【対談】神津善行×樋口久子<後編>「最初は試合をやっても話題にもなりませんでした」
週刊ゴルフダイジェスト
先月、週刊ゴルフダイジェストで連載最終回を迎えた「神津善行のゴルフ桟敷 〜そっとのぞいてみてごらん」。ゴルフ歴70年以上の神津氏は、樋口久子プロが砧ゴルフ場で練習していた高校生の頃からのご縁。今回は「ゴルフ桟敷特別編」として、砧ゴルフ場があった頃、まだ女子プロ協会のない時代の話を2人に語ってもらった。
TEXT/Junko Ogawa PHOTO/Takanori Miki

樋口久子 昭和20年生まれ。埼玉県出身。JLPGA顧問。1967年女子プロゴルファー1期生。第1回日本女子オープン、第1回日本女子選手権優勝に始まり、国内69勝、賞金女王11回。77年全米女子プロ優勝
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- 先月、週刊ゴルフダイジェストで連載最終回を迎えた「神津善行のゴルフ桟敷 〜そっとのぞいてみてごらん」。ゴルフ歴70年以上の神津氏は、樋口久子プロが砧ゴルフ場で練習していた高校生の頃からのご縁。今回は「ゴルフ桟敷特別編」として、砧ゴルフ場があった頃、まだ女子プロ協会のない時代の話を2人に語ってもらった。 TEXT/Junko Ogawa PHOTO/ Takanori Miki 神津善……
中村寅吉さんに教わったこと
神津 僕はね、寅さんに仲良くしてもらえて、ゴルフをよく教えてもらってました。
樋口 ええ、ええ。中村先生は教えるの好きでしたからね。
神津 僕は教えてもらうと大体ダメになるんです(笑)。
樋口 すぐにはよくならないんですよ。先生に教わったことをずっと頭に入れながら練習していると、だんだん良くなっていく。あ、こういうこと言っていたんだなって、後でよくわかるんです。
神津 “あんたにそんなもん教えたってダメだ”って言われましたね。“そうですか”って返すと“そうですかって言うなよ”って(笑)。
樋口 先生は口は悪いけどすごく先々を考えて教えてくださるんです。
神津 いい人でしたよ、とっても。でも、当時のプロの苦労は本当にえらいなと思いますよ。
樋口 そうですね。あの時代は男子プロが先生に聞くことはあんまりないですからね。手取り足取りなんて教えてくれませんよ。“見て盗め”っていう時代ですから。
神津 ええ。
樋口 先生に最初にお会いしたのは高校生の時だったから、もう近寄りがたくて。でも、高校を卒業するとき“プロになるんだったら俺のところに来い”って言ってくれて、川越CCに入社したんです。すごくかわいがってもらいました。
神津 それはいいですね。
樋口 先生は川越CCの社長だったから、東京のご自宅から週に何回か来るんです。先生が来る日は“チャコちゃん、あと30分くらいで着きますよ”って奥さんから電話がかかってくるんです。私が(川越の)家の外に立ってると、車で来てくれて。通り道だからとゴルフ場に乗せて行ってくれました。
神津 ほお。
樋口 川越CCではグリップの握り方から教えていただいて。自分と先生で作り上げたのが私のスウィングです。誰も真似できない。先生が教えてくれた時に、早く身に付けようと思ったんです。頭で理解しても、実際に打てなきゃしょうがないから、人より何倍も練習しました。
神津 そうですか。
樋口 帰る時も先生が乗せてくれるんですけど“いい加減にしろ。俺はもう帰るぞ”って言われるくらい練習をしていたんですよ。女性だったということもあると思いますけど、先生は本当に近寄りがたい方で、男子が技術を聞くこともできない時代に私は教えていただいた。ラッキーだったと思いますよ。
神津 うん。
樋口 先生とほかのプロや研修生と一緒にコースを回ると、男子はみんな一言も聞かない。“どうやってやるんですか?”とは聞かずに、先生が打ち終わった後の足跡に立って、こういうことなんだというのを理解しながらやってましたね。
【中村寅吉プロ】1915年〜2008年。1957年霞ヶ関CCで開催のカナダカップに優勝しゴルフブームを巻き起こした。砧ゴルフ場所属だった。写真は1967 年に錦ケ原CCさくら草Cで開催された関東プロにて中村寅吉プロのキャディを務める樋口プロ

