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【ターニングポイント】茂木宏美「今も昔も“人に恵まれる”運は最強です」

「鈍くさい」「ど素人」「劣等生」と自称。そんな子が18歳からゴルフを始め、5度目の受験でようやくプロに。ところが一転、プロになると2年目には、初優勝してそこから13年連続シード選手に。その陰には、両親、師匠、そして、「いい妻です」と彼女が言う夫の存在が。「ママプロ」としても活躍したその後、娘がくれた、ターニングポイントとは──。

TEXT/Yuzuru Hirayama PHOTO/Takanori Miki

茂木宏美
茂木宏美 1977年、群馬県出身。18歳から研修生としてゴルフを始め、02年にプロ入り。初シード権を獲得した翌年の04年「リゾートトラストレディス」で悲願の初優勝。03年から15年まで13年連続シード権を保持。ツアー6勝

「スタッフの娘さんだと勘違い
されたおかげで道が開けました(笑)」


突拍子もない親子がいた。
「プロゴルファーになりたいんですけど、どうしたらなれますか?」
ゴルフ未経験の娘に父が、いきなり試合会場で、面識もないプロにそう問い掛けさせた。
そこから始まった茂木宏美のゴルフ人生もまた、突拍子もない。18歳で一から始め、7年がかりでプロテストに合格。プロ2年目にはシード権を獲得し(以降13年連続)、結婚、出産、「ママプロ」として赤ん坊同伴での復帰……。
そんな彼女の原点は、消極的で自主性のなかった、少女時代にあるという。


小学3年生のときまではおとなしくて、環境に馴染めずにいつもドキドキしてしまうような子でした。それが体育の時間に担任教諭が、「走るの速いね」と運動会のリレー選手に選んでくれたことがきっかけで、自分が好きなことは体を動かすことで、好きなことをすると楽しいんだ、そう気付けたんです。消極的にやっていたバドミントンも一生懸命になれて、スポーツによって積極性や自主性を学べました。

ゴルフは父が大好きで、母もアマチュアの大会に出たことがあったそうです。稼業はラーメン店で、早朝の仕込み前や、午後の休憩時間に、毎日クラブを握るほど、のめり込んでいました。私もやってみたんですけど、空振りばかりで球に当たりませんでした。大きなラケットで打つバドミントンよりもかなり難しく思えて、ゴルフって、つまらないなぁって(笑)。

ところが高校3年生で、やりたい職業もなくて、進路についてモヤモヤしていたとき、父とテレビでゴルフの試合を初めて一緒に観る機会があったんです。その試合はマスターズで、オーガスタの美しさに驚きました。すると横にいた父から、「プロになったら毎回こういうところで試合ができるよ」とささやかれて。

少しずつゴルフの練習をして、レディスクラブにしたら球にも当たるようになりました。私は何をやるのも不器用で、とにかく時間がかかるんです。ホント、鈍くさい。それなのに父は、「ゴルフを始めよう」ではなく「プロを目指そう」と(笑)。そして地元群馬の鳳凰GCで鳳凰カップというシニアの試合があり、「明日、学校を休んでそこへ行くから、ノートに自分の履歴を書け」と突然言い出しました。当時父は、金井清一プロのレッスン番組が大好きで、まったく面識がない、ただのファンにもかかわらず、金井さんに直撃しちゃったんです!(笑)

今考えると申し訳ないんですけど、スタート直前にパッティンググリーンから1番ティーイングエリアへと歩いている金井さんをつかまえた父が、「娘から話があるので聞いてやってください!」と。「プロゴルファーになりたいんですけど、どうしたらなれますか?」って私が伺うと、「試合が終わったら話を聞いてあげるから、クラブハウスの前で待っていなさい」と。でも父は、「じゃあ、俺は店があるから」と帰っちゃった(笑)。

試合後、金井さんがクラブハウスの中へ入れてくださって、履歴書のノートをお渡ししました。すると「僕は試合に出ているから弟子は取らないけど、後輩の時任宏治を紹介するから」とおっしゃってくださったんです。

