【ゴルフ野性塾】Vol.1818「クラブとペンのなまくら二刀流」
古閑美保、上田桃子など数多くの名選手を輩出してきた坂田塾・塾長の坂田信弘が、読者の悩みに独自の視点から答える。
野性塾大濠公園
18人衆の中の
一人の質問だった。
30歳から70歳迄の10年を一区切り、大切なものは何だったのかとの質問だった。
その男、いつも私の近くで私の話を聞く者だった。
人、表に出る欲もあれば表に出ない欲持つ人もいると思う。
その男、表に出る欲持つ者だった。
年齢は40歳過ぎて50歳へと向う途中の者であり、地場企業ではなく、全国組織の会社に勤めている雰囲気持つ者だった。
「40歳の時か。ツアー参戦の傍らペンを持つ生活に入っていたな。長男雅樹は10歳、長女寛子は7歳。女房殿は34歳。愛知県の中部日本放送事業部に勤務していたが私と知り合い、プロテスト合格後に結婚。そして栃木県の鹿沼CCでの2年の生活経て福岡の周防灘CCに移り、完全な田舎生活に入ったが、そりゃ立派な田舎の女房、母親になっていた。順応と対応力持つ女だった。
私のパットがポコンポコン入ったら私の生活は一気に変る。生活環境も経済力も周りの眼線もだ。しかし、パットが入る日は来なかった。試合のラウンドは予選4人回りの決勝3人回りが普通だったが、4番目に打つ順番が来て最後にホールアウトのラウンドが続いた。いい事じゃない。私には不名誉な事であり、己への嫌気抱いての旅だった。今もパッティング好きじゃない。40年前よりは遥かに入る現在76歳のグリーン上なれど、何が起きるか分らない不安は持つ。
3年と11カ月の研修生時代、恐れはなかった。真っ直ぐ打てば入らずともカップには寄った。それで充分だった。18ホール全部1パットなんて考えもしなかった。6ホールありゃ充分と思っていた。そしてプロテストの中部地区予選1位、プロテスト1位でプロになった。考えと行動と結果が一致すれば予期不安、不信、怖れなんて出ないものだ。パットの練習なんてしなかった。ショット、それも長いクラブの練習ばかりしていた。行ける時は一気に行った方がいい。問題はその後だ。一気の行き詰まりが来る。私の場合は速さの変化だった。グリーンの速さに戸惑った。
プロテスト合格は27歳と11カ月の秋。翌年ツアー参戦したが、埼玉の嵐山GCで行われた関東オープンのグリーンの速さに驚いた。嵐山の速さが私のゴルフにチビリ、ビビリを与えた。そして、そのビビリは今も続く。そりゃ年取りゃ鈍感になる。私の28歳の時と較べりゃ今の方が鈍感であり、結果への怖れ少ないが、それでもビビリ感は今も手許に残る。嵐山の速さと出会わなかったらの想いは持つが、それも過ぎてしまった事。振り返っても仕方あるまい」
「坂田プロの悔いですか?」
40歳。パットに悩み、二刀流になった。
「分らん。この年になると分らん事ばかりだ。今迄、分ったと思っていた事も立つ位置、眺める位置を変えれば景色と距離、変るものだ。私は毎日、赤坂けやき通りのけやきの前に立つが、今日のお前さんは太いなと思う時あれば、今日のお前さん、少し細くないか、お前さんの笑い声聞える時は太いと思うが、細く見える時は泣いている様な気もするぜ。
街路樹も大変だな。私に出来る事は街中とか舞鶴公園、大濠公園歩く時、幹に絡み付いているツタをブッタ切るだけだが、それで幹が絞め上げられる苦しさは取り除けてる筈だ。もし、肥料必要とあらば教えてくれ。持って行くから、と語り掛けた。
舞鶴公園の斜面のツタを切るのは手じゃ無理だ。折り畳み式の簡易ノコギリが要る。福岡に移り住んでからは私の携帯品だ。今のけやき通り、ツタに苦しめられる樹は無いと思うぞ。一人か二人、勝手していいのかのクレーム付けて来る人いると思ったが、一人もいなかった。皆、樹の幹に絡むツタは悪木と分ってたんだな。福岡護国神社の中のツタも切りたいのだが、人様の敷地故、手を出す事は出来ん。残念だが眺めてるしかない。それでけやき通りの街路樹、泣いているのかと思った。想いも考えも行動も人間の勝手が通る時代だ。
76歳はまだ若い。大きな声も出る。だが80歳過ぎると諦めの影は大きくなると思う。ほんの少しでいい。80歳過ぎの爺様婆様の心配、通る時代になればいいな」
「現在の大切な想いですか?」
「違う。お前さん方18人衆への願いだ。40歳の頃、こんな想い持つ事はなかった。ただ、今は持つ。願いとして」
「私達に出来るでしょうか?」
「人それぞれは一人一人とゆう事だ。出来るか否かはやってみなきゃ分らん。人様の世、やってみなきゃ分らん事は多いと思う。
私が40歳の時、ゴルフクラブとペンのなまくら二刀流の生活に入っていた。ゴルフ自戦記、メジャー観戦記、そして、漫画原作『風の大地』、レッスンビデオも出した。私から書きたい、やりたいと言い出したものは何一つなく、総て雑誌社、新聞社からの依頼だった。プロゴルファーを目指したのも私の意志ではなく、京大教養学部助教授の森毅先生に勧められての事だった。
研修生の体力と筋力作る為、22歳の時に陸上自衛隊に入った。上官に勧められた。防衛大学に行かないか、と。この時は私の意志で断った。24歳で除隊します。それ迄、置いといて下さい、と。そして、24歳と1カ月の時、栃木県の鹿沼CCに入社した。
40歳か。トーナメント賞金、周防灘の給料よりは原稿料、印税、出演料が多くなっていた頃と思うが、原稿料意識してペンを持った記憶はない。それでもゴルフでは稼げないなまくら生活を送っていた。当時、プロゴルフ界の友は中嶋常幸一人だったが、面白い男だったな。私よりは3倍も面白い男で誠実な人間だった。中嶋常幸の成田の家に泊った時、夫婦喧嘩が始まった。女房は焦げた芋のテンプラは出したくなさそうだったが、私が食べさせろと無理強いして出して貰い常幸と二人で食べたが、あの日も今は懐かしい想い出だ。
40歳の頃か。習志野の尾崎将司さんの家にも行ったな。女房殿の夕食、常幸の女房と同じ家庭料理だった。盛付けを見て丁寧と思った。そして旨かった。超一流の女房の食事は旨いと思った。私は三流半のプロだが、我が女房殿も丁寧な食事作りをする。48年間、ズーッとだ。ただ、最近は料理作りに疲れて来たのか、外で食べる機会が増えて来た。行く店は焼肉店か割烹料理店か中華料理店と決っている。
40歳。何が一番大切だったのか、今少し考えさせてくれ。考えつかなかったら次週へ持ち越しだ」
風、強く吹いた。
木の葉、高く飛んだ。
カフェラッテ、ぬるくなっていた。今日2月5日、窓の外は曇り空。
以下、次週稿。
体調良好です。
坂田信弘
昭和22年熊本生まれ。京大中退。50年プロ合格
週刊ゴルフダイジェスト2024年2月27日・3月5日合併号より
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