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【ノンフィクション】競技ゴルフ歴8年、プロテスト受験2回。内山汐里の“挑戦人生”

PHOTO/Hiroyuki Okazawa THANKS/川越CC、千歳ゴルフセンター、千歳テニスクラブ

最近、自分の「夢」を考えたことがあるだろうか。東千葉CCでHC2のトップアマにしてテニスコーチ。娘世代と交じってプロテストにも挑戦する50歳の「夢があるから頑張れる」生き方に心動かされる

同じ日の朝(ゴルフ)と夜(テニス)。どちらも挑戦者・内山の顔だ

シビアな状況に身を置くのが好き

合格率3%余りの超難関、JLPGAのプロテスト。1次予選出場者リストに「内山汐里(しおり)」の名はあった。内山は論語でいうところの「天命を知る」年。年齢の話は野暮ではあるのだが、1970年生まれの50歳だ。出場者リストにはジュニアゴルファーとして名を馳せてきた若き猛者たちの名がズラリ。内山にとっては娘世代の選手たちだ。

「受験は昨年と今年で2回目でしたが、なにも今からレギュラーツアーで活躍しようだなんて思っていませんよ(笑)。でも、別の世界を見たいという気持ちもあるし、私、シビアな状況が好きなんです」

シビアな状況が好き?それは、内山の歩んで来た道をたどるとよくわかる。

内山は東京都世田谷生まれの世田谷育ち。生粋のシティガールと思いきや「いえいえ、世田谷は昔、すっごく田舎だったんです。辺りは田んぼや畑。牛を飼っている家もありました。秘密基地を作ったり木に登ってロープにぶら下がってターザンごっこをしたり。男の子に交じってのドッジボールや缶蹴りでは、どうやったら負けないか、勝つためにどうしたらいいかなど、子どもながらに分析していました。そのころから“戦う”ことが好きな子で(笑)」

内山が小学生の当時、自宅の周辺にテニスクラブがいくつかあり「両親がクラブのメンバーになったことで、私は小4のころからついて行くようになりました。そこでレッスンを受けるわけじゃないですよ。ラケットとボール2球を渡されて放っておかれるんです(笑)。最初は塀の隙間から大人たちのプレーを観察しては、見よう見まねで壁打ちを始めました。それがなかなかうまくいかなくて。跳ねているボールをどう打つとどう飛ぶか、子どもなりに遊びながらも考えるのが楽しくて夢中になりました。誰が教えてくれるわけでもないから、大人たちのプレーをとにかくまねる。クラブにはテニス雑誌も置いてあったので、それも読んで研究しました。思いどおりに返せるようになったら『壁打ちで10球連続返す』などと目標を立てて、成功するまでやめないぞ、とか。自己流のテニスノートをつけ始めたのは小5か小6のころですね。この見よう見まね方式は、実はゴルフもまったく同じなんですよ(笑)」

テニスがうまくなりたい一心で、中学入学までは早朝練習のため始発電車でテニススクールに通った。「送り迎えなんてありません。真っ暗ななか、駅まで自転車を飛ばしていました。もうド根性ですね(笑)」

中学からは神奈川県の藤沢で寮生活。テニスの“エリート街道”を歩む。高校でこそ日本一には届かなかったが、大学ではチーム日本一の立役者に。同期のプレーヤーは伊達公子だ。代表選手として一緒に海外派遣され、切磋琢磨した戦友。「当時の写真はないですかとよく聞かれるんですけど、スマホなんてない時代。お互いを使い捨てカメラで撮り合っていたので、ツーショットはないんです(笑)」

冒頭の話に戻るが、内山の“シビアな状況好き”の原点は、このテニスプレーヤーとしての経験にあった。

ゴルフを始めたきっかけは「娘」

しかしながら、大学卒業後、内山は新たな道へ挑む。「ジュエリーの会社に就職したんです。ずっとテニスの世界にいた自分が社会に出たらどうなるんだろうと考えていて、思い切って挑戦しました。会社では仕入れもやったし、デザイン案を出したり、店長代理として接客をしたこともありました。仕事は楽しかったですよ。お客さんとのやりとりなんて、押しすぎてもダメだし声をまったくかけなくてももちろんダメだし、スポーツみたいでした」

その後、結婚し、娘の絵梨香さんが誕生。母親業がメインとなる。その絵梨香さんがゴルフをやりたいと言い出したのは、内山が37歳のときだ。「ゴルフは親の送迎が必要ですよね。すると、待っている間がヒマなんですよ(笑)。それで娘たちのプレーを見ているうちに、ウズウズし出し自分もやるようになりました」

ここでも小学生でテニスを覚えたときと同じで「見よう見まね」。誰に教わるわけでもなく「ボールはこう打てばこう飛ぶんだ」と研究を始める。「クラブは母のお下がりをもらいました。うちの母は、テニスだけでなくゴルフもやるので助かりました(笑)」

