【ターニングポイント】真板潔「62歳の男の涙なんて見たくないでしょうけど…」
内気で口下手で目立つことが嫌い。しかも「超マイナス思考」という、おおよそプロゴルファーという職業に不向きな性格だった。けれども、シニアに転向後、目覚めたように必死に勝とうとし始めた。涙で語る「ターニングポイント」――。
TEXT/Yuzuru Hirayama PHOTO/Takanori Miki THANKS/ボールパーク
人には語れない苦労もある。プロゴルファーという職業は、世間の目には華やかに映るかもしれない。世界を旅し、注目の的となり、破格の賞金を得る。しかし、真板潔のプロ人生はこれまで誰にも語ったことがない、地味な苦労の連続だった。試合に勝てず、出られず、稼げない日々。46歳で生まれた娘を育てるために、妻にパートタイムで働いてもらわなければならなかった。インタビュー中、こみあげてくる涙をこらえきれずに嗚咽した。そんな彼にも、62歳になった今年、華やかな、歓喜の瞬間が訪れた。
「“すまいーだ”最終日の残り4ホールは
プロ人生で一番痺れました」
シニアツアーの出場権を得るための予選会というのは、私にとってはぎりぎりの瀬戸際の戦いでした。もう62歳なのに、ひと回りも若いスター選手たち、横尾要や、宮本勝昌や、片山晋呉まで来年は出るっていうんだから、私なんか、簡単に追い出されちゃいます。
それを何とか必死に通過しても、今年は「すまいーだカップシニア」にしか出られないはずでした。ここで優勝でもしないと、次の試合なんて私にはないわけですから、まったく稼げなくなります。だから、もう優勝するしかない、そう決めて戦ったんです。
順位を知らないまま、最終日の15番ホールのティーイングエリアに立ちました。スコアボードを見ると10アンダーで首位に並んでいたんです。他の選手が伸ばせていなくて、これは私にもチャンスがあるなと。そこからの残り4ホールは、プロ人生で一番痺れました。
15番パー5で2.5メートルのバーディパットを沈めて単独首位に。16、17番をパーでしのいで、最終18番で順位を再度確かめると、私が1打抜けている。最後は30センチのウィニングパットを沈めて、結果的にボギーなしの11アンダーで優勝でした。他の選手が伸ばせなかったからたまたま勝てた、運がいいだけの優勝ですけど。
「笑ってプレーができる人はいいなと思います。
でも、自分は生活がかかってるから
しかめっ面になってしまう」
2018年から勝てない時期、ほんとうに苦しくて。怪我もあったし、試合に出られずに賞金がなくなって、私にスポンサーなんてつくはずもないから収入がないんです。いまさらこの年齢になって他のことで稼げません。ゴルフを必死に頑張らないと。普通のシニアプロとは状況が違うんです。笑ってプレーができる人はいいなと思います。基本的な収入がほかにあって、子育ても終わっていて、余裕があれば、ニコニコできるのかもしれません。でも、自分は生活がかかっているから、しかめっ面になってしまう。
優勝できたときは、涙が溢れてきてしまって。「62歳のおじいさんの涙なんて、見たくないでしょうけど、涙が出てしまいます」そうスピーチさせていただきました。
「すまいーだカップ」で5年ぶりシニア7勝目
最終予選会での順位が17位だったため、この大会以降の出場が危ぶまれていた真板。「優勝するしかない」という強い気持ちで、勝利をもぎ取った
消去法で選んだ職業でもあった。就職先を決める高校生のとき、通学のために毎朝乗っていた電車が満員だった。ぎゅうぎゅう詰めの車内で揺られている会社員を見ながら、それを40年以上も続ける自信がなかった。「プロゴルファーを目指したい」。一緒にゴルフを始めてまだ4年にしかならない父、保幸にそう話した。会社員として定年まで勤めあげた父だけに、反対されるかと思いきや、意外にも賛成してくれた。プロテストは6度も不合格になり、ホールインワンに恵まれた7度目でようやく合格。けれども、プロになってからが、ほんとうの苦しみの始まりだった。
練習場に通い始めた父についていって、中学2年生のときに初めて球を打ったんです。1年後に父と津久井湖GCで初ラウンドして89でした。今のジュニアみたいに毎週なんてプレーできません。試合に出たこともないですしね。だから年に2回のラウンドが楽しみで仕方なくてね。もっと練習したいから、練習場で球拾いをして、他の学生はバイト料をもらっていましたけど、私は無料で打たせてもらって、それが報酬でした。
二十歳で中津川CCの松本秀夫支配人にお世話になり、2年ほど練習してプロテストを受けました。そこから6回落ちて、7回目でようやく合格できて。もちろん嬉しかったですけど、「ゴルフができるだけじゃだめだ」と松本支配人から言われて。プロとしての原点を教えてくれた人でした。
確かにその通りで、ゴルフで食っていくと思っていても、プロの試合に出たら、自分なんて大したことないと思い知らされました。初年度は9試合に出場して予選通過が日本オープンの1試合だけ。これじゃ、シード選手になるなんて難しいなと。
私は飛距離が出るほうではなかったですが、パッティングには自信があったから、そこを磨こうと。プロの速いグリーンだと、緊張感もあるし、どこか緩んで弱く打ってしまう。それを克服するために、ロングパットをよく練習しました。しっかり強く打つなかで、距離感と方向性を合わせていくんです。それと、ヘッドを上から打ち下ろしたり、下から打ち上げたりしないように。低く長く地を這うようなヘッドの動きだと、球の転がり方がよくなっていきました。
