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【ノンフィクション】難病を越えて初シード! 小浦和也<後編>「子どもたちから目標とされる選手になりたい」

プロ入り9年目の昨年、賞金ランク61位で初めてシード権を獲得した小浦和也。突然襲った病魔と闘いながら、1つひとつ気力と努力で乗り越えてきたプロゴルファーが紡いできた「ご縁」とは?

小浦和也 1993年宮崎県出身。日章学園高、専修大学卒業後14年プロ入り。23年に初めてレギュラーツアーを主戦場にしシード入り。昨年のリカバリー率は4位。「間違いなくフェニックスの環境が作ってくれました」

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家族の存在が
一番の支えです

「QTも落ちて入院して顔もパンパンで働けるかどうかもわからないような状況で『僕ともう付き合わなくていいよ』と言いました。でも『私は和也くんと結婚する。私が働けばいい』と……この人しかないですよね。僕、わかっていたんです。ナショナルチーム時代には人が寄ってきてヨイショしてくれましたけど、プロになって結果が出ないとスーッといなくなった。だから、ずっと残ってくれている人を大事にしたい。妻はそのとき一番近くにいてくれました」

妻・華菜さんは中学の同級生。「妻の支えは本当に大きい。それが一番です」と最後はきっぱり語る小浦。妻は今、働きながら食事面などでも支えてくれる。長男・清太郎くんは2歳になったばかり。

「子どもが生まれていいほうに流れが変わった。頑張らないといけない、と気持ちも変わりました」

そしてまた新しいご縁もあった。

「コンペで知り合った地元が同じ(田野町)お客さん(南九州ソイル)が、3年計画で金銭面のスポンサーをしてくれると。そういうご縁もいただいて。昨年は満了の年で、これでシードが取れなかったら終わりだと、気持ちで何とか乗り切った。計画どおりです(笑)」


真面目に取り組む人間にはご縁だって訪れる。悪い動きがあったスウィングもご縁をもとに、自身の試行錯誤で変えてきた。

「宮崎にいるコーチはもちろん、何人かに話を聞きます。谷口徹さんや片山晋呉さんが(宮崎に)いらしたときにも……皆さんに同じことを聞いてミックスし、最後はいいものを自分で決めるんです」

同じ悩みを抱える仲の良い小木曽喬がスウィング修正できた姿を見て、堀尾研二コーチの元でギアーズ分析もした。「背中が反っていた。下半身が使えていなかった。晋呉さんにも言われていました。体を回せたらトップは低くなる。全部が僕のなかでしっくりきて自ずと結果が安定しました」。

昨年、予選落ちは3回だけ。

「最初はとにかく1試合1試合一生懸命やることだけでした。体調は悪くなかったけど、前半疲れが結構出て、食事を変えたんです」

外食中心の生活、タンパク質が足りていなかたことに気づき、肉、特に赤身肉を摂るようにした。自分の体とも向き合う日々。そして結果が出ると、目標も高くなる。

「ASO飯塚で6位になり手ごたえを感じた。最初は『ツアーに出たい』だったのが『フェニックスに出たい』になり『シードが取りたい』とつながっていったんです」

初めてのうれし泣き
ゴルフで社会貢献もしたい

カシオワールドオープンには賞金ランク64位で挑んだ。「ここでもう全部が楽になる、死ぬ気で、と思いながら臨みました。先輩たちは皆これを乗り越えてきているから僕にもできないことはないと」。

調子はよかった。初日いいスタートが切れて落ち着いた。

「でも2日目でギリギリ予選通過。このときのメンタルが一番ヤバかった。後半風が強くなり僕は一番最後のスタートで。でも悪い条件でも気持ちで耐えられた。それが自信になりました。だから3日目は風もないし楽に回れました」

次々とくる試練を何度乗り越えればいいのか。にこやかな表情の裏で小浦は常に自分と闘ってきた。

「最終日は1打1打一生懸命。17番でバーディを取ってシードが決まりました。でも18番は短いバーディパットを外した。早く終わりたかったんですよね(笑)」

小浦は初めてうれし泣きした。

「普通は優勝して泣くんですけど、シードで泣くという、ちょっとレベルは低いんですが(笑)。でもそのくらいずっと苦しかった」

カシオでようやく見極められるようになったこともある。「ここで決めないとダメだという判断やマネジメントもキャディと一緒にわかるようになってきました」

つないできた技術の糸は太くなり、さらに強度を増す。

シード権獲得後、最初に電話したのは妻。「僕が泣いていたからか冷静でした。忙しかったのか、『よかったね、気を付けて帰ってきて』と。軽いなあって(笑)。スポンサーさんは一緒に泣いてくれました。そして優勝するまでまた面倒を見てくれると言ってくれて。父は、『途中、ゴルフさせたことを後悔したけど、僕の仕事はもう終わった』と。今年はあまり試合を見に来ないと言っています」

しかし、父はきっと、小浦の優勝争いの傍らにいるはずだ。

現在、OBとして母校のコーチも務める小浦。「子どもたちが目標にするような選手になりたい思いは強くなりました。頑張って先生の威厳を保たないと(笑)」。

今年の目標は、最終戦のJT日本シリーズ出場だ。

「優勝できたら最高ですけど、できなくても賞金ランク30位以内に入り『そろそろ優勝できそうだ』と言われる選手になって、来年優勝できたらいいなと思います」

言わないと計画にならないから言っておきますと笑う小浦。30位以内だとアジアツアーのQTファイナルから挑戦できるのも魅力だ。

「海外にも目を向けないと仕事がなくなりますから。数年前まではプロになったことを後悔していました。パイロットのほうが安定して稼げてたかなって(笑)。でも今はいろいろな方と知り合えたご縁もあるし、地元やジュニアに対しても、ゴルフでいろいろな社会貢献ができている気持ちもあるので、よかったと思っています」

“いい人”はきっと、どこまでもご縁を紡いでいく――。

ジュニアと回るときもこのスタイル。母校のコーチはもう5年になる。今は月に3回くらい通う。「ツアーのことを直接伝えられるのはいいですよね。僕の結果が出ると僕への質問も多くなりました。励みになります」。また、小浦と同じ病気の方は2万人ほどいるという。小浦が活躍する姿は、多くの人に間違いなく勇気を与えている

週刊ゴルフダイジェスト2024年3月19日号より