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【私の経歴書】#3 トレーナー・白木仁「怪我をさせない。これが私の使命」

スポーツ医学の先駆者であり多くのアスリートをサポートしてきたトレーナー白木仁氏の人生を振り返る

TEXT/Chiharu Kubota PHOTO/本人提供、Tadashi Anezaki、Yasuo Masuda

白木仁
しらきひとし。1957年北海道生まれ。筑波大学教授。高校、大学は陸上競技部で短距離&ハードルの選手として活躍。卒業後、大学院で解剖学を学びながら柔道整復師の資格を取得。平成3年より筑波大学体育系にてスポーツ医学講師として教育と研究に従事

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筑波大学は広大なキャンパスの中に点在するビル群で構成され、まるで大きな都市のようでもある。大都市とは雰囲気が異なるのは人影がまばらなこと。学期末のせいなのか、それとも新型コロナのせいなのか、その両方なのかは判然としない。そのビル群の1棟の中に白木仁教授の研究室がある。

ドアを開け研究室の中を覗くと書棚に入り切れない書籍や雑誌、さらに3つのキャディバッグとクラブや記念品がところ狭しと床を占領し、大きなディスプレーを備えた教授のデスクはその奥に辛うじて場所を確保しているように見えた。しかし、なぜか乱雑な印象は受けない。無造作に平積みされた資料もそれなりの項目ごとに分類されている様子なのだ。聞けば、この3月末には教授から名誉教授になるため、この研究室から去るとのこと。「この膨大な荷物はどうするのだろうか」などとつい余計なことを考えてしまった。

教授として行う最後の講義の資料の一部を見せてもらった。学長をはじめとして教授陣も聴講生として出席するというその最後の講義は、あたかも優れたスポーツ選手だけに許される引退試合のようなものである。日本のスポーツ界の近代化を、とりわけコーチングとトレーニングの世界を革命的に変革し、牽引してきた存在なのだから、それにふさわしい引退試合になるに違いない。

自分のケガを通して解剖学への興味が湧いた


白木は1957年1月、北海道帯広に生まれた。アイススケートのメッカである。白木もウィンタースポーツのほとんどを子供のころから経験した。成長するにつれ、白木は陸上競技にのめり込んでいった。のめり込めばのめり込むほど、高校時代はたびたび体を壊し、整形外科医の世話になった。持って生まれた体の筋肉量が多過ぎたのが、その原因だったと白木は考えている。

「今考えれば、あれは遺伝的なものなんですね。叔父さんも筋肉質でしたけど、僕も高校3年のときには、胸囲が1メートルもあるムキムキの体でしたから」と白木は振り返る。

これが白木にとって体について研究しようと考え始める原点になった。自分の怪我を通して「それだったら体を治す研究をしてみたい」と考えたのだ。

筑波大学は東京教育大学を閉鎖して、その後継として発足した大学だ。東京教育大学は1973年に募集を停止、同時に筑波大学が発足。東京教育大学が1978年に閉学するまで両大学が併存する状態になっていた。白木が高校を出て筑波大学に籍を置くようになったのは、そんな時期と重なる。

それまで東京教育大学には推薦入学の制度はなかったが、筑波大学は全国から優秀なスポーツマンを集めるため、その制度を導入。とりわけ陸上競技は種目を問わずチャンピオンを集めた。

インターハイのランキング10位の白木も推薦の道を探ったが「10位なんて問題外。『こりゃあ、参った』と思いましたね(笑)」とのことだった。

一般入試で筑波大学に入った白木は、「この大学は勉強をしない」と思ったという。文京区に本部を置き、東京師範学校から100年もの歴史を持つ東京教育大学から、片道3時間もかかる筑波大学に来る先生は稀だったから、勉強する機会も少なかったのだ。

2年の教養課程を経て白木が専門として選んだのは解剖学だった。京都大学霊長類研究所から来ていた岡田守彦教授から教わった人間の骨と筋肉の知識は、白木のその後のベースになった。

「先生は猿が専門だから、人間の進化がどうなっているのかを話してくれて『まだまだ人間も未熟だね』なんて話はむちゃくちゃ面白かったです。『こんな面白い世界で飯が食えたらいいな』と思いましたけど、そんな甘いものではなかったですね」と白木は懐かしそうに青春のひとコマを振り返る。

冬の寒い日だった。白木は200メートル走の練習を30、40本と繰り返していた。そしてひざが悲鳴を上げた。剥離骨折である。

学内に保健センターがあって、そこに整形外科の先生がいた。

「先生、どうなっているんですか、この足は。もう走れないんですか?」と聞くと「もうダメかもしれない」とつれなく言われた。

いろいろな話をしているうちに、先生は「そうか。体育科のやつらはそんなことを考えているのか。じゃあ、いい人を紹介するから」となった。それが日本におけるスポーツ医学の先駆けでもある福林徹教授だった。

