Myゴルフダイジェスト

  • ホーム
  • 週刊GD
  • 【ゴルフ野性塾】Vol.1773「研修生生活は幸せだった」

【ゴルフ野性塾】Vol.1773「研修生生活は幸せだった」

KEYWORD 坂田信弘

古閑美保、上田桃子など数多くの名選手を輩出してきた坂田塾・塾長の坂田信弘が、読者の悩みに独自の視点から答える。

前回のお話はこちら

「年齢や
生活環境が

与える幸せってありますか?」
「あるだろう。今の私の求める幸せって穏やかにこの世から去って行く事だ。激しさは要らない。ほんの少しの喜び抱いて穏やかに去って行きたいと願っている」
「難しい事ですか?」
「大変難しいと思う。病気や怪我といった体も心も苦しまねばならぬ痛い想いに穏やかさはないだろう。あるとすれば死の間際だけの様な気はする」
「穏やかに去るのは難しいのですネ」
「そうだ。腹上死が一番幸せと思うが、この年になって腹上死の機会はない。75歳だ。相手もいない。相手がいたとしても下半身がその気になっちゃくれない。若い頃は大砲だった。しかし今はゴム鉄砲にもなりゃせん。お前さん達も75歳になれば分る事だ」
「チョット悲しいですネ。淋しくもあります」
「前進もあれば後退もあるのが生きるって事だろう。今は前進の時、今は後退の時と認識する気持ちは必要だ」
「過ぎればその想い持つのは簡単と思いますが、前進の時か後退の時か、状況判断出来ない時は難しいでしょう。何か坂田プロの中で判断基準になるものはありませんか?」
「ない。私は直感と直勘の二つで生きて来た人間だ。考えて考えての失敗ならば悔いも残ろうが、直感直勘で生きて来た者に悔いは少ないと思うぞ」
「過去を振り返る事はありますか?」
「私はまだ生きているんだ。そりゃ振り返るさ。70年前も昨日を振り返る事もある」

黙の練習続けた者が プロになった。


「人との出会いもですか?」
「ああ。私は出会いの運に恵まれて来たと思う。プロゴルファー目指したのは22歳の時だったがプロゴルファーを目指せと言ってくれたのは京都大学の数学の助教授だった。それでプロになるにはどんな進路があるのかを調べた。当時は研修生になってプロテスト受けるのが一般的進路だった。私は研修生生活に耐えられる体が必要と思い、自衛隊に入った。国の金でプロゴルファーの体を作ろうとした訳だ。国防意識はゼロの新兵の入隊だ。今も世間様には申し訳ないと思っている」
「それで任期満了2年で除隊されて栃木県の鹿沼CCに研修生として入社されたんですネ」
「そうだ。24歳になったばかりの時、久里浜通信学校教導隊の部隊全員の見送りを受けて久里浜から鹿沼へ移動した。そしてゴルフ経験ゼロの研修生生活に入った。住むは鹿沼CCの男子寮だ。10月下旬だったが寒かったな。部屋にあったのは冬布団と枕と上下のシーツ一セットだけ。冷蔵庫も暖房器具も何もなしだった。部屋の灯りはスイッチを入れる下がり紐の付いた裸電球一つ。自衛隊の三食暖房付生活とはえらい違いだった」
「苦労されたのですか?」
「苦労を苦労と思えば苦労になる。希望を持って一日を過すか、夢を持つか、その生活を当り前と思えば苦労にはならない。人間、考え様で生き行く楽しみと苦痛は変ると思う。私の研修生生活に苦労はなかった」
「幸せでしたか?」
「ああ、幸せだった。そしてプロテストに通り、すぐのツアー参戦だ。私の初陣は嵐山の関東オープンだったが、水曜日の練習ラウンド、村上隆さんと河野高明さんと回れた。二人はトッププロであり、この時の関東オープンは村上さんが勝たれた。練習ラウンド、二人は9ホールで上られたが二人の練習ラウンドには驚いた。これがトッププロの練習ラウンドかと思った。練習の多くの時間はグリーン上だった。3メートルから5メートルを色んな方角から球を打たれていた。私はショットに拘っていたが、二人の拘りは3メートルから5メートルだった。いい球、打つネェ、君は、と村上さんが言ってくれた。村上さんが言葉掛けてくれたのはこの一言だけだ。河野さんとの会話は一度もなかった。村上さんと河野さんの会話もなかったと記憶する」
「黙のラウンドですか?」
「そうだ。3年と11カ月の研修生生活、練習ラウンドも試合ラウンドも黙のラウンドは一度もなかった。それが初めての経験だった」
「その後の坂田プロの練習ラウンドは変りましたか?」
「変らなかった。鹿沼に戻ってアマチュアの方と回れば黙は許されぬ。強くなり勝ちたければ黙の練習は必要だ。私はジュニア塾塾生の練習打席での会話を禁じた。そして私の指示通り、黙の練習続けた者はプロになり、シードも取った。黙の練習に我慢出来なかった者は黙を破り、他の者に語り掛け、他の者の邪魔をした。黙に耐え切れなかった者は塾から去って行った。途中退塾の理由の一番が黙の苦しさだったと思う」
「大変なんですネ、プロになるのは」
「そんな事はない。女子プロは一年20名、男子は一年50名プロテストに通るんだからな。20名を多いと思うか、少な過ぎる通過枠と思うかは人それぞれだが、私の時は3名の合格だった。私はトップ合格だったが少ない枠とは思わなかった。プロテストの合格、この年はゼロなんて事はないんだから」
「強運だったのですか?」
「そう、強運だったと思う。人との出会いにも幸運があった」

