【陳さんとまわろう!】Vol.230「パットに関しては本当にいろいろと考えてきましたよ」
日本ゴルフ界のレジェンド、陳清波さんが自身のゴルフ観を語る当連載。今回のお話は、50年以上前の、日本オープンのあるホールでの思い出について。
TEXT/Ken Tsukada ILLUST/Takashi Matsumoto PHOTO/Tadashi Anezaki THANKS/河口湖CC、久我山ゴルフ
記憶力は大切
ただ覚えすぎているのもちょっと(笑)
――試合の4日間の1番ホールから18番ホールまでの72ホールの各ショットを、残り距離から使用番手、グリーンのピン位置など全部覚えていたという陳さんの記憶力にはびっくりしました。
陳さん アハハ……、でもそれは私が現役バリバリのころの話。それぐらい覚えていないと試合には勝てませんからね。覚えていて、それを次の試合に役立てなくちゃいけない。いいショット、悪いショット、それぞれから得るものがあるわけよ。ただね、あんまり覚えていすぎるのも困るんだ。ある試合でやった4パットのことを50年以上経ったいまでも覚えているんですからしつこいでしょ(笑)。
――よっぽどダメージが大きかったんですね。
陳さん 1964年の日本オープンですよ。私が所属していた東京ゴルフ倶楽部が会場でね。杉本英世さんが優勝しましたけど、私ここで最終ラウンドの17番(パー3)で4パットしちゃって、1打差で杉本さんに負けたんだ。このときの悪いイメージがまだ残っているわけ。ホントよ。
―― それは強烈なしつこさですね。
陳さん 最初のパットが下からのラインでバーディが狙える距離よ。ところがそのとき私は33歳。日本オープンをはじめいろいろな試合に勝っていたときですから、強気だったんだねえ。ビシッと打ったら1メートルオーバーして。返しはスライスラインだ。ところがベントグリーンなのを忘れちゃってさ(笑)、コーライのつもりで打ったら強すぎて、1メートル下まで落ちたんだ。これでもうパーはないよ。それで次入れなくちゃいけないって慌てちゃって、ラインをしっかり確認しないままポンッて打ったらカップの横をスッと抜けたんだねえ。結局4回打ってダブルボギーだ。このときの4パットは選手の間で語り草になったぐらいなんですよ。
――それがなければ59年の日本オープンに次いで2度目の優勝でしたし、過少申告で失格した翌60年大会の不名誉が払拭できたでしょうね。
陳さん アハハ……、イヤなことを思い出させますけど、でも本当よ。私がパットに自信を持てなくなったのは、この4パットのほかに、マスターズに出て(63年〜68年)オーガスタナショナルのグリーンに手を焼いたためなんだ。もう全然ラインが読めなくてねえ。自信喪失。これが日本の試合でもずうっと続いて、グリーンに上がるのがイヤになっちゃったぐらいなんだ。
――でもそれでほとんど予選落ちもしないでよくやってこれましたね。
陳さん ショットは良かったのよ。だからピンに絡むの。ただバーディパットが入らなかったわけよ。そこで、悩んで、あれは関東プロ(ゴルフ選手権/73年)のときですがね、アメリカのオービル・ムーディ(69年全米オープン優勝)という選手がクロスハンドでやっていたのを思い出して、練習も何もなしでやってみたわけね。そうしたらパットがよく入るんだ。最後まで尾崎(将司)選手と優勝争いをやって、習志野の18番パー5まで同じスコアで来たんだよ。ところが私の3打目がグリーン右のバンカーに入っちゃってさ、寄らず入らずでボギー。尾崎選手はパーで上がって、1打の差で負けました。年の差は15歳(笑)。クロスハンドグリップは日本では誰もやっていなかったはず。だから私が先鞭をつけたと思いますよ。
陳清波
ちん・せいは。1931年生まれ。台湾出身。マスターズ6回連続出場など60年代に世界で日本で大活躍。「陳清波のモダンゴルフ」で多くのファンを生み出し、日本のゴルフ界をリードしてきた
月刊ゴルフダイジェスト2022年11月号より