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【イ・ボミのスマイル日和】Vol.5「キャディさんとの距離感が不安でしたが、グッチさんのおかげで日本ツアーに溶け込めました」

2年連続賞金女王など輝かしい実績を残し、2023年に惜しまれつつも日本ツアーを引退したイ・ボミ。これまであまり語られてこなかった生い立ちや現役時代の秘話など、あらいざらい語り尽くす!

TEXT/Kim Myung Wook PHOTO/Takanori Miki

イ・ボミ 1988年生まれ。15、16年賞金女王。日本ツアー21勝のレジェンド

「日本で戦ううえで言葉が一番不安でした」

私が韓国女子ツアーの賞金女王になったのが2010年。その前は06年から08年まで(申)ジエが3年連続で、09年は(ソ・)ヒキョンオンニが賞金女王で(ユ・)ソヨンが2位。その後も後輩の(ジャン・)ハナ(13年)、(キム・)ヒョージュ(14年)、(チョン・)インジ(15年)などが賞金ランク1位になったあと、米ツアーに籍を移しています。国内で結果を残した選手は米ツアーに出ていくという流れが確かにありました。もちろん国内に残る選手もいますが、海外に出るとすればアメリカか日本のどちらかで、当時の選手の割合でいえば米ツアーが80%、日本ツアーが20%でした。(キム・)ハヌルは11年と12年に韓国で賞金女王になった後、日本に来ましたよね。


私は賞金女王になった後、母の勧めもあって日本に行くことを決めました。当時のことを振り返って思うのは、その時の判断は本当に正しかったということ。仮に米ツアーに行く決断をしていたら、5年も経たないうちに帰国して、もっと早くゴルフをやめていたと思います。 

2010年に初めて挑戦した日本ツアーのQT。10位だったという結果は覚えていますが、もう15年前のことで細かいことは覚えていません(笑)。たぶん緊張はしていましたが、あっという間に終わった感じがあり、無事に突破できた安堵感がありました。 

韓国との違いで最初に驚いたのは、日本のコースはヤーデージブックに正確な数字がしっかりと書かれていることでした。韓国ツアーは、距離を計測することはもちろん、目から入るものや実際にプレーして手に入る情報はすべて自分で細かくメモする必要がありました。誰も教えてくれないから、自分で考えて工夫してコース内の情報はすべてラウンドしながら書き込む。これが習慣化されて距離も1ヤード単位で正確に書くことができるようになりました。 

試合の練習ラウンドも韓国では4人で回らないといけないのですが、日本では前日に出る時間を決めてもいいし。一つ苦労したことを挙げるなら言葉です。ファンの方は「日本語が上手い!」と言ってくれるのですが、今でも全く自信がない(笑)。日本語が上手く話せないので、日本に来たときもキャディさんとの意思疎通を図ることに苦労するだろうなと思っていたんです。 

そもそも、キャディさんとの距離感にもすごく神経を使っていました。韓国では適度な距離感を保ってくれるキャディさんが好きで、優勝したときにバッグを担いでくれたプロの方がそうでした。ただ、キャディさんが代わると距離感を詰めてくる人もいるわけで、そうなると嫌なのが表情に出る(笑)。だから試合では某ゴルフ場の女性ハウスキャディにお願いしていました。 

そんな性格なので、『日本では1年を通してキャディと専属契約する選手が多い』と聞いて困りました。果たして自分に合う人がいるのか? そんな時に紹介されたのが川口淳さんでした。長らく渡邉彩香選手のバッグを担いだキャディさんですが、私の日本ツアーデビューとなった11年の「ダイキンオーキッドレディス」を一緒に戦いました。 

とにかくグッチさん(ボミの川口氏の呼び方)は人がいい。周りの人にもたくさん私を紹介してくれました。もし静かなキャディさんなら、私も控えめにしていたと思いますが、グッチさんが明るいので、私もよく笑っていましたし、ツアーに溶け込むきっかけになりました。 

そういえばグッチさん、私の母に冗談でこんなこと言っていました。「自分は結婚しているから大丈夫ですよ」って。大笑いしたことは今も忘れません(笑)。

月刊ゴルフダイジェスト2025年5月号より