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【イ・ボミのスマイル日和】Vol.3 家庭環境を恨んだ時期も…「母の言葉に何度も救われました」

2年連続賞金女王など輝かしい実績を残し、2023年に惜しまれつつも日本ツアーを引退したイ・ボミ。これまであまり語られてこなかった生い立ちや現役時代の秘話など、あらいざらい語り尽くす!

TEXT/Kim Myung Wook PHOTO/Takanori Miki

イ・ボミ 1988年生まれ。15、16年賞金女王。日本ツアー21勝のレジェンド

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母の言葉にはいつもハッとさせられます

私がプロゴルファーになりたいと意識し始めたのは高校2年の頃でした。当時、様々な大会に出ていましたが、結果が出ないことが多く、それを両親や家のせいだと考えたこともありました。そもそもゴルフをするにはお金がかかります。私は4人姉妹で、姉が大学に行くための費用も必要でしたし、両親も私ばかりにお金をかけられない。1回の練習ラウンドには10~20万ウォン(当時約1~2万円)は必要だったので、負担をかけたくないとの思いから「練習させて」とはあえて言わなかったです。

全国大会でコースを一度も回らずに試合に出たことも一度や二度ではありません。みんなはしっかりコースを熟知してきているのに、自分だけラウンドできない。それだけでも傷ついているのに、周囲や親に実力がないと見られるのがすごく嫌だったんです。『コースがわからないから成績が出ないのであって、自分の技術のせいではない、他の選手のように練習ラウンドが十分にできれば、絶対に結果が出る』とまで思っていました。十分な支援をしてくれなかったことを少し恨んだ時期もありましたし、他の選手がうらやましくもありました。


プロを意識するのと同時にゴルフをやめるべきかと考えたのもこの頃。母からは「1週間、考えてみなさい」と言われて、とにかくゴルフから離れて遊びました。今も思い出すのですが、それがとっても楽しかった(笑)。でも4~5日すると、これまでの練習がものすごくもったいなく感じてきて……。絶対にゴルファーとして成功するという気持ちを持って練習を続けてきたのに、費やした時間を考えるとやめられなかった。家族に対して申し訳ない気持ちが、10代の幼い私の心の中には常にあったような気がします。

そんな状況から逃げているようですごく悔しかった。だから母に「頑張るから近くで支えてほしい」と言いました。この一言で母もやらないといけないと思ったようで、母と2人でゴルフをするために江原道(カンウォンド)から水原(スウォン)のゴルフ部のある高校に転校することになったんです。そうこうしているうちに、家族全員が水原の家で生活するようになるのですが、末っ子のジェニだけが地元の友達と離れるのが寂しいのもあったのか、1人だけ地元にある祖母の家で暮らしていました。それを母はすごく寂しがっていましたね。 

母とはなんでも言い合える仲だったゆえに、いろんなことがありました。プロデビューしたあと少しずつ試合で賞金をもらうようになってから、こんなことを言われました。「お金を稼ぐようになってから、少し自分勝手になってきたんじゃない?」って。確かに20歳を超えてからプロになり、自己主張をするようになったこともあり、態度や言動のどこかにおごりがあったように見えたのかもしれません。

母のその言葉にハッと気付かされ、以降、自分を見失わずにゴルフと向き合うことができるようになりました。この一言は私にとって大きかった。昔から母の言葉の影響を受けやすいのかもしれません(笑)。

2007年に韓国ツアー2部から初めてプロ入りしたのですが、08年に1部ツアーに行くまでの道のりが母にとっては一番つらかった時期かもしれません。母は早朝3時に起きてキンパ(日本の巻きずしに似た韓国料理)を作ってくれて、車の運転までして2部ツアーの会場に行っていました。約3カ月はそんな詰めた生活をして一緒に2部で戦っていましたし、1部ツアー進出を決めたときは「もう予選会は戦わなくていい」と、2人でホッとして喜んだのを思い出します。

韓国ツアーでは、09年に(アン・)ソンジュオンニ(=お姉さん)と争った初優勝の思い出、10年に初の賞金女王を手にしたあとに悩んだ末に日本ツアー行きを決断したこともそうですが、忘れられない思い出がたくさんあります。

年末は家族で過ごしました

「12月28日は結婚記念日だったので夫婦で過ごしました。年明けは初日の出を見に行ったのですが、雪がすごくて! 韓国の冬は寒いですよ〜」

月刊ゴルフダイジェスト2025年3月号より