1987年のフジサンケイクラシック、マンデー予選から勝ち上がれて、3日目に初めてジャンボさん(尾崎将司)、青木(功)さんと一緒の組になったんです。スタートのアナウンスで「マンデーを通過した真板潔プロ」と紹介されたら、ずらりと並んだギャラリーから「かわいそう」という声が飛んだんです。それがはっきり聞こえて。自分でも確かにかわいそうだよなって(笑)。ガチガチに緊張してよく1オーバーでまわれたもんです。
職業には、向き不向きがある。「プロゴルファー向きの性格ではまったくない」と、真板は自嘲する。引っこみ思案で大勢のギャラリーが苦手。口下手で人前での優勝スピーチもしたくない。しかもネガティブ思考で、なぜか3日目にスコアを崩す。それは、心のどこかにあった「優勝なんかしなくてもいいや」という、弱気な思いが災いしていたと、現在の彼は振り返る。そんな彼のツアー初優勝は、2000年のサントリーオープン。実際に優勝してみると、心境に変化が表れた。
「パッティングには自信があったけど
優勝はしたくありませんでした」
幼い頃からの性格は、そう変わるものじゃないんですよ。目立つことが好きじゃないのは、プロになっても同じでした。それを見抜いた先輩プロがいて、「おまえは優勝しなくていいんだもんな」って。その通りで、初日と2日目がいい順位にいて、マスコミから取材されたりすると、3日目には落ちていくんです。結局、自信がないんです。調子が良ければいいけど、下手なショットを打っちゃうところをギャラリーに見られたくない、そんなことを思ってしまうんです。気持ちの問題なんでしょうね。勝ちたくない、見られたくないじゃ、それはもう、プロじゃない(笑)。
2000年は開幕前から、今年はやるからと、知人にあえて話しました。それは、一度くらい優勝する姿を父に見せたかったから。7度目でプロテストに合格したと母に電話で知らせたとき、父は万歳三唱してくれたらしいんです。僕は40歳、父も74歳、時間が残されていないじゃないですか。
サントリーオープン、初日から66で首位発進でした。最終日は今野康晴や谷口徹の追い上げをかわしてのツアー優勝。思ったのは、優勝は自然とやってくるようなものじゃない、勝つんだという気持ちがなければ勝てないんだということ。だから、若いときに、もっと優勝にこだわって、大勢のギャラリーの前でも堂々とした石川遼君みたいな性格なら、違った人生だったのかなと後悔もします。でも、それが、私の性格だから、損をしていても仕方ないです。
プロたちも一目置くパット名人
レギュラー時代、3パットはほとんどなかったという真板。「ボールの芯をパターの芯で打つ。当たり前のようですが、これができていないと距離感と方向性は合いません」
避けようのない別れがあり、思いがけない出会いもある。2002年の新潟オープンで、深い芝生に隠れていたコース上の穴に足を落とし、左足首外側の靱帯を断裂した。以降、勝つことはおろか、試合にさえ出られない日々。そんな失意の最中に、両親を相次いで亡くした。けれども、妻・恵との「年の差婚」があり、三姉妹の誕生があった。62歳になった彼は、まだゴルフで必死に戦っている。
「45キロを週3回、自転車で走破するんです。
何やってんだとも思うけど
今は勝ちたい、それだけです」
穴に足を落とし、パチーンッと音が聞こえました。靱帯が切れちゃって、そこからずっと試合に出られず、15年連続だった賞金シードを失ってしまいました。8月に手術をして、退院してきた9月に母をくも膜下出血で、翌1月に父を肺炎で亡くしました。私が歩けずにいた苦しいとき、心配させたま両親を亡くしたのが悔しくてね。
残された者が頑張ることが供養になると聞いたし、それと家族ができて、養わなければならないから、勝たなきゃ、という気持ちになりました。11歳年下の妻と結婚して、3人の娘を授かりました。だからシニアになってからも、私には余裕なんてないんです。他の選手は同窓会気分で楽しくプレーしているのかもしれませんが、私は収入が賞金しかないから、稼ぐためにゴルフをしているんです。
3年前から両膝半月板を損傷し、コロナ禍もあって、厳しい状況が続いています。だからって、もういいや、などとは言っていられません。45キロを週3回、自転車で走破するんです。昨年の11月に近所の自転車屋で買った、そんなに高価じゃない黒いロード自転車で、高幡不動までの多摩丘陵を上っています。ひざの上に筋肉がついて、痛みもおさまってきました。
自転車で走って苦しいとき、62歳にもなって、何やってんだとも思うけど、今は勝ちたい、それだけです。そして、試合中でも、その苦しさを思い出すんです。だから、笑ってゴルフはできません。
今年、久しぶりに優勝したとき、妻にスマートフォンで、優勝したよ、とメッセージを送りました。そんなに感動的ではなかったです。それは、ここまで、苦しい思いをさせてきたからでしょうね。私は、どんなに苦しくても、好きなゴルフを必死にやれている今が、幸せですけどね。
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月曜日、週に1日だけだが、真板潔は練習場でアマチュアへのレッスンを始めた。インタビューのこの日もレッスン後で、額に汗をかいていた。
「いやあ、人様に教えるのと、自分でやるのとでは、まったく違う仕事です。私には、レッスンが向いているとは思えないなあ」
レギュラーツアーで15年間賞金シード、シニアツアーで7勝。「レッスンが向いているとは思えない」という言外には、賞金だけで食ってきたプロゴルファーの矜持もあろう。
今日もきっと、黒い自転車で、急な坂道を、彼は上っている。
月刊ゴルフダイジェスト2022年11月号より