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【ゴルフ野性塾】Vol.1759「達筆と称えた方がいた。悪筆と唸った者もいた」

KEYWORD 坂田信弘

古閑美保、上田桃子など数多くの名選手を輩出してきた坂田塾・塾長の坂田信弘が、読者の悩みに独自の視点から答える。

前回のお話はこちら

おぼろ月夜みたいな太陽が

今も東の空、福岡空港上空に浮んでいる。
今日11月17日木曜日。現在時午前8時3分。
本稿執筆の為、東と南方向が見渡せる居間に座ったのが7時45分過ぎだった。
珍しい太陽だな、と思った。
今年初めて出会う姿だった。

原稿用紙、フェルトペンと修正液をテーブル中央に置いたまま太陽を眺め続けた。
20分過ぎた。
まだ、おぼろ月に似る太陽が浮んでいる。
太陽の位置は変った。
南へと移って行く。
太陽の行く先、薄暗い雲が待っている。
どうなるかと思って太陽を眺め続けた。
太陽は薄暗い雲の中に入った。
太陽の姿が消えた。
太陽の明るさも消えた。
そんなに簡単に雲に遮られるのかと思い、太陽の位置を確認する為、ベランダに出た。
太陽の姿は見えなかった。
その時が8時23分。
7時45分から8時23分迄の38分間、おぼろ月に似た太陽に付き合っていた。
そして、椅子に座り、ペンを持った。

今の時間、午前8時55分。
本稿締め切り迄には充分なる時間ありだ。
故にゆっくりと書いている。
自分の変化に驚く事、一つあった。
私の文字は読み難いと聞く。
判読が必要とも聞く。
どの編集部でも私の原稿読めるのは担当一人であるらしい。
私の文字を達筆と言ってくれる人がいた。
だがその方は私の原稿、読む事は出来なかった。
そして今、私は読み難いと思う漢字に平仮名ルビを振っている。
3年前、如何なる原稿にもルビ振る事はなかった。
私の原稿を判読して最後迄読み切れるのは各雑誌、各新聞の担当、そして私の原作漫画を創る漫画家だけだった。
昭和58年11月にペンを持ったが、私の原稿を起すのは大変だったらしい。
送った原稿を一人で起すのは無理だから4人の手分けで起したと聞く。

それも締切り切っての入稿が多かったから、編集部も大変だったと思う。
日本で一番金の掛かる執筆者です、と週刊朝日の編集長が言って来た。
それでも面白かったのか、現役のプロゴルファーの原稿が珍しかったのか、連載中止となる事はなかった。
週連載5本の時は余裕ありだった。
別に観戦記特集も講演会もジュニア塾生の指導も出来た。
週連載、隔週連載合せて一週間に13本の原稿書き始めた後がきつかった。
過労で二度、救急車で病院に運ばれた。
それで執筆本数を減らした。
今は周りが言う通り優しい男になったと思う。

ルビを振って行く。
だから執筆の時間、少しは増えるが気にはならぬ。
13本書いてた頃はルビ振りも修正液使う時間もなかった。
それで押し切れた時だった。
今は丁寧だ。
20年前の担当者が今の原稿見れば驚くと思う。
そして一言が出るのは間違いあるまい。
「楽だなァ。俺達の頃の原稿はこんなもんじゃなかった。入稿は遅いし、悪筆だし、原稿の中に熊本弁は出て来るし、編集の常識で読んでたんじゃ締切りに間に合わないし、そりゃ大変だった。今は締切り守ってくれるんだって。そしてルビ入りだ。天国だネ」

東の空を見る。
薄暗い空になって来た。
今日は午後から雨か。
昼過ぎれば西鉄バスに乗る。
そして福岡市内の商店街か市場へ向う。
欲しい物がある訳じゃない。ブラつきたいだけだ。
商店街か市場で2時間過す。
2時間の内の1時間はコーヒー店で熱いカフェラッテを飲んでいる。
雨、降れば出掛けない。
部屋か居間で眠るだけだ。
雨降れば女房殿の洗濯はない。
色の異なる雲が重なり合って来た。
南の山、手前の山は緑濃く、先の山は薄き藍色になっている。
手前と奥の山、山の色異なる時は雨が降る。
コロナ禍、東の空と山、南の空と山、眺めながらペンを持ち始めて気付いた事である。
午前9時50分を過ぎた。これより質問の執筆に入ります。
体調良好です。

淡視と凝視、五分と五分なら正解。

ボールの見方についての質問です。アドレスでは、ボールを凝視するのと周辺視野で見るのと、どちらがいいのでしょうか。私自身はドライバーのときはボールのあたりをぼんやりと見ていて、アイアンやアプローチではしっかり凝視しています。これでいいのでしょうか。塾長はボールをどう見ていますか。(宮城県・山下晃司・53歳・ゴルフ歴27年・平均スコア88)


然り気なく見ています。
凝視も敵視もなく、ボールの周りを漠然と眺め、そしてスウィング始動に入って来た47年のゴルファー生活である。
24歳になったばかりの時にゴルフを始め、3年と10カ月後の27歳と11カ月の時にプロテストに通り、翌年ツアー参戦。
予選通るか落ちるかのツアー生活を10年続け、37歳と2カ月の時にゴルフクラブとペンを持ってのなまくら二刀流生活に入ったが、アドレス時の凝視の記憶はなしだ。

私は淡視で生きて来た者と思う。
人それぞれなれど、今も淡視で生きている。
淡視が私に合った眼線である様な気がする。
貴兄は淡視と凝視で球を見る人だ。
それでいいと思う。
スウィング途中のどこかで力が抜ければスウィングスピードは落ちる。
当然、ヘッド軌道も変る。
スピード落ちれば軌道変るは常なりし事だ。
スウィングスピード落さぬ意識さえ持てば凝視するも淡視するも人それぞれの領域に入って行くと思う。
私はパッティングだけは凝視していた記憶を持つ。
特に打ち終えた後の眼線は凝視だった。

貴兄の質問を見て思った。
私のパッティング下手と蛮勇のなさはそこに在ったのかも知れないと。
結果を怖れる知勇と結果を怖れない蛮勇の二つの比率五分と五分であれば物事は上手く行くと思う。
そして結果を求める生き様、知勇よりは蛮勇多き方が成功の確率高いと思う。
今は分る。私は蛮勇足らずの者だった。
淡視でパター持つ事出来たならば変るもの多く在った様な気はします。
しかし、この想いも過ぎての話である。
貴兄は今のままでいい。
以上です。

坂田信弘

昭和22年熊本生まれ。京大中退。50年プロ合格

週刊ゴルフダイジェスト2022年12月6日号より