【ターニングポイント】井戸木鴻樹「空白の8年間。顔で笑って心で泣いて」
男子日本人初の海外メジャー制覇を成し遂げた絶頂が一転。その肩書きが重くのしかかり8年もの間、不振にあえいだ井戸木鴻樹。積み重ねてきた勝利と敗北の記憶を辿りつつ、そのターニングポイントを静かに語る。
TEXT/Yuzuru Hirayama PHOTO/Takanori Miki
僥倖に恵まれる人がいる。
井戸木鴻樹にとっての思いがけない幸せは、51歳になった2013年、初の海外試合、全米プロシニア選手権での優勝だった。
プロシニア世界一を争うメジャー大会の歴代覇者には、サラゼン、スニード、パーマー、ニクラス、ワトソンら、伝説の名が並ぶ。日本人の挑戦は、1996年「世界のアオキ」青木功の2位が最上位だ。その覇者に「大阪のイドキ」が加わった。
昨年松山英樹がマスターズで優勝するまで、日本人男子による海外メジャー制覇は唯一。この快挙で、日本プロゴルフ殿堂特別賞をも受賞した。だが1年もすると、「メジャーチャンピオン」の称号が、徐々に重圧へと変わってゆく。そして、その後8年間も未勝利の大スランプに陥ることになる。
あれっ、そんなに上手くないな
ちょっとずつ細胞って潰れていくもん
かいなってね(笑)
日本のシニアツアーで賞金ランキング2位になって、全米プロシニアの出場権がもらえますって。えーっ、アメリカ? 大阪から出るのさえしんどいのに、海外で試合するなんて想像できんかったですわ(笑)。
予選を通って、日本人選手4人中トップになれればと、そんな気楽さでした。心掛けたのは、ドライバーでそれほど飛ばさんでも、フェアウェイを外さんこと。2打目が勝負やと思って、ウッドを6本も入れて行きました。外国人選手がウェッジで狙っていくところを、僕は9番ウッド(笑)。それでも曲がらんから、自分らしいプレーができている実感はありました。
超一流選手たちがいて、ギャラリーはティーからグリーンまでびっしり。そやけど怖じ気づきませんでした。だって有名な選手と練習ラウンドしたとき、あれっ、そんなに上手くないな、ちょっとずつ細胞って潰れていくもんかいなってね(笑)。僕は50歳を過ぎてからも毎日練習して、もっと上手くなれる、そう信じてきました。そやから勝負できるんちゃうかと。
3日目、首位に5打差をつけられ、優勝なんて考えませんでした。ところが最終日に6バーディ、ノーボギーの65で、まさかの逆転優勝。メジャーでしょ、うれしいというより、信じられんという気持ちですわ。勝利者インタビューで通訳が『涙がこぼれました』と英語で言ってくれたらしいんですけど、ほんまは一粒もこぼれませんでした(笑)。
帰国後は、どこへ行っても『メジャーチャンピオン』という肩書きがついてまわりました。僕としては、あれも一つの試合、一つの勝利なのにね。だからその肩書きにふさわしい選手でなければという意識になってしまい、そこからですわ、苦しみが始まったのは。
8年間も勝てない日々が続くと、もうやめようか、何度そう思ったことか。けれどね、いつも同じように考え直すんです。僕にはゴルフしかあらへんやろと。
ばあちゃんの指輪をこっそり持ち出して
『交換してや』がゴルフの始まりでした
幼少期にして、天職と出合ってしまう者もいる。
小学3年生のとき上級生が持っていた1本のクラブに魅せられた。稲田の切株をティーにして球を打つ遊びに熱中。中学3年生で全日本ジュニア中学生の部に優勝した。高校進学はせず、15歳で箕面GCに研修生として入門した。プロになる夢は、キャディの仕事をして女手一つで育ててくれた母・洋子への感謝の思いでもあった。
野球やサッカーをして遊んでいた小学3年生のある日、先輩が1本の棒を持ってきたんです。「これ、ボール打って遊ぶやつや」と。家へ帰ってばあちゃんの指輪こっそり持ち出して、「交換してや」がゴルフの始まりでした。
その4番アイアン1本で、叔父にオーバーラッピングの握り方を習い、勉強もせんと田んぼで球ばっかり打って遊んでいました。両親が早くに離婚し、兄が父に、僕が母に育てられました。母は近所の茨木CCでキャディの仕事をしていたので、夕方誰もいなくなったコースをまわらせてもらいました。ゴルフはカップインするまで一人で遊べる。それが性に合っていたのか夢中で練習しました。
母は一人で僕を育てたのは大変やったと思います。足の爪に菌が入って破傷風になっても休まず、客の重たいバッグを背負って歩いていました。近所には中村通プロ、宮本康弘プロの家があって、高級外車に乗られていてカッコええなって。しかも優勝されてテレビでガッツポーズする姿が映るでしょ。いつか僕も、あんなんして、親孝行できたらええなって。
めきめきと頭角を現しプロを目指して研修生に
小学3年生でクラブを握り、夢中で練習したという井戸木。中学3年生のときには全日本ジュニア中学の部で優勝するほどの腕前になっていた(写真は19歳のころ)
『ついてないな』とぼやいたら
『つきでゴルフするな、技術で勝負せぇ!』
って一喝されました