神津 樋口さんの打ち方についての本なんかを読んで、僕が真似したら全然ダメでしたね。
樋口 たくさんボールを打って身に付けてるスウィングですからね。ほかの方がちょっとやってもなかなかできないですよ(笑)。
神津 それでも40台くらいは出てましたけど、そのくらいがゴルフが面白いなっていうことを感じてました。自分で考えた打ち方で球を打っていくっていうのができてればゴルフを楽しめるなって。
樋口 そうですね。楽しいですよね。40台で回ったら次はもう30台が出るんじゃないかと思って……そして翌日すぐダメになって。
神津 そうですね。その積み重ねですよね。
樋口 ええ。悪くなった時にどこが悪いのか自分でわかるようになればいいですね。
神津 樋口さんの打ち方は“スライス打法”じゃなくて……。
樋口 スウェイ?
神津 ああそれ。
樋口 よくスウェイスウィングって言われたんですけどね、絶対スウェイはしてないんですよ。アドレスして横に動くのがスウェイ。私は中に入るくらいなんですよ。横には絶対動いてない。
神津 ああ、そうか。こういうふうに(とスウィングを真似る)なってますもんね。
樋口 中村先生が“上体をもっと動かせ、もっと動かせ”って言ってたから上体はすごくひねってるんですよ。だけど下半身は絶対横に動いてない。だからみなさんスウェイっていうけど違うんです。
神津 スウェイは間違いなんですね。
樋口 そうです。
神津 僕はその間違いを信用してやってたんですね……。
樋口 (笑)。私はいい先生に巡り会えたなっていつも思うんですよ。ケガをすることもないし。健康な体に生んでくれた親にも感謝なんですけど、スウィングしていても腰が痛いとか手首が痛いとか一切ないんですよ。プロとしてもう60年ゴルフやってますけど、今でも週に2回は回ってますしね。
神津 今でも週2回ですか。
来年は女子プロ協会60周年
――1967年日本プロゴルフ協会女子部として始まり、74年に独立した日本女子プロゴルフ協会は来年で60周年。樋口プロが川越で修業をしていた頃は女子プロゴルファーというイメージがあまりなかったのではないですか?
樋口 そう、何もないですよ。女子の先輩たちがゴルフ場に勤めていて、ゴルフが好きでやってたんですよ。仲間が集まって、研修で月に2ラウンド回るときもありましたよ。早くプロとして認めてもらわなきゃいけないと、中村先生に一生懸命働きかけたんです。女子部設立は私が高校卒業して4年くらい経ってからですよ。
神津 試合をしても賞金がなかったとか?
樋口 67年に協会(女子部)ができて、試合をやらなきゃと68年に第1回日本女子オープンと日本女子プロ選手権の2試合をやったんです。(日本女子プロ)選手権は賞金総額が45万円で、優勝が15万円でした。
神津 おお。
樋口 日本女子オープンはTBSさんがスポンサーで賞金総額50万円。優勝はいくらだったかな。覚えてないですけど、私が高校卒業して初任給が1万3500円ですから、優勝して1年間分の稼ぎくらいもらえたわけですよ。
神津 女性のプロスポーツという意味では大きな一歩でしたよね。
樋口 そうです。第1回日本女子オープンは12月で雨が降ってて寒くてね。今はグリーンにローラーかけたりするじゃないですか。でもこの頃はバスタオルで水を拭き取ってたのを覚えてます。最近は12月でも暖かいですけど、昔は寒かったですよ。清元(登子)さんが首にタオルを巻きながらゴルフしていたことも覚えています。
神津 そうでしたか。
樋口 68年の日本女子オープンで初めてアマチュアと一緒に試合をやったんですが、その頃はゴルフをやっている女性は少なくて、上流階級の方が多く、「プロと回るのは嫌だわ」って言われました。
神津 (笑)。プロの側としては絶対に負けたくない状況ですね。
樋口 そうですよ。初めてのオープン競技ですから、絶対アマチュアには負けられないと思いながらプレーしていました。
神津 今の女子プロ界を作り上げたのは大変でしたよね。
樋口 最初は試合をやっても話題にはなりませんしね。私がアメリカに行き始めて、(1977年全米女子プロで)優勝してからそれが変わったんですよ。日本にも上手い女子がいるって初めて世間に認められるようになりました。 今年は15人も日本からアメリカツアーに行ってます。私の時は佐々木マサ子さんと2人だけだから日本を代表している感覚なんです。だからオリンピック代表みたいで、頑張らなくちゃという気持ちはすごくありました。今は15人も参戦しているから心強いですよね。
神津 それだけいると勝とうって気持ちも出てきますね。ゴルフっていうのは、技術のほかに精神をどう安定させていくかが難しい。天候とかで左右されたりいろいろ変わってきますもんね。
樋口 ええ、そうです。やっぱり経験がものを言います。

1965年ゴルフダイジェストに掲載されたフィニッシュ。スウィングは独学で習得するのが神津流
スカート着用プロ第1号
神津 第1回の日本女子オープンでウィニングボールをギャラリーに投げてますね。
樋口 昔はギャラリーが少なかった。コース課のおじさん2人がロープ持って右と左にいて、その後ろからギャラリーがフェアウェイを歩いてくるんですよ。で、選手が打つときになるとロープを両サイドにパーッと張ってくれて。だから昔のギャラリーってグリーンサイドでパッティングとか覗き込んで見てましたね。
神津 砧で僕のクラブを運んでくれた人が、どんどん出世していくので自慢してました。
樋口 (笑)。この時代は“女はプレーが遅いからズボンでやりなさい”って言われたんですよ。私がアメリカに行くとき、みんなどんな格好してるんだろうと調べたら、スカートやキュロット、ショートパンツなんですよ。だから日本で作ってアメリカに行ったんです。
神津 なるほど。
樋口 日本で試合のない3カ月間だけアメリカのツアーに参戦して、帰ってきてスカートはいて選手権に出たんです。そしたらみんなびっくりして、その後真似するようになりました。
神津 そうでしたか。
樋口 それにアメリカでいいなと思ったのは、やる気になればいくらでも練習できるの。チップショットでも何でも。日本はまだそういう環境ではなかったですから。
神津 プロになってお客さんに見られるのはどうでしたか?
樋口 私はプロ意識がすごく強かったと思います。少し名前が知られてくると、わざわざ見に来る人がいる。そこで変なショットはできないし、一緒に回る人にも見せられない。だから今でもいつでもゴルフは真剣にやってますよ。
神津 女子の試合も開幕しましたし、これからのゴルフ界がもっと良くなっていくといいですね。

1969年に越谷GCにて行われた第2回TBS女子オープン(現日本女子オープン)で優勝の樋口プロ。第1回から数え、計8回の最多優勝の記録を持つ
週刊ゴルフダイジェスト2026年3月24日号より


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