漫画原作を書いたのは1987年の5月と記憶するが、初めての原作執筆指導、やってくれたのは小学館ビッグコミックオリジナルの有藤智文だった。
有藤は一言二言の指摘力を持つ編集者だった。
そして新人を育てる力を持つ人間であり、小学館ナンバー1の編集者だった様な気はする。
彼との打ち合せは電話一本で済んだ。それも3分だ。
指摘は適確。納得したネ。
私の漫画原作デビュー作となった『風の大地』、そして風の大地の次の作品『奈緒子』の初代担当は有藤だった。
有藤には長く担当やって貰いたかったが、有藤の能力は小学館の中で高い評価を得ていたので10カ月過ぎれば風の大地から去るのは分っていた。そして有藤は他の作品の担当になった。
残念だった。

昨年11月、風の大地を描いてくれたかざま鋭二さんの追悼文に有藤の名を出した。
有藤は私とかざまさんの遅筆にイヤ気がさして二人の担当から逃げたと書いた。事実は有能過ぎたが為の担当替えであった。逃げたとの一文は私なりの感謝の一文だった。かざまさんも有藤の編集能力は認めていたな。
いい編集者に出会えたよ。有藤君を我々の担当に付けてくれた編集長の亀井さんに感謝だな、と言っていたから。
小学館に有能な編集者は多いが、有藤はナンバー1の編集者だと思う。そして13年前から現在迄、風の大地の担当編集者をやってくれている中村一雄も名編集者の一人だ。原作者と漫画家が奴の言ってる事に間違いはないと信じる気持ち持てば作品の方向性維持とエピソード作りに難しさはないと思うぜ。
それが私の幸運だった。人と出会いの運だ。今もその幸運、続いている様な気はする。
「幸せだったのですネ」
「ああ、幸せだった。そして今も幸せだ。今日のコーヒーは御馳走になるぞ。それではこれで散会だ。私は大濠を一周して練習場に行く。練習球150球打って西鉄バスに乗って赤坂に帰りゃ夕飯が待っている幸せだ。それじゃあな」
「有難うございました。一週間後にお待ちしております」

18名が集っていた。
3名は知らぬ者。緊張していた様に思えた。
緊張は大事だ。
緊張なくなると頭は下がるし、背は丸まる。そして耳に入って来る声は遠のく。
18名と私の緊張ある限り、一週間に一度の出会いは続くであろう。
今日3月1日、福岡の空、雨が降っています。
東と南の山が消えた。1キロ先のビルも消えようとしている。
体調良好です。

坂田信弘

昭和22年熊本生まれ。京大中退。50年プロ合格

週刊ゴルフダイジェスト2023年3月21日号より