「隠し事をするな、嘘をつくな、挨拶は相手の眼を見てせよ…」坂田信弘がゴルフ界に遺したもの
40年以上にわたり、広くゴルフ界に貢献してきたプロゴルファー坂田信弘。作家、そしてジュニアゴルフ塾主宰と、縦横無尽に異才を発揮してきた。週刊ゴルフダイジェストの読み物連載としては、最も長く続いていた『ゴルフ野性塾』の、執筆者であり塾長が、2024年7月22日、永眠。76歳だった。
PHOTO/Hiroaki Arihara、Masaaki Nishimoto
すべては1984年、週刊ゴルフダイジェストの「ペプシ宇部」自戦記から始まった。「京都大学を出たプロがいる」との噂を聞きつけ声をかけたのだ。そして上がった原稿は漢文的趣きで、体言止めを効果的に使ったキレのある文体。編集部はいっぺんに魅了されてしまった。小誌と異才の幸福な邂逅──。
坂田は1947年、熊本市生まれ。肉体労働のアルバイトをしながら京大へ入学するものの、家族に仕送りするため中退し、自衛隊体育学校に入隊。1971年、自衛隊を退職すると、今度はプロゴルファーを目指すため栃木県・鹿沼CCの研修生生活に入る。この時の体験が後の人気漫画『風の大地』に描かれることになる。75年にプロテスト合格。クラブを握ってからわずか4年弱の異例の早さだった。78年福岡県の周防灘CC入社。この地で爪を研ぎ、思索を練る時間を持った。
そして、84年、前述の小誌をきっかけに執筆活動を開始。85年から小誌特派記者としてマスターズへ。その観戦記は坂田独自の視点と感性で綴られ、読む者のページを手繰る指を急がせた。
また当時、日本ツアー界を席巻していたジャンボ尾崎はインタビュー嫌いとして知られるが、「サンちゃん(棋士の坂田三吉に由来)になら話すよ」と。王者の奥義、心理まで解き明かして、正月特大号の目玉企画にしたものだ。
ジュニア育成の坂田塾が始まったのは93年、地元熊本塾から。翌年札幌、そして福岡、東海、神戸、船橋と広がっていった。プロテスト合格者115名、シード選手19名を輩出した。子どもたちの授業料一切なし。そして親からの口出しは一切無用が塾是。これを可能にしたのは、坂田が執筆活動で得た資金をつぎ込んだからだった。
塾の八カ条は、隠し事をするな。嘘をつくな。挨拶は相手の眼を見てせよ。礼状を書く。約束を守る。毎朝、国語と英語の単語の書き取りをせよ。スコア誤記をするな。コースラウンド時、1時間前に練習に入り、ラウンド後、日没までコースを離れるな。というものであった。
坂田がゴルフを通じて子供たちに教えたかったのは、人としての生き方だった。
坂田が傑物だったのはこれだけではない。子どもたちが塾を卒業する時に、大学(大手前大学)にも行ける道筋をつけたことだ。
坂田は小社だけでなく、多くの媒体に作品を提供しているが、小誌『野性塾』が自分の原点であり故郷だと「これだけは死ぬまで連載する」と宣言していた。そして事実、最終回の原稿をすでに生前に用意していた。次号で、これを公開させて頂く予定。
ゴルフ界に確かな足跡を残しながら生きた76年、団塊世代がまた一人、人生の幕を下ろした。
合掌・編集部一同(敬称略)
週刊ゴルフダイジェスト2024年8月13日号より