【企業ゴルフ選士】Vol.12 熊谷組・村橋健一さん「いつかはゴルフ部を作りたいと思っています!」
戦うだけのゴルファーではなく、会社に認められ、選ばれたゴルファーである“企業ゴルフ選士”をクローズアップ。今回の選士は熊谷組の村橋健一さん。
ORGANIZER/Hironori Kogure PHOTO/Tsukasa Kobayashi THANKS/筑波CC
今週の選士
熊谷組
電力営業部 総括部長
村橋 健一さん
小学校低学年からゴルフを始め、大学時代はゴルフ部の主将を務めた。同社では本社電力営業部の総括部長として、大学時代に培ったマネジメント経験を生かし、営業マンとして辣腕を振るう
熊谷組
創業126年のゼネコン。大型土木工事に定評があり、特にトンネル工事では高い技術力と実績を有し、関電トンネルなど最難関工事にも携わる。また当時世界最高となる台北101を建設するなど超高層建築も手掛け、近年では中大規模木造建築にも力を入れる
熊谷組のエースは
異色のジュニアゴルファー?
村橋健一さんは小学校低学年でゴルフを始め、大学時代はゴルフ部の主将を務めた経験を持つ。現在は企業対抗戦や自身の所属する市原京急CCで倶楽部競技に参加するなど、さらなる上達を求めている途上だ。
と言うとジュニア上がりの競技ゴルファー像が浮かぶかもしれないが、村橋さんのゴルフキャリアはちょっと異色。
「近所に空き地があって、父がよくそこで(許可を取って)練習をしていたんです。最初は父の真似事で球を打っていたのですが、やっていくうちにどんどん楽しくなってきて。中学時代はこれまた近所にあったモトクロスの練習場が空いている時間帯に練習をさせてもらっていました。モトクロスのコースは赤土なので、しっかり打ち込まないと球がらず、ひたすらアイアンで打ち込んでいました。とにかく球を打つのが好きでしたね」
スウィングはもちろん自己流。シビアなライからショットを磨いていた村橋さんだったが、中高はゴルフ部がなかったことから中学は水泳、高校では水球部に所属しつつ、「もっと球打ちが上手くなりたい」という欲は消えることがなかった。
ゴルフしたくても
できなかった20年
やがて横浜国立大学ゴルフ部へ入るも、“空き地練”に明け暮れたゴルフ少年はちょっとした壁にぶつかる。打ち慣れていなかったドライバーがとにかく打てないのだ。
「入部当初はドライバーが全然打てなくて、バフィー(4番ウッド)でティーショットをしていました」
しかし子供時代、赤土のグラウンドや雑草茂る空き地で行っていた練習は、確実に村橋さんのショット感覚を磨いたのだろう。夏合宿を終わる頃には30台が出るようになり、早くも1年生でレギュラーの座を獲得。3年では主将を務めるに至った。
「大学時代はゴルフ漬けでしたが、就職後は土木施工の現場へ配属され、正直ゴルフどころではありませんでした。40歳で電力営業部に転属となるのですが、直後に東日本大震災が起こり、営業どころではなかったこともあって、結局しばらく現場に立ち続けていました」
復旧作業も落ち着き営業職へ。取引先との接待ゴルフの日々は「営業活動に大いに貢献した」と言うが、競技ゴルフの世界にいた心が完全に満たされることはない。かつて同社に実業団対抗の決勝戦でベスト10入りを果たした“名門ゴルフ部”が存在したことを知った村橋さんは、会社の仲間と大会に出場する道を模索し始めた。
背中を押してくれたのが、同社で専務執行役員を務める大野雅紀さん。村橋さんたちの気持ちをくんで社長に直談判した結果、活動費が一部、支援されることになった。
もっと上達して
「いつかはゴルフ部」
「2021年に有志で日経カップに出たんです。楽しかった反面、とにかく緊張しました。地に足はついていないし、OBは打つはチョロするわ……(笑)。久しぶりの大会は89でした」
数十年ぶりとなる“チーム熊谷組”、個人では約30年ぶりとなる競技ゴルフへの挑戦は予選ブロック33位と散々な結果に終わったが、村橋さんには「いつかゴルフ部を再建したい」という夢がある。
「ゴルフ部の設立は課題だらけですが、同時に自分の実力を高めたい。久しぶりの試合で普段のゴルフができなかった理由を考えたとき、やはりメンタルだと思ったんです。そこで最近はクラチャンや企業対抗の試合へ積極的に出場しています」
練習はできて週1、ラウンドは月2〜3回。はっきり言ってHC6.3の実力を維持するのに精いっぱいだが、それでも挑戦はやめない。「熊谷組ゴルフ部」の看板がスコアボードを飾る日が待ち遠しい。
村橋健一さんの14本セッティング
週刊ゴルフダイジェスト2024年11月12日号より