【ゴルフせんとや生まれけむ】柴田 勲<後編>「自主トレと称してゴルフしてました」
ゴルフをこよなく愛する著名人に、ゴルフとの出合いや現在のゴルフライフについて語ってもらうリレー連載「ゴルフせんとや生まれけむ」。今回の語り手は、前回に引き続き、元プロ野球選手の柴田勲氏。
ゴルフを始めてすぐに70台で回れるようになった僕は、野球のシーズンが終わると毎年ラウンドを重ねるようになりました。
自主トレをゴルフ場でしたこともありました。僕が最初にゴルフを教わった方が鹿野山(ゴルフ倶楽部)のクラブチャンピオンだったので、その方の紹介で会員権を買いました。当時は東京湾アクアラインがまだありませんから、川崎から木更津までフェリーで行っていました。鹿野山には当時、泊まれる施設があって、土井(正三)と末次(利光)と3人で行って、自主トレと言いながらゴルフばかりしていました(笑)。
そのときちょうど青木(功)と鷹巣(南雄)と金井(清一)さんが合宿をしていました。青木が鷹巣にスウィングを見てもらいながらドローをフェードに直している姿を目の当たりにしました。彼らと一緒に回る機会もありました。
僕はプロ野球選手になって最初にコマーシャルに出演したのがペプシコーラでした。ペプシはその後、男子トーナメントを主催しましたから、プロアマに何年か連続で出場しました。中嶋(常幸)や友利(勝良)と一緒に回ったこともあります。男子プロとはいろいろと縁がありましたね。
女子プロとも縁があります。リゾートトラスト創業者の伊藤(與朗)さんとは実はお互いが独身時代からの知り合いで、リゾートトラストレディスのプロアマには毎年のように出場しています。今年は植手桃子選手と同組でプレーしました。
メイプルポイント(ゴルフクラブ)は開場と同時にメンバーになりました。僕は当時、別のゴルフ場の研修会に入っており、クラブ競技にも出場していたんですが、メイプルポイントから「研修会に入ってください」と誘われました。そこで別のゴルフ場の研修会を休会し、メイプルポイントの研修会に入りました。そしてクラブチャンピオンを3回取りました。
そうしたら今度は「山梨県のクラブ対抗に選手で出てくれませんか」とお願いされ、関東クラブ対抗にも出場しました。山梨県予選を通過して全国大会に出場したこともあります。
順風満帆なゴルフ人生を歩んでいるように見える僕ですが、実はアプローチイップスで50年悩んでいます。何が原因か分からないのですが、最初はバンカーイップスから始まりました。バンカーが一発で出なくなり、いろいろ考え始めたらバンカーが怖くなりました。それでバンカーを避けるようになると、アプローチをする機会が多くなりました。そしてアプローチでも手が動かなくなりました。そんな弱点を知ったうえで、ゴルフ仲間は僕をカワコク(川崎国際生田緑地ゴルフ場)に連れて行きます。あそこはグリーンが小さくて砲台なので、寄せ合戦になるんですよ。僕はカワコクでは1回しかエージシュートをしたことがありません。エージシュートは76歳のときに75で回ったのが最初で、そこから6~7回していると思いますが、回数に執着がありませんので数えていません。ホールインワンも3回やりましたが、あまり覚えていないんですよ。
柴田勲
1944年、神奈川県生まれ。法政二高では60年夏の甲子園、61年春の選抜で優勝。62年、投手として巨人に入団。強肩俊足を生かして外野手に転向し、日本初のスイッチヒッターとなる。盗塁王6回。81年の現役引退までに2018安打を記録し、名球会入り。
週刊ゴルフダイジェスト2022年9月6日号より