高校卒業後は、すぐに時任さんのいらっしゃる静岡の朝霧CCへ向かいました。研修生として、キャディのアルバイトをしながら練習できることになったんです。後日、あの日のことを金井さんに伺うと、父が緑のジャンパーを羽織っていたので、それが大会スタッフのジャンパーと同じ色だったんだと。金井さんは、スタッフの娘さんと勘違いされたらしく、おかげで道が開けました(笑)

「『もう少しだから』と
母と時任(宏治)プロだけは言ってくれた」


4度も不合格なら、5度目に挑むには、勇気がいる。
食が細くて食べる練習。姿勢が悪くて歩く練習。そこから始めた自称「ど素人」は、プロテストに落ち続ける。周囲から諦めるよう説得されるなか、可能性を信じてくれた母サト江と師匠の言葉に勇気を得、「5度目の正直」へと挑んだ。



時任さんのもとには、ジュニアからゴルフをしている上手な子が何人もいました。「ど素人」の私が指導されたのは、一人暮らしをしてちゃんと自立すること、ご飯をたくさん食べること、姿勢良く歩くこと、といった初歩的なことばかり。おかげさまでご飯はしっかり食べられるようになって、「おまえは大きくなりすぎたから夕方に有酸素運動な」って(笑)。

ゴルフはみんなが猛練習するので、それに引っ張られて、やっと付いていっていた感じでした。最近、当時の日記が出てきて、「今日はいいプレーができた。42」って書いてあって、ハーフ42でプロになろうとする自信ってなんだったんだろうと(笑)。「プロテストは70台が出せないと受けられないから」と時任さんに言われているなかで、私だけ80台もようやく。完全に劣等生でした。

入った翌年に70台が出せて、でもそこから4年連続でプロテストは2次で不合格。周囲からは2次で通らないならプロになっても苦労するのが目に見えているから、諦めることを考えたら? と言われました。それもその通りで、今は親切心だったとわかります。

だけど、連続で落ち続けていたときも、「今は運気が悪いだけ。ここから絶対に良くなるから」と母は私を責めないでいてくれました。時任さんも「もう少しだから頑張れ」と。母と時任さんだけは、前向きな言葉をくれました。その言葉に救われて、5回目で合格できたんです。

「『俺が母になるから父親になって』
2人だからこそメジャーで勝てたんです」


茂木には心強い「主夫」がいる。
プロ入り2年目からは順調で、2004年にリゾートトラストレディスで初優勝。通算5勝後の2010年に元スノーボード選手の窪田大輔さんと結婚。マネジャーとしてツアーに帯同し、炊事洗濯からマッサージまで、献身的に尽くしてくれた。
そんな夫に、結果で応える。2013年ワールドレディス最終日、5バーディ1ボギーの猛追で首位との2打差を逆転し、夢だったメジャー初制覇を達成。ホールアウト後のグリーン脇で、2人は20秒間も抱き合い、ともに涙した。


時任プロがキャディでツアー初優勝

04年の「リゾートトラストレディス」で4ホールに及ぶプレーオフを制して初優勝を決めた

「プロなんだからゴルフだけしておけばいい」と、父は男性との付き合いには反対のはずでした。ところが私が30歳になると、「そろそろ孫の顔が見たい」なんて言い出して。でも当時の私はゴルフに夢中で、男性なんて目に入らない時期でした。周囲にいいお相手がいたら、と知人に声をおかけしたら、「年下だけど合うと思うよ」と、紹介してくれたのが夫です。会ったその日から、夫からどんどんメールが来るんです、ツアー中でも。知人に相談すると、「どんどん返信してあげなよ」と。後から夫に聞いたら、夫も知人から「どんどん返信してあげなよ」と同じことを言われていたらしいんです(笑)。最高のキューピッドだったね、と。

夫と結婚を前提に付き合いを始めると、「どうせなら2人で同じ夢を追いかけたほうが楽しいじゃないか」と父が言い出しました。資格を取って就職しようとしていた夫を、私のマネジャーとして父がスカウトしてしまったんです。一般的な夫婦関係からすると異色で、夫も悩んだと思います。でも、「得意なことをそれぞれがやればいい。限界までゴルフができるよう、僕が全力でサポートするから」と言ってくれました。

