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【全英オープン物語<後編>】1934年ロイヤルセントジョージズに英国ゴルフの救世主が現れた

TEXT/Takeo Yoshikawa PHOTO/Joe Yoshikawa、Hiroaki Yokoyama  SPECIAL THANKS/Andrew Thomson

1860年に第1回大会が開催された、最古のオープン競技「全英オープン」の歴史を紐解く本特集。後編では、1930年代、米国勢の快進撃に歯止めをかけた英国選手の逸話から、再び米国勢が台頭する現代にかけての流れを追っていく。

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英国救国の星
ヘンリー・コットンと
英連邦の台頭

英国選手が勝てない時代に現れた貴公子ヘンリー・コットンは、英国民の期待を一身に受けることになる。全英オープンには3回優勝しているが、英国以外に居を移し、その重圧から逃れようともしていた。1934年の優勝後には病に伏せていたハリー・バードンの枕もとにクラレットジャグを届けたという逸話も残している。

上流階級のコットンに
過度の期待が集まった

医師か弁護士になると思われていた上流階級出身のヘンリー・コットンが選んだ職業は何とプロゴルファーだった。多くの仲間がコットンの行動に戸惑ったのは、その時代ではプロは身分的に低く、クラブハウスに入れなかったからだ。だが、コットンはそんなことは、まったく気にしていなかった。

1934年、ロイヤルセントジョージズでの大会で、初日67、2日目65という、当時としては驚異的なスコアを記録して首位に立つと、最終日、米国勢を振り払って9年ぶりに英国選手による優勝を遂げた。英国民が歓喜したのは当然で、評論家バーナード・ダーウィンは「英国ゴルフの夜明け」と称えた。2日目に記録した65のスコアを記念して「ダンロップ65」というボールが発売されたほどだった。

英国民期待の星ヘンリー・コットンは、1934、37、48年と3回優勝している。強かったがメンタルはそれほど強靭ではなく、34年優勝のあと、「重圧で逃げ出したかった、そして体調が悪くなった」と語っている。悪天候のなかで記録したスコア65を記念して「ダンロップ65」というボールが発売された

その後、35〜39年まで英国選手が勝ち続け、37年にはコットンが全英オープン2勝目を挙げている。強い英国時代が訪れ、多くの英国民は安堵の日々を送っていたが、第2次世界大戦が勃発し、40年から5年間、再び試合のない空白の時を経験することとなる。

大戦後は46年サム・スニード、47年アイルランドのフレッド・デイリーが制し、48年こそコットンが優勝したが、上位に英国の選手はいなかった。


第2次大戦後は
英連邦の選手が活躍し始めた

南アフリカのボビー・ロックは、アマチュア出身でプロ転向は20歳だった。パットの名人だったが変則的で「パターのトウでボールを合わせ、体を右に向ける極端なクローズドスタンスだった」とゲーリー・プレーヤーは語っている。ロック本人は「南アのグリーンは芝目がきつい。それに負けない転がりをするためにオーバースピンを与えるのだ」と述べている。1949、50、52、57年と4回優勝しているが、52、57年大会での2位はオーストラリアのピーター・トムソンだった。

13歳でピーター・トムソンがゴルフを始めたときは第2次世界大戦中で、多くの大人が戦場に駆り出され、ゴルフ場は空いていた。そのためかなり自由に練習ができたという。「オーストラリアは乾燥しているからフェアウェイは硬い。そのようなコースでどうしたら上手く打てるのかを自然と身につけていった。だから、全英オープンに参加しても難しいことはなかった。米国選手のように、散水され、よく手入れがされた軟らかいフェアウェイでプレーをしているのと異なり、硬いフェアウェイでどうすればよいかを知っていたからだ」と後日、息子のアンドリューさんに話している。

トムソンは1954年に優勝をすると、55、56年と3年連続、58、65年にも勝ち、全英オープンを5回制覇した。この偉業達成によってエリザベス女王から「サー」の称号を授けられた。

