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【野性塾