中学卒業と同時に、父の姓から母の井戸木姓に変えて研修生になりました。4回目で合格してプロになれたんですが、なかなか勝てませんでした。運に見放されているような試合も多く、あるとき「ついてないな」とぼやいたら、師匠の前田利光先生に「つきで勝負するな、技術で勝負せぇ!」って一喝されました。そこからはぼやかず、ひたすら技術を磨いて、1990年関西プロで初優勝できました。憧れの中村通プロらと優勝争いをして、ガッツポーズを母に見せられたのは、いい思い出です。
プロゴルファーは2度デビューできる。
レギュラーツアーでは1990年の関西プロ、3年後の新潟オープンの2勝。2010年に76歳で母を亡くし、2012年を最後にシード落ちもした。ここまででも、十分なプロ人生だったと言えよう。けれども、彼は2度目のデビューで、もう一花咲かせようと試みる。2012年よりシニアツアーに参戦。同年最終戦の富士フイルムチャンピオンシップ、「ミスター・フェアウェイ」と称された正確無比なドライバーショットで、飛ばし屋たちが次々と脱落するなかでシニア初優勝。その一花こそが渡米切符へとつながった。
シニアでは絶対にやれるという自信がありました。レギュラー時代に飛ばしていた人も、それほど飛ばなくなる。しかも、飛ばそうとして曲がるでしょ。僕は、とにかく曲げないゴルフですから。
曲げないためのコツをよく訊かれますけど、理屈は好きやない。とにかく曲げないように打つ球のイメージと、そして練習量です。100球打って1球でも曲がったら、翌日は120球打つ。また1球でも曲がったら、翌日は150球打つ。体をどう使うかなんていう理屈より、真っすぐ打つ感覚を脳に刻みこむんです。
全米プロシニア勝利後、右肩を故障し、次は左肩も。両肩が痛くて車のハンドルも回せない。そんなだからショットも散々で、しかもパッティングで手が動かなくなってしまったんです。イップスなんて、僕に限っては無縁やと思っていたけど、なりましたね(苦笑)。
さらに、シニアにも次々と若手が入ってくる。そこで、僕ももっと飛ばさなければという意識にもなり、すると当然、曲がります。そんななのに『メジャーチャンピオン』が、いつまでもつきまとってくる。その重圧に、今でも震えるときがあります。勝てない空白の8年間は、顔で笑って心で泣いて、そんな感じでしたわ。
50代は、成長よりも、成果を回顧していい年代でもある。
しかも、59歳。8年間とあまりにも長いスランプの中で、しかし井戸木は未来を見据えていた。「もう一度、アメリカへ」。昨年、HANDAシニアトーナメントにて、最終日に9アンダー、27人抜きの大逆転でシニア2勝目を挙げた。さらには同年コマツオープンでシーズン2勝目、佐世保シニアオープンで3勝目を達成。完全復活を果たし、「再渡米」も現実味を帯びてきた。
パッティングのイップスがひどくて、人前でプレーするのが恥ずかしいくらい。そこで、なりふり構わずにパッティングが上手な室田淳プロの真似をしてみようと。
パターを同じ中尺に替え、リズムも打ち方も取り入れさせてもらいました。ヘッドを、ポン、ポン、と地面に落とすようにして力を抜き、ふうっと息を吐きながら打ってみたら、すんなりと手が動いたんです。よし、パターさえ戻れば、また勝負できるぞと。
それと、ついでにショットも、女子の鈴木愛プロを真似て(笑)。手で球筋をコントロールしようとせず、体全体でゆったりと打つ、あの雰囲気です。よっしゃ、これで賞金ランキング上位に絶対戻ったるぞと腹をくくりました。
久しぶりに優勝できた後のコマツオープン、ここでも勝てる感じがしたんです。夢っていうのかな。もう一度アメリカへ渡って、あの勝利がまぐれではなかったと証明したいという気持ちが、モチベーションになっていました。
1打差の2位で迎えた最終日16番パー3。首位の清水洋一プロがグリーンをとらえ、僕は手前のバンカーに。ピンまで20ヤード、グリーンエッジからは下り傾斜。キャリー12ヤードを打ち、あとは転がって寄ってくれと。いい感じで振り抜けたけど、低いバンカーからはボールの行方が見えなくて。打ち終えて駆けあがってみたら、チップインバーディ!
昨年は3勝できて、賞金ランキング3位に。今年は還暦ですが、まだまだ成績を上げたいし、ガッツポーズもしたい。レギュラーでも粘りに粘って、どうにかしぶとくやれましたけど、シニアでも同じ。もう少し粘るために、技術を磨きつづけていきたいです。
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数十年ぶりの大寒波が関西にも到来した午後。新大阪駅近くのオフィス街で話を終えた井戸木は、一本のシャンパンを見せた。
「今晩、飲もうかと思ってね」
夢だった2度目のメジャー挑戦は、再燃を繰り返すコロナ禍ゆえに断念せざるを得ないだろう。シャンパンはきっと、無念さを晴らすのに少しだけ役立つに違いない。
「アメリカは、すっぱりあきらめました。けどね、ゴルフはあきらめません。若いもんがシニアに次々と参戦してきましたけど、谷口、手嶋、伊澤、おまえらには、まだまだ負けへんぞ! ってね」
冷たいビル風が吹き荒ぶなか、ジャケットを羽織ることなく、シャンパンが入ったリュックサックを担いでこちらに手を振りながら、いつもの笑顔で歩いていった。
月刊ゴルフダイジェスト2022年3月号より