【名手の名言】青木功「入らなかったら『カップが動いた』、入ったら『カップが待ってた』」
レジェンドと呼ばれるゴルフの名手たちは、その言葉にも重みがある。ゴルフに限らず、仕事や人生におけるヒントが詰まった「名手の名言」。今回は「世界のアオキ」こと青木功の言葉を2つご紹介!
入らなかったら「カップが動いた」
入ったら「カップが待ってた」って
いつでもカップのせいにするの
青木 功
1980年の全米オープン、帝王ニクラスと4日間同組で競り合って2位。優勝のニクラスをして「オリエンタルマジック」といわしめた世界のアオキの最大の武器がパッティング。
どんな名手・達人でも、自然の風、芝の1本まで読みきることは不可能。だから、青木は自分なりにラインを読み、ストロークしたら、あとは神のみぞ知る、いやカップのみぞ知ると割り切るのだ。
悪いのは俺のせいではない、カップのせいだ……。これを自分のせいだと考えはじめてしまうと、イップスという病魔が襲いかかってくる。
ただし、この境地に達するには、ヘッドがスッと出るいいストロークの練習を欠かさないのは当然のことと、青木は付け加えるのだ。
ちょっと悲しくなっちゃったな……
でも勝負ってこんなもんなんだろうな……
青木 功
2009年の全英オープンの主役は、まちがいなく59歳のトム・ワトソンであった。71ホール目までトーナメントをリードし、土壇場の18番ホールで長年の持病であったイップスによって痛恨のボギー。
プレーオフに突入した59歳の心身には気力、体力とも残っていなかった。「子供の頃、テレビをみて憧れていたワトソン」という36歳のスチュワート・シンクに、名をなさしめてしまった。
142年ぶりという大会最年長勝利記録をフイにしまったワトソン。しかしラウンド中、柔和な笑顔を絶やさず、試合後も「時代遅れの男がほぼ手中にしていた勝利を逃したかな」と穏やかに笑った。長年、ツアー界の良心と信頼を背負ったシンボルとしての顔がそこにあった。
そのワトソンと青木は仲がよかった。年齢的には7歳違うのだが、青木がチエ夫人同行で米ツアー参戦していた1980年代には、ワトソン夫妻と夕食をともにする姿が散見されたものだ。
ワトソン前夫人であるリンダとチエさんは気が合った。白人ばかりの中でユダヤ系のリンダと日本人のチエさんだったが、マイノリティー意識が2人を結びつけたのかも知れない。
表題の言葉はそんなワトソンがプレーオフに敗れ、TVのレポーターをつとめた青木がその直後に発したコメントだ。「……」は声を詰まらせた部分。明らかにその目には白いものが光っていた。
戦友でもあったワトソンへの思いが思わずこみあげたのであろうが、最後には公平さを保たなければならないレポーターのつぶやきももれたのである。
■青木 功(1942年~)
あおき・いさお。1942年8月31日、千葉県我孫子市生まれ。29歳で「関東プロ」に初優勝と遅咲きながら、それからの活躍はジャンボ尾崎と人気実力とも二分し、日本プロトーナメントを隆盛に導いた。国内での勝利数もさることながら、海外での活躍は「オリエンタルマジシャン」と呼ばれ、「世界のアオキ」と絶賛された。とくに、80年、全米オープンでの帝王二クラスとの死闘は伝説として後世に長く伝えられるだろう。国内57勝。シニア9勝、海外7勝、海外シニア9勝、海外グランドシニア3勝。2004年、世界ゴルフ殿堂入り。
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