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“脱サラプロ”の先駆け。初代レッスン・オブ・ザ・イヤー田原紘氏逝去

KEYWORD 田原紘

かって「レッスン界の寵児」と呼ばれた田原紘氏逝く。79歳だった。

氏が注目されたのは、そのゴルフ人生の異色さだった。昭和17年、東京生まれ。立教大学を卒業後、伊藤忠自動車に入社。サラリーマン時代は、セールスマンとして販売台数の新記録を作ったほど優秀だった。

その頃は卓球をやっていて、東京都代表クラスの選手だった。と、ここまでは大卒のサラリーマンとして“順調”だったが、氏の人生が一変するのは25歳で初めてクラブを握ってからだ。わずか1年2カ月でシングル入りすると、そのまま退社してしまう。今でいう“脱サラ”だが、そんな言葉が普及する少し前の話だ。

中村寅吉の実弟である定吉プロに師事し、クラブを握ってから6年目の31歳で、ついにプロテストに合格。ツアーにも参戦し、79年、「KBCオーガスタ」で2位。台風で最終日は9ホールで終了したが、このとき優勝を争ったのは、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった青木功。「青木は別格だから勘定に入れずに。2位なら自分のなかでは“優勝だよ」と筆者に笑って言っていたのを思い出す。

97年、全豪シニアオープン優勝、そして98年~00年は欧州シニアツアーにも参戦した。遅咲きの花を咲かせたのである。

しかし、特筆されるのはレッスン界での実績だ。脱サラプロの日常にある道具などを使ってのレッスンは、アイデア満載で、小誌も連載で取り上げた。そのときの担当は筆者で、ハンガーを使ってフォローでのリストターンを実践させられたものだ。

87年、小誌が立ち上げた「レッスン・オブ・ザ・イヤー」の初代受賞者にもなった。以来、テレビ、雑誌などのメディアに引っ張りだこ。レッスン本、ビデオ、DVDなどを含めると100点を超え、販売部数は累計200万部に及んでいる。

氏から書籍出版を打診されたとき、小社では当時書籍の発行は休止していたので、ある出版社を紹介した。そして出来上がったのが、『ゴルフ下手が治る本』、氏初の単行本だった。

お会いするたびに「今日あるのも、あのレッスン賞のおかげだよ」と感謝を口にされていた。

ゴルフの愉しさを多くの人に広めた田原イズム。また昭和10年代が去っていった。合掌。(特別編集委員・古川正則)

日常のものを利用した分かりやすいレッスンで多くのゴルファーを開眼させてきた(PHOTO/Yasuo Masuda)

週刊ゴルフダイジェスト2021年10月26日号より