「南アも乾燥していてフェアウェイは硬い。だからボビー・ロックも4回勝てたのだ」とも語っている。

1960年セントアンドリュースの大会では、同じオーストラリアのケル・ネーグルに「自分は、今年あまり調子が良くない。だからどう戦えばよいのか教える」と一緒に練習ラウンドを行い、その甲斐あって、ネーグルは猛追するアーノルド・パーマーを振り切っての優勝となった。1949〜60年の12年間で10回も英国以外の英連邦の選手が勝利したことになる。

ピーター・トムソンのアドバイスにより全英に優勝したオーストラリアのケル・ネーグル。日本の試合にも参戦していた。2007年に世界ゴルフ殿堂入り

再び米国勢が
全英オープンを席巻し始めた

第2次世界大戦後は、それまで以上に多くの米国選手が参戦するようになり、1946年のセントアンドリュースでは早速サム・スニードが優勝。1960年代に入るとアーノルド・パーマーを筆頭に、ジャック・ニクラス、リー・トレビノ、そして“ヤングライオンズ”の旗手トム・ワトソンと続いた。

アーノルド・パーマーは61、62年と連続で全英を制覇した。オーストラリアのケル・ネーグルが勝った60年大会では猛追したものの2位に終わり、相当悔しがっていたという

60年代以降は
米国選手の強さだけが目立った

大戦後、復興とともに英国選手の活躍が期待されたが、実際は英連邦と米国の選手に席巻された。48年にヘンリー・コットン、51年にマックス・フォークナーが勝利したものの、英連邦の選手が勝ち続け、そして61、62年にアーノルド・パーマーが勝ち、英国選手の勝利は69年まで待たねばならなかった。

ロイヤルリザム&セントアンズでの大会に優勝したのは25歳、生粋の英国人トニー・ジャクリンだった。51年のフォークナー以来の快挙で、またしても英国は熱狂の歓喜の渦にのみ込まれた。さらに英国民を喜ばせたのは、翌70年の全米オープンに出場したジャクリンが、4日間単独トップを守り、完全優勝を果たしたからだ。まさに英国にとって待ち望んでいた英雄の出現だった。

1969年のロイヤルリザム&セントアンズで優勝したトニー・ジャクリン。20年近く英国選手がナショナルオープンに勝てていなかっただけに、英国民の喜びは大きかった。さらに歓喜の渦が巻き起こったのは、翌70年の全米オープンで完全優勝を果たし雪辱を果たしたからだ。喜びカップを抱きかかえるジャクリン

だが、最も期待された全英オープンでは2度目の優勝はなく、ゲーリー・プレーヤー(59、68、74)、アーノルド・パーマー(61、62)、ジャック・ニクラス(66、70、78)、リー・トレビノ(71、72)、トム・ワトソン(75、77、80、82、83)、セベ・バレステロス(79、84、88)などの海外選手の活躍が目立ち、近年でも1996〜2019年までの23年間で実に20回も英国以外の選手が勝利している

ゴルフ発祥地のナショナルオープンとしての全英オープンは、3巨頭時代までは英国選手の活躍が見られるが、それ以降、現在まで英連邦を含めた外国勢によって制覇され続けているといえるだろう。

(左)ジャック・ニクラスが初めて勝ったのは1966年のミュアフィールド。その後も70、78年と3回制覇。(中)全英オープンで強さを見せたのはトム・ワトソン。1975、77、80、82、83年と5回勝ち、圧倒的だった。(右)1979年ロイヤルリザム&セントアンズを制覇したあと、84、88年に勝っているセべ・バレステロスは、80年のマスターズも制している

(左)サンディ・ライルが優勝したのは1985年ロイヤルセントジョージズでの大会で、英国選手の勝利はトニー・ジャクソン以来16年ぶりだった。(右)2000、05、06 年大会を制したのはタイガー・ウッズ。この期間、02年に南アのアーニー・エルスが勝った以外はすべて米国選手が優勝している

<参考文献> The Complete book of Golf、The glorious world of Golf 、The Scottish Golf Book St Andrews & The Open Championship

週刊ゴルフダイジェスト2021年7月27日号より