その福林教授が縁となり白木は当時28歳だった西武ライオンズのエース、工藤公康と出会う。工藤は肉離れの相談で福林を訪れていたが、「肉離れなら白木くんだろう」ということになり、ここから長い付き合いが始まった。ちなみに福岡ソフトバンクホークスの監督を辞した工藤は、今年2月に筑波大学大学院の博士課程に合格したことが報道されている。

スポーツ医学のことなどさっぱりわからなかった白木は、「先生、どんな本を読んだらいいですか?」と質問したところ「本はないな。あるのは英語の本ばかりだぞ」と言われた。そのころテーピングというものが日本に入ってきたが、取り扱っていたのはソニーが出資して設立したソニー企業という会社だった。そこに白木の先輩がいて「忙しいから手伝ってくれ」という話になった。

テーピングを施すためには解剖学の知識が必要。岡田教授から解剖学を叩き込まれていた白木はテーピングにのめり込んでいった。

テーピングの第1回講習会に出た白木は「ここを止めたらダメなんじゃないですか?」と解剖学の知見から質問すると「いいところを突いて来るね」と褒められた。

「テーピングは決して魔法の杖じゃないことをわかってほしい」という講師の言葉は、今も白木の胸に刻まれている。

「僕は怪我から立ち直ったという美談はあまり好きになれないんです。そもそも怪我をさせずに、その選手のベストパフォーマンスを引き出すのが、僕らの仕事なんですから」と白木は言う。

白木は98年の長野五輪でスピードスケートの金メダリスト、清水宏保のトレーナーを務めた。その後、00年のシドニー五輪、04年のアテネ五輪では、シンクロナイズドスイミングのトレーナーを務め、メダル獲得に貢献した

ノーマンの打球音を聞いてゴルフに対する見方が変わった

話は前後するが、白木がゴルフと出合ったのは20歳のときだ。陸上部の先生がゴルフの授業をやるので手伝ってくれと声を掛けてきたのがきっかけだった。

白木のゴルフに対する最初の印象は「こんなもの何が楽しいのだろう」だった。打ってみた。飛距離の数字は不明だが、とにかくよく飛んだ。

「こんな簡単なのに何を苦労しているのか?」と思った。だが、実際にコースに出て愕然とした。

パー4で2打目は残り30ヤード。それを100ヤードも飛ばしてOBにした。「なんじゃこりゃ!?」と思ったという。

「陸上競技をやってきて、スポーツなんてみんな同じだろうという単純な発想だったんです。『これはできない』と思ったんですけど、だんだんとイメージが湧くようになってきて、『こりゃ面白い』に変わりました。大学院ではゴルフに夢中でしたね」

ハンディキャップは2まで上がり、クラブ対抗戦の選手にもなった。だが、白木がアマチュアの競技ゴルフにハマることはなかった。

大学から近い茨城GCで開催された1982年のダンロップ国際オープンで見た、グレッグ・ノーマンに衝撃を受けたのだ。

打球音を耳にして「ゴルフでもこんな世界があるんだ。今まで僕がやっていたゴルフとは何だったんだろう」と白木は思った。

「火曜日の朝何時から練習なんて言われても、僕が大学院の2年生のときは先生だったわけで、休まないとゴルフには行けない。何か辞める口実はないかと思っていたところに、オリンピックの話が舞い込んできたんです。94年のリレハンメルと98年の長野です」
 
91年、名城大学からスポーツ医学講師として古巣の筑波大学に戻ったときに陸上部の先輩でもある市村操一名誉教授(スポーツ心理学)から「これからゴルフも教えるのだから英国のゴルフ場くらい知っておいたほうがいい」とスコットランドへの旅に誘われた。

ゴルフの聖地、セントアンドリュースをはじめ、さまざまな名門コースを巡って「これぞスポーツの起源なんだ」と感じた。

その後、1人でスコットランドを旅したこともあった。1860年に第1回全英オープンを開催したプレストウィックを訪れたことが、忘れられない思い出になっているという。

「プロショップに行って『日本から1人で来たんですけど』と言うと、『ちょっと待ってろ。もうじきメンバーが来るから、そうしたら一緒にスタートしたらいい』と言うんです。それでメンバーと勝負して勝ってビールをおごってもらいました。日本では考えられないことですよ。日本に帰ってきて、スタート時間は何時、4人揃わないとダメ、これが日本のゴルフなんだと思いました。市村先生のおかけで視野が広がりました」

練習場でタイガーに会った。勇気を出して話しかけた

片山晋呉と出会ったのもこのころだ。ノーマンの豪快さはないものの、球を操るテクニックを見て「これはセンスのゴルフだ」と白木は思った。片山とはスタッフとしてマスターズにも同行した。

「スタッフだとどこにでも入れるんです。練習場に行くとタイガー・ウッズがボールを打っていて、『見ていてもいいか?』と聞くと『ノープロブレム』と。それで『撮ってもいいか?』と言うと『OK』なんですよ。全盛期のタイガーを目の前で見られた。これは僕の財産です」

なぜ財産なのかは後述するが、選手を自分の目で見るというのが、アスレチックトレーナーにとっては必須なのだと白木は言う。

片山は高校生のときから白木のもとでトレーニングを積んでいて、白木も片山の合宿に同行することもあった。

「僕が『ちょっと世界選手権に行って来る』とか『今度はオリンピックだ』なんていう話をすると『先生、オリンピックってそんなにすごいんですか?』というから『すごいよ』と言いました。当時、ゴルフはオリンピック競技じゃなかったから晋呉にとっては夢でしかなかった。それがリオ五輪で実現して『晋呉、オリンピック選手になれたね』と言ったら『はい』と嬉しそうでしたね」

片山晋呉のトレーナーをしていた白木は、マスターズにも同行している。「晋呉は運動神経はそれほどでもなかったですが、反復練習だけはすごかった。同じことを続けられることも大きな才能です」

スポーツは“生”で見なければ体の動きも使い方もわからない

白木とJGA(日本ゴルフ協会)の関わりは、前出の福林教授がドーピング委員長で、その補佐を頼まれたのがきっかけだった。そこからナショナルチームに関わるようになるのだが、「チームには絶対コーチが必要だ」というのが白木の主張だった。その主張が叶ったのが、2015年、オーストラリア人コーチのガレス・ジョーンズの招へいだった。

「ある女子選手のスウィングを見て、ちょっと変えたほうがいいなと思って、ジョーンズにそのことを言うと『僕もそう思う。でも、ゆっくりやりましょう』と言ったんです。こいつは信頼できるやつだと思いましたよ」と白木はジョーンズを高く評価している。

ナショナルチームには吉田優利のようにコーチ(辻村明志)がついている選手もいた。そういう選手には軽く接するだけで、「あとはコーチと相談してね」というスタンスだ。ときには、コーチの相談に乗ったりすることもある。

「ジョーンズは賢いんですよ。ある意味、日本人以上に日本人を感じてしまうほどです」と白木。

「なぜ僕が外国人コーチにこだわったかというと、日本人コーチでは選手が優秀な外国人選手と接する機会が減ってしまうからなんです。これは他のスポーツにもいえることなんです。ジョーンズはイギリス出身のオーストラリア人でアメリカでも学んでいます。彼がチームを連れて行けば、面倒な手続きなどなく、海外の選手たちと交流できるんです」

JGAのトレーナーを務めていた当時から外国人コーチの必要性を訴えていた白木。15年にガレス・ジョーンズを迎え、チーム強化は飛躍的に向上した。写真は金谷拓実のスウィングデータを計測しているときのもの

白木がナショナルチームに関わってから畑岡奈紗、古江彩佳、西村優菜、安田祐香などが、男子は金谷拓実、久常涼などが巣立っていった。間もなく筑波大学の教授から名誉教授になり、いわばフリーとなる白木だが、ナショナルチームのトレーナーは続けていく。

「名誉教授になって大学とつながりはあっても、給料はもらわないから何をやってもいいという立場になります。選手を育ててみたいから、ツアーの現場に行ってもいいし、意見が合うなら誰かのコーチをサポートするのもいいかな」

ただ、後進を育てるのは難しいと白木は語る。

「トレーナーというのは、いわば無形文化財みたいなものなんです。自分の感性というものは伝授できません。目の前で動いている選手を“生”で見たときの空気感というものを、タイミングであったり、音であったり、どこからどんな順番で動き出しているのかとか、そういうものは、生で見ないとわからないからです。ユーチューブを見ても絶対無理です」

ノーマン、工藤、スケートのアスリートたち、片山、タイガー、そしてナショナルチームのメンバーたち、それを“生”で見てきたことが白木の財産なのだ。

「この子はまだ粗削りだけど、光るものを持っているというのはいっぱいいます。楽しみですね」と白木は微笑んだ。(文中敬称略)

週刊ゴルフダイジェスト2022年3月15日号より