2人の夢は、私が掲げた「メジャー制覇」でした。チャンスが来たのは2013年のワールドレディス。メジャーともなるとセッティングが難しいし、私はドライバーを飛ばして勝負するタイプではありません。飛距離は235ヤードがいいところでしたから、若い選手たちにはかなり置いていかれます。だから、どんなライからでも9番(11番)ウッドでグリーンを狙えるバランス力を身につけようと、下駄のようなトレーニング器具を履いたまま打ってミートする練習をしました。試合ではその9番ウッドが何度も私を助けてくれました。

驚いたのは、そのメジャー制覇後に、私の体に赤ちゃんが宿っていることがわかったこと。ツアーをどうしようかと悩んでいたら、「俺が母になるから父親になって」と夫が。そんな夫と2人だからこそメジャーに勝てたんです。

「女子プロは戦う相手であり、仲間でした。
だから価値を高める活動をしていきたい」


ゴルフ(仕事)は、人生の大部分ではあろうが、人生のすべてでなくともいい。
ターニングポイントをくれたのは、愛娘の和奏ちゃんだった。妊娠中もコースで胎動を感じ、帝王切開での出産後も、夫や関係者に娘を預けながらプレーした。
だが13年間保持してきた賞金シードをわずか3万円差で逃した2016年、39歳で突如ツアー撤退を表明。いつしか娘は、翌春から幼稚園に入る年齢へと成長していた。


シード権を獲得した場所とシード権を失った場所が同じエリエールの「エリエールゴルフクラブ松山」でもありました。あと少しだったという悔しさもありましたけど、母が「8万円差と3万円差、行って来い、よ。そろそろ決断の時じゃない?」と言ってくれました。プロになれたのも母の一言、そしてここでも、また、母の一言が大きくて。

自分の中にも、思うようなゴルフができないという悔しさがあって、迷いが生じていた時期でもありました。若手選手と回ると、飛距離だけじゃなく、根本からの格差を痛感させられるんです。もし、まだ挑戦をするというなら、幼稚園に上がる娘と離れ離れになるという覚悟が必要。そこまで自分を追い込んで、基礎からたたき直さなければ、また優勝争いなんてできない、そう思えました。

ゴルフか、家族か。

天秤にかけたとき、そろそろ私も次のステージへ行く時期なんじゃないのかと。そしてプレーするだけじゃなく、違った形でこれだけお世話になった女子ゴルフ界に恩返しする方法もあるんじゃないのかと。

ツアー撤退後は、JLPGAのトーナメントでお手伝いさせていただいています。コースセッティングとか、中継の補助とか、所属先でもあるアース・モンダミンカップの運営委員とか。選手時代には見えなかった部分が大きく見えてきました。例えばセッティングに関しても、安易に海外を真似て難しく、というわけじゃなく、プロたちが練習してきた最高の技術を見せられるセッティング、それに魅力を感じたお客様が感動できる舞台作りを心がけています。

ツアー参戦中、娘のことを女子プロのみなさんがかわいがってくれて、そのためか娘は人が大好きな子に育ってくれました。今も、学校へ行きたくない、と言ったことが一度もないんです。女子プロは戦う相手であり、仲間でした。だから女子プロの価値を高める活動をしていきたいと思っています。

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インタビューの最中、別室で夫の大輔さんと、小学校が休みだった娘の和奏ちゃんが待っていた。
「社会科見学のようですけど、いいですか?」
大輔さんは、雑誌の編集部を娘に見せたいと言う。本誌編集部に元気よく挨拶をして入ると、物珍しげにあちこち一人で見て歩く和奏ちゃん。
「みなさんの手で育てていただいたためか、物おじしないんですよ」
茂木が言うとおり、クラブハウスでは大輔さんはもちろん、キャディ、大会スタッフ、ボランティアが、代わる代わる赤ん坊だった和奏ちゃんを抱いて母親のホールアウトを待った。
編集部を出てスタジオでの撮影。カメラマンの要望に応え、母娘での記念写真。サービス精神たっぷりに、思い切り抱きついてくる大きくなった娘を受け止めるその笑顔は、選手時代は見られなかった、穏やかさに満ちていた。

月刊ゴルフダイジェスト2023年12月号より

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