Myゴルフダイジェスト

会員登録

【インタビュー】佐伯三貴「優勝して帰ると、祖父は金木犀の木にライトをつけて迎えてくれた」

ツアー登録後わずか112日目にして優勝した「天才少女」は、覚悟を常に口にして自らを鼓舞し、たどり着いたのは、祖父や家族への、そしてゴルフへの、感謝だった。

TEXT/Yuzuru Hirayama PHOTO/Takanori Miki 

佐伯三貴 1984年生まれ、広島県出身。東北福祉大学ゴルフ部在籍中の06年度ファイナルQTで42位となり、07年プロ登録。同年フジサンケイレディスで初優勝。ツアー7勝

祖父の思いに応えるため
プロを目指すことに


ゴルフ一家に生まれ、「天才少女」と騒がれた。武田高校時代には全国高校選手権を連覇。東北福祉大学でも日本女子学生選手権、日米大学選手権など、栄冠は数え切れない。そんな彼女は、しかし、「プロを目指していたわけでは全然ない」。目標を設定して努力する者もいれば、努力したその先に、目標が生まれてくる者もいる。


物心ついたときからゴルフがすぐ近くにありました。青木ファミリーやジャンボ軍団がうちによく遊びに来ていて、海老原清治さんとは幼稚園の頃に一緒にお風呂に入っていました(笑)。当時はお調子者だったので、うちの前の公園でアプローチしていた選手に「そうじゃない!」なんて教えていたらしくて(笑)。 

初めてのラウンドは小学校の低学年。父(行生)が2ホールだけ一緒に回ってくれて。お父さんっ子だったので、自動車関連業の会社を営んでいて忙しかった父と一緒にいられる、そんな思いでした。 

中高一貫校で勉強熱心な校風だったので、大学卒業後は結婚して、ゴルフはアマチュアのままでいいかと。ただ、ゴルフショップを経営していた祖父の田中金造からは、「プロになれ」と言われていました。ゴルフって、性格が出るスポーツですよね。几帳面とか、計画性があるとか。私の場合、ジュニア時代からアグレッシブ。こぢんまりした感じではなく、勢いがあるプレーをしていました。悩みはあったのかもしれないですけど、「練習すれば上手くなる!」と。だから、目標を立ててとかじゃなく、「とりあえず練習しよう!」でした。

「私、諦めるけど
往生際が悪いんです」

「プロなんて大変だからやめとけ、アマチュアでいい」と、父には留学を勧められました。流されるかたちで当初はハワイに留学したんですけど、すぐに断念しました。でも私、諦めるけど、往生際が悪いんです。帰国後大学2年生のときに祖父が68歳で亡くなって。ふと、葬儀のときに思い出したんです。私が大会で優勝して帰ると、祖父は金木犀(きんもくせい)の木にライトをつけて迎えてくれていたなって。いつも見守って励ましてくれていた祖父の気持ちに、亡くなってからですけど、応えたいなって。


「QTにチャレンジさせてください」と大学3年生のとき監督に言いました。まだ1年あるのに大学はどうするんだと言われたのですが、「ダメなら潔く諦めます」と。そうしたらファイナルまで行けました。監督からは、プロに転向してやっていく自信はあるのかと聞かれ、「勝ちます! 自信あります!」と答えました。若いから言えたのかもしれないですけど、後悔をしたくないなら、自分で言い切るしかないって。 

デビュー戦の2007年アコーディア・ゴルフレディスでは、調子が悪かったのに40位タイで予選を通過できて、「私でもやれるんじゃない?」って、いい勘違いができました(笑)。プロに大切なのは、覚悟だと思います。デビューしたばかりの頃、大きなショッピングモールに坂詰和久コーチと行ったとき、ブランド品が陳列されているショーケースの前でつぶやいたんです。

「私、ここからここまで、全部ください! なんて言えるようになりたいな」って。するとコーチが「すぐになれるよ、余裕だよ」なんて、また勘違いさせてくれて(笑)。私、「言霊」という言葉が好き。その頃から、覚悟は口に出すようにしてきました。 

