【陳さんとまわろう!】Vol.223「苦い経験から学ぶこと、意外と多いですよ」
日本ゴルフ界のレジェンド、陳清波さんが自身のゴルフ観を語る当連載。今回は、過去日本オープンで痛恨のミスをしてしまったときのお話。
TEXT/Ken Tsukada ILLUST/Takashi Matsumoto PHOTO/Tadashi Anezaki THANKS/河口湖CC、久我山ゴルフ
日本オープンの思い出は、
何時間あっても語りつくせません(笑)
――陳さんにはひとつ、大きな苦い思い出がありますね。1959年の日本オープンに優勝した翌年、優勝スコアで上がって2連覇達成のはずがスコア誤記で失格しました。
陳さん 廣野の大会だねえ。当時は決勝ラウンドの36ホールを1日で消化していて、スコアを誤記したのは午後のラウンドの11番パー4ホールですよ。3オン2パットの5だったのにマーカーの小野(光一)さんが4と書いて、それに私が気付かなかったんだねえ。
――その結果、3打差の2位だった小針春芳さんが繰り上げで優勝しました。翌日の報知新聞には写真のキャプションに「ミスのお陰でもらう優勝杯ではと小針選手(右端)も複雑な表情、すまなそうな小野選手(矢印)、(左端)クチビルをかみしめる陳選手」とあります。
陳さん アハハ……、スコア誤記で失格は日本オープン初らしいよ。しかし不思議なもので、このあと日本オープンで優勝しそうになるのに、どっかでつまずいて2位が続くんだねえ。61年の鷹之台、62年の千葉CC梅郷、64年の東京、66年の袖ヶ浦。これぜんぶ2位なの。おかしいんだ。信じられないんだよ。
――鷹之台は有名な暗闇のプレーオフが行われた大会ですね。
陳さん そう。暗闇の中、懐中電灯で照らしながら(笑)5人で戦って。細石(憲二)さんが優勝しましたけど、この大会は私が優勝してもぜんぜんおかしくなかったんですよ。15番ホールまで私が1打リードしていましたからね。ところが16番ホールでグリーンオーバーした私のそばに東京ゴルフ俱楽部の会員の人が来て「陳くん、1打リードしているよ」って耳打ちするんだ。それで急に緊張しちゃってさ(笑)、そのアプローチショットをショートさせてボギーだよ。そうしたら17番でまたボギーが続いて、結局これが原因でプレーオフになったわけね。
――耳打ちされなければ優勝していたかもしれませんね。
陳さん していましたよ。あのころは上り調子で強気でしたからね。でもその強気が災いして、64年の東京ゴルフ倶楽部では負けたんだ。大詰めの17番で4パットやって、優勝した杉本(英世)さんに1打差。3パットならプレーオフ、2パットなら優勝だったのにねえ。(笑)
――4パットはどんな感じで?
陳さん 最初のパットは下からのラインだからバーディチャンスなんですよ。で、強気だからね、ビシッと打ったら1メートルもオーバーして。返しはスライスラインよ。ところがラインは読めましたけど芝がベントなのを忘れちゃってさ(笑)、コーライのつもりで打ったらまた下に1メートルのオーバーだ。これで次は入れなくちゃいけないってあせったんだねえ。打ったらまた上へ行っちゃって。結局4回打ちました。この4パットは語り草になったんだ。廣野で失格したあとも10年近く「日本オープンで失格した」という枕詞が私の名前の前に付いてさ、これには参りましたよ。
――そういうことがありましたか。
陳さん みなさんに言いたいのは、変なことをして変な結果を招かないようにということなんだね。変なことをすると、そのときのことが決まって大事な場面で頭に浮かんでくるんだ。すると集中できないの。4パットの悪いイメージには悩まされましたよ。消そうと思っても消せないの。だから常日頃からプレーのひとつひとつを大事に丁寧に、なんだね。
陳清波
ちん・せいは。1931年生まれ。台湾出身。マスターズ6回連続出場など60年代に世界で日本で大活躍。「陳清波のモダンゴルフ」で多くのファンを生み出し、日本のゴルフ界をリードしてきた
月刊ゴルフダイジェスト2022年4月号より