイは枕木を多用し“ スコティッシュへの回帰”を唱えた

現在でもプレストウィック駅前にある「レッドライオンイン」。1860年10月17日、ここでの会合が終わると、8人のプロは歩いてコースに向かい第1回全英オープンが行われた

全英4度優勝
薄命の天才“ヤング”モリス

第1回大会はマッセルバラリンクスのウィリー・パークが174のスコアで優勝し、赤いモロッコ革のベルトを獲得した。このベルトは1年間保持する名誉が与えられ、3回連続優勝すれば所有することができた。だが8名だけの参加、しかも悪いスコアだったことから、第2回大会では全国から参加者を募り、プロアマを問わないことになった。「チャンピオンシップベルトを全世界に公開する(Open to all the world)」と宣言したものが全英オープンの憲章とされ継承されている。

3回連続優勝をしてチャンピオンベルトを所有した“ヤング”モリスことトム・モリスJr.。全英を4回制覇している

トム・モリスが4回、ウィリー・パークが3回勝者となり、変化がないことからか参加者は増えず、スコアも向上しなかった。1868年の第9回大会はトム・モリスの長男で通称“ヤング”モリス(17歳)が157で優勝。翌69年には154、70年には149とスコアを更新し続け、3連覇を果たしてベルトを獲得した。71年に開催されなかった理由は、ベルトの寄贈者エグリントン卿が死去していたからだといわれている。72年に競技は再開され、優勝はまたしても“ヤング”モリスだったが、1875年12月25日クリスマスの朝、24歳という若さでこの世を去った。

プレストウィックGCに加え、1873年にセントアンドリュース、翌年マッセルバラリンクスが参加し、古代ペルシャの酒瓶をデザインした現在のトロフィ「クラレットジャグ」が1873年大会から授与されるようになった。

1876年全英オープンの謎

第16回大会はセントアンドリュースで行われたが、ボブ・マーティンとデビッド・ストラス(写真)は86、90の同スコア。全英オープン初のプレーオフとなったがストラスはそのまま家に帰ってしまい、ボブ・マーティンの優勝。マーティンは75年2位、9年後の85年も勝ち、87年は2位だった。ストラスは70、72年2位に入っていて、兄のアンドリューは65年大会に優勝。78年病気静養のためにオーストラリアのメルボルンに渡り79年にこの世を去っている。

「3巨頭時代」の幕開けと
米国からの挑戦者たち

19世紀末から20世紀初頭は、英国の選手が最も輝いた時代だった。この四半世紀の間、3人のプロが全英オープンをほぼ独占。敵なしの状態で、ローマ時代の3頭政治をなぞって「3巨頭時代」と呼ばれている。

「3巨頭時代」を築いたJ・ブレード(左)、J・H・テイラー(中)、ハリー・バードン(右)

21年間で16回
全英を制した3人

1894年にはロイヤルセントジョージズGC(サンドウィッチ)、97年になるとロイヤルリバプールGC(ホイレーク)が参加。1900年から予選制が採用され、36ホールで1位より19ストローク以上はカットされるようになり、01年には参加者が100人を記録。この頃から英国のゴルフは黄金時代を迎えることになった。

1894年サンドウィッチでの大会に勝ったイングランドのジョン・ヘンリー・テイラーは、翌95年、00、09、13年と5回優勝すると、ジャージー島出身のハリー・バードンは、96年にテイラーの3連覇を阻止して98年、99年、03年、11年、14年と勝ち続けた。ジェームズ・ブレードは、01年に優勝すると05年、06年、08年、10年と5回制覇。1894年から1914年の21年間でこの3人で代わるがわる16回も優勝したことになる。2位もテイラー5回、バードン4回、ブレード2回の計11回。3巨頭がいかに強く、全英オープンを独占していたかが分かるだろう。

1914年プレストウィックGCでは、この3人はそれぞれ5回全英を制していたため、「誰が6回目を制するのか」と、英国全土を挙げての関心事となり試合前から興奮に包まれていた。予想通り、最初から3巨頭の争いとなり、バードンが6度目の優勝を飾った。だが、この大会は3巨頭が顔を合わせた最後の試合となった。

英国を絶望させた
米国選手の快進撃

興隆を極め始めた全英オープンだが、第1次世界大戦によって5年間も中断を余儀なくされた。戦後になると新興アメリカのプロ達が挑戦するようになった。1920年ロイヤルシンクポーツGCでは、ウォルター・ヘーゲンやジム・バーンズが参戦し、翌21年にはアマチュアのボビー・ジョーンズを含めて12名の米国選手がエントリー。米国のジョック・ハッチソンが優勝したこの大会では上位に米国選手が入り、英国人にとっては一大事と映った。22年大会でウォルター・ヘーゲンが優勝すると、24年にも勝ち、26、27年にボビー・ジョーンズが連覇し、28、29年はまたしてもヘーゲンが優勝した。30年にボビー・ジョーンズがグランドスラムとなる3回目の優勝を果たし、31年トミー・アーマー、32年ジーン・サラゼン、33年では米国同士のプレーオフになり、7位までが米国選手だった。21年から33年までで英国選手が勝ったのは23年のアーサー・ヘイバースと25年のジム・バーンズだけだった。

920年代に強さを見せたのは米国のウォルター・へーゲン。全英にも挑戦し1922、24、28、29年と4回制覇。写真は1928年サンドウィッチで優勝スピーチをするお洒落なヘーゲン

ボビー・ジョーンズが最初に全英オープンに挑戦したのは1921年のセントアンドリュースで19歳だった。3日目前半で10オーバー、10番をダブルボギー、11番のパー3で6 打目のパットをせずに棄権。その後26年、27年と優勝し、30年の優勝でグランドスラムを達成した

>>「英国救済の星、ヘンリー・コットンの台頭」
は<後編>へ

<参考文献> The Complete book of Golf、The glorious world of Golf 、The Scottish Golf Book St Andrews & The Open Championship

週刊ゴルフダイジェスト2021年7月27日号より