坂詰コーチの教えは、初年度のオフに「9番アイアンだけ持ってきて」と。その1本でハーフショットみたいな練習ばかりさせられていたら、シーズン直前になってさすがに不安になってきて、ほかのクラブも打たせてくださいと。「いつまで我慢できるか試していた」と笑いながらコーチに言われました。プロ生活でスウィングを見つめ直すとき、ベースになったのが9番アイアン。私の基礎を作ってくださったと思っています。

現役時代の経験を生かし
後進育成にも力を注ぐ

ツアー登録後112日目、4戦目でのツアー初優勝。それは、宮里藍の記録を上回るツアー史上最速記録(当時)だった。 成功者なら、誰にも恩人がいる。初優勝の表彰式、家族と撮った写真が残っている。そこには、プロになることを願ってくれた祖父の遺影が。

ツアー7勝。2度のセントアンドリュースでの全英女子オープンのトップ10(2007年7位タイ・2013年6位タイ)、第4回女子ワールドカップで諸見里しのぶとともに3位入賞。亡き祖父と、家族の励ましを胸に活躍した。

プロになれと言ってくれていた祖父のことを思い出すと、今でも泣いてしまいます。実家の、あの金木犀。切られることになったときも、「お願いだからあれだけは切らないで」と。初優勝の最終日、風が強かったんです。ときどき空を見上げながら、「この風は、じいちゃんかもしれん」、そう思いながらプレーしていると、風が味方をしてくれました。

風が回る難しい大混戦の最終日、首位に2打差でスタートした佐伯は、13番ホールからの3連続バーディで単独首位に。そのまま逃げ切り、逆転初優勝を飾った。ツアー登録4戦目、わずか112日での初優勝だった

祖父の思いと家族の応援が後押しし、つかんだ初優勝。当時の日本ツアー史上最速記録を塗り替える快挙となった

プロになることを反対していた父には、QTを受けたときも内緒だったんです。でもプロになってからは、ずっと応援してくれました。いつか海外でプレーしたいという目標をくれたのは、父かもしれません。幼い頃から海外でゴルフをしたり、見せたりしてくれていたので。全英に出られることになって、セントアンドリュースを回るとき、父と早めに渡英して一緒にラウンドしました。心配や苦労もかけたけど、普通はできない親孝行も、できたかな?(笑)

2012年に2勝して、翌年賞金女王を狙える、ゴルフがわかってきた、というときに怪我をしました。最終戦のリコーカップ、65の3位で上がって、翌朝起きたら、突然腕が痺れて首も動かなくて。まるで糸がプチッて切れたかのように思えて、絶望しました。手術を乗り越えてそこからも2勝できたんですけど、以前までのいいイメージは、もうゼロ。余韻で勝てたようなものでした。2013年のフジサンケイレディスで勝ったとき、最終グリーン上で、ああ、これが最後の優勝だなと、ふと思ったんです。

2021年に引退後は、後進を育てる仕事をしています。伝えるって、難しい。技術や気持ちを言語化しなければならないので、日々勉強です。私たちの時代のノリでいっちゃったら、若い子はすぐにへこたれちゃう。今は生きづらいけど、生きやすい時代でもありますよね。情報はすぐ手に入りますし。今、私が選手だったら、もっとやれるんじゃないかなって思うときもあります。けれど、自分のゴルフ人生に後悔はないです。プロを目指す若い子たちに、打たれ強く、悔いのないよう、やっていってほしいな、そう願っています。

●     ●     ●

芝生ではなく、都会のアスファルトの歩道を並んで歩いた。プレーから離れた女性としての思いを聞いた。「女性としての喜び、結婚をして、子どもを産んで、育てて、ということも考えながら、生きてはいました」

今年の4月、彼女の言う「喜び」の一つ、結婚を発表した。相手は現役のボートレーサーで、やはり、勝負の世界で生きている。「若い子たちに伝えたいのは、助けてほしいと言ってきてくれる子に、自分を助けるのは、自分しかいないよ、悔しかったら、やるしかないよって、それかな」 

もう、アスファルトの上なのに、まだ、戦っていたときの彼女と、話しているような気がした。

月刊ゴルフダイジェスト2025年8月号より