初ラウンドのスコアは「108でしたね。その後は主に“コンペ要員”として活躍していました(笑)」。しかしながら、持ち前のフィジカルの強さもあり練習するうち80台が出るようになる。周囲から競技に誘われたのが「42歳のとき。初公式戦は2013年の世田谷区ゴルフ連盟アマチュア大会でした」。

このころから“愛好家”から競技ゴルファーに転向。「当時は練習場で300球打ったりしていましたねえ。とにかくよく練習した。今でも調子が悪くなると“打つべし打つべし”に戻ります」。そこは元祖壁打ち少女。努力と研究心の塊だ。

「もともとテニスとゴルフは共通点が多いんですよ。フェースの意識や地面反力、ひじから先の動き、ダウンスウィングからインパクトまでで脱力の必要な部位、力を入れる箇所やタイミングなんかもそうですね」

ドライバーの平均飛距離は210ヤード。ボールへの力の伝え方はテニスと似ているという。

現在、ベストスコアは千葉のキングフィールズGCで3年前に出した「69」。東千葉CCのメンバーとして関東女子倶楽部対抗を連覇中。さらに昨年は男女混合で争われるゴルフネットワーク主催のマッチプレー選手権で優勝。クラブチャンピオンや元プロなどの猛者424人の頂点に立った。

「マッチプレーはテニスプレーヤー向きですよ。相手がナイスショットを放てば『そうくるか』とうれしくなっちゃう。『ならば私はこう打つ』と、どんどんモチベーションが上がってくるんです。この魂のやり取りのような感じには、テニスの試合での経験はもちろん、社会人としての接客体験も生きている。今になって思うのは人生で無駄だったことなんてないということ。もちろん、失敗もたくさんしたけれど、失敗の経験も貴重だと思うんです」

JLPGAのテストは2度とも1次通過が叶わなかったが、その経験もまた内山の大きな糧。現在、世田谷区千歳台の千歳テニスクラブでジュニア強化を担っており「競技は違えど、試合というシビアな状況に身を置いてこそ語れることがあります。失敗や困難を乗り越えて、ある程度の結果を残していくことで、引き出しを増やすことにつながると思うんです」。失敗のぶん、引き出しが増える。ゴルフでもテニスでも人生でも。

「親子三代ゴルフもよく行きます。
ムードメーカーは母」

内山にはLPGAティーチングライセンスA級取得に挑む娘・絵梨香さんと料理の道に進んだ息子がいる。二人はそれぞれ小学生のころ、種子島と奄美大島に“山村留学”、文字通りかわいい子には旅をさせた。さらに、娘は高校から福岡のゴルフ強豪校へ進学。「もちろん娘の意志でした。もしかしたらゴルフはうまくいかないかもしれない。失敗するかもしれない。でも、失敗の経験が大事なことは私が身をもって学んだことですし、やらせてみようと。反対はしませんでした」

母・汐里の練習場所でテニスクラブと同系列の千歳ゴルフセンターに顔を出した娘の絵梨香さんは「母はテニスでもゴルフでも強いプレーヤー目線を持っている人。私は完全なティーチング・マネジメント目線。ならば、違った目線を持つ母娘でゴルフスクールをやるのもいいんじゃないかなって思っています。夢なんです」と、目を輝かせる。イキイキ話をする姿を見ながら「『こんないい娘に誰が育てたの?』ってよく言われます」と母。「うーん、種子島のみんなかな?(笑)」と娘。母は続けて「プロテストはこれからも受けます。もしも奇跡が起きて合格できたらレジェンズツアーに出たい。これは私の夢のひとつ」。“ひとつ”というのだから、もちろん夢はこれだけではないのが内山のすごみだ。

千歳ゴルフセンターには、娘の絵梨香さん、母の笠原国子さん(79)の3世代がそろった。国子さんもベストスコア78の猛者。「女3人で焼き肉に行くと、私はヒレ、ばあばはサーロインを注文します(笑)」(絵梨香さん)

「子どもたちからもエネルギー
もらっています!」

取材の日、内山は早朝から1ラウンドをこなし、夕方は練習場で球を打ち、夜はテニススクールでジュニアの指導。家に戻れば、もちろん家事もあるだろう。

「活力の源? それは肉。肉を食べると元気が出ます。みんな、もっと食べて食べて! なぜ頑張れるか? もちろん夢があるから」

堂々と夢を語り、そのための努力を惜しまず、失敗は恐れない。「人生はチャレンジだから」と内山は言う。自身の娘も息子も、世田谷で内山にテニスの教えを請う子どもたちも、チャレンジャー・内山の背中を見ている。類は友を呼び、チャレンジャーはチャレンジャーを呼ぶ。世田谷の千歳台。ゴルフボールとテニスボールの飛ぶ音がしたら、それは誰かが挑戦している音だ。

※登場したアマチュアにはボランティアとして協力していただきました

週刊ゴルフダイジェスト2021年6月1日号より