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没後20年。伝説のアマチュア「中部銀次郎」とはどんな人物だったのか。“言葉”とともに振り返る

今年も12月14日がやってきた。知る人ぞ知る中部銀次郎の命日である。その命日には、彼が会員であった東京GCで中部を偲ぶコンペが「シルバークラブ」(後述)の仕切りで、克子夫人、子息の隆も交えて行われる。その偲ぶ会も今年で20回目。つまり、中部が没して20年経ったわけで、中部の生前を知る人はめっきり少なくなった。そこで、中部銀次郎とはどんな存在だったのか、改めて記しておきたい。

文/古川正則(特別編集委員)

日本アマ6勝は史上最多

中部は、1942年(昭和17年)、山口県下関市で大洋漁業(現マルハニチロの前身)の創業家系で、大洋漁業副社長の利三郎の三男として生まれる(兄・一次郎も後に日本アマ優勝を果たすゴルファー)。小さい頃は虚弱体質で、父親から散歩がわりにとゴルフを勧められ、会員だった門司GCへ通うようになる。その後、父親が理事長を務める下関GCへ移り、そこで天賦の才を開花させ始める。下関西高2年のとき、大学生に交じって関西学生に優勝し、一躍その名を知られるようになった。

甲南大学に進み、2年生のとき(1962年)史上最年少で日本アマを初制覇。64年には2勝目。その後、社会人となりサラリーマンとしての本業と並行して、66年、67年、74年、78年と勝ち、史上最多の6勝を挙げている。日本アマの1カ月前になると、好きな酒を断ち、友達づき合いもやめてモチベーションを高めていったという。1967年にはプロトーナントだった西日本オープンにも勝ち「プロより強いアマ」と称された。しかし、プロに転向することはなかった。

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実はアマとして貫き通した理由は、1960年、米国メリオンGCで行われた「アイゼンハワートロフィ」に出場したことにあった。

同大会はアマゴルフの国別対抗戦で、中部は日本代表ナショナルチームの一員として参戦したのだが、米国代表には2年後プロ入りし、全米オープンを勝つことになるジャック・ニクラスがいた。そこで中部が見たのはニクラスの底知れないパワーだった。ティーショットを深いラフに入れたニクラスのボールを、中部は「刻むしかないな」と思ったそうだ。しかし、ニクラスは3番アイアンで高い球を打って、こともなげにグリーンオン。ロングアイアンは日本人には打ちこなせないといわれていた頃である。そのショットを見て、中部は「自分は世界で戦う器ではない。井の中の蛙でもいい。そのなかでトップになろう」とアマを貫く決心をしている。

米国の団長は生涯アマでマスターズを創設したボビー・ジョーンズ。レストランのランチョンマットに2人のサインをもらい、裏に18歳の自分の名前を書いた。そのマットは今、JGAゴルフミュージアムに掲げられている。

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中部は中学生の頃から人と会うと照れて緊張する赤面症だったという。大人になるとそこまでではなかったが、照れ屋の気質は変わらず、現役の頃は無口で記者のインタビューも容易ではなかった。孤高の雰囲気を身にまとい、近づきがたかった。

しかし、1980年代に入ると、マスコミへの露出も徐々に増えてきた。そこで中部を慕う者たちが自然発生的に集まり、1984年、結成されたのが「シルバークラブ」である。会員たちは、昼は中部とラウンドし、ピュアなプレースタイルに触れる。夜の酒席で中部は饒舌で、何よりその「言葉」は含蓄に富んでいた。

プレーでは背筋を伸ばし、スピーディに歩く姿は凛として、何より所作にムダがない。他の3人のあちこちと曲がるボールの行方を、正確に言い当てた。プレー中の助言はその人が求めない限り発しなかった。

同会は中部が没した2001年からは子息の隆の仲間たちも加わるようになった。同会発起人の1人でもあり、ブリヂストンスポーツで中部にアイアンを提供した田中徳市(現法政大学ゴルフ部監督)は「死ぬまでやります」と永久幹事を宣言。

酒はなみなみと注がないのが中部流だった

酒席といえば新橋の小料理屋「独楽」を忘れてはなるまい。中部は、43歳から没する59歳まで週に4回、年にして200回を超す夜をこの酒場で過ごした。

きっかけは当時の小誌編集長と、そのOBのゴルフライター、杉山通敬に連れてこられたこと。1985年のことだった。その日、いったんは3人で帰ったが、中部だけ戻って来て夜中の2時まで飲み、その翌日から“独楽詣で”が始まった。

店主は中部の1歳下の飯島昌雄。大学を卒業し、ヨーロッパを放浪した後、母親の店を受け継いだ。客におもねらず、暖簾も出さず、入っても「いらっしゃい」の声もかからない。「偏屈と偏屈でウマが合ったのだろう」と昌雄は笑う。

中部の定席はいちばん奥。背筋を伸ばし、箸置きに置かれた箸は体にスクエア。タバコの吸い殻は一様の長さに並べられ、スラックスのクリース(折り目)は平行。つまりスウィングでのアドレスと一緒。

「ふだんからやっていなければ、ゴルフのときだけでできるわけがない。ゴルフの神様はアドレスに宿るんだよ」

ときには実演編も。担当編集者の頭を壁につけ、シャドースウィングさせた。軸が体感できるからだ。

杉山通敬はじめ、各社の編集者が訪れ、中部のゴルフ哲学が開陳された。中部には30冊を超える著作があるが、たいていはここでの会話なり、ふと表現した言葉なりがライター、編集者のなかで醸成されて結実したものが多い。

「起こったことに鋭敏に反応してはいけない。やわらかくやり過ごす」

「すべてのことを、あるがままにうけいれる」

「最悪を覚悟して、最善を尽くす」

「すべてのストロークは等価である。大事でない1打などありえない」

「最少スコアは目指さない。目指すのは最小限に収まるスコア」

「言い訳はしない」

「プレー中、余計なことは言わない、しない、考えない」とは店主の顔を見ながらいった記憶がある。

その独楽も2018年師走をもって閉店した。毎年、中部の命日には小雨そぼ降るなかでスウィングする遺影――写真家・立木義浩が撮影――の前に小ぶりのコップが置かれた。「酒をなみなみ注ぐと品がない」と言った中部の言葉通り、コップには常温の日本酒が3分の2くらい入っていた。最後の年には子息、隆が父親の定席に座り、店に別れを告げた。隆の後ろにはシルバークラブでの優勝者の名を刻むカップが置かれた。隆は言う。「父親が後半生、メディアの力で著作が世にでたのは嬉しいのですが、あまりに神格化され、本人は窮屈だったのかも知れません。『ゴルフ場で立ちションもできなくなった』と、苦笑していたこともありましたから」と、59歳で鬼籍に入った父親を偲んだ。

息子・隆も「独楽」ではカウンター奥、中部の指定席に座った。後ろに見えるのが「シルバーカップ」の杯(2018年12月14日、撮影・宮本卓)

アマチュアがバーディを狙うと
ゴルフが“さもしく”なる気がする

中部は「アマチュアゴルフ」を生涯追求した。では、プロフェッショナルのゴルフとどんな違いがあるのだろうか。中部がそのときどきにつぶやいていた言葉を以下に――。

「ピンは狙わない。ピンを狙うのはプロの仕事だ。アマはグリーンの真ん中に乗せて2パット、つまりパーがアマゴルフの正統で、バーディを狙うとゴルフが“さもしく”なる気がする」

「クラブに鉛を貼ったりの細工はしない。バンカーショットでもサンドウェッジを開いたりしない。それはプロの仕事。クラブの設計された通りの機能を使う」。使っていたネーム入りのブリヂストンレクスターは「独楽」の飯島が1セットもらったが、そこには何の細工も見られない。そのクラブもJGAゴルフミュージアムに飯島が寄贈し、陳列されている。

「練習場へ持っていくのは3番アイアン1本。自分のアドレスに合い、チェックもできるから」

「パー3ホールで持って上がるのは使用する1本だけ。2、3本持っていってもムダ。プレーに時間がかるだけ」。プレーファストがアマゴルフの要諦だともいっていた。

遠くから見てもすぐに中部とわかる。背筋を伸ばし、スッスッと歩く

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最後に、小誌へ中部が登場した経緯を紹介しておこう。

1984年夏、作家の三好徹との連載対談が小誌への初出。三好は博覧強記で、ゴルフも理論から入り、ゴルフでのあらゆる事象を分析して、中部にぶつけた。編集部の意図通り、その内容はゴルフの深淵に迫っていた。その続編として『わかったと思うな』が長期連載となり、その頃から出版界は中部ブームとなっていく。その後も劇画『銀のゴルフ』へと続き、小誌から“中部”が途切れることはなかった。『銀のゴルフ』は、子息の隆が経営する造船会社が2013年から、カレンダーとして復刻している。余談だが、隆は東広野GC、廣野GCでクラブチャンピオンになっていて、仕事とゴルフを見事に両立させている。

「死とはその人の記憶が途絶えたときが真の死」とも言われる。中部が他界して20年。昭和は霞の彼方にぼやけているが、少なくとも、われわれの記憶に生き続ける限り、中部銀次郎はまだ死んでいない。(文中敬称略)

週刊ゴルフダイジェスト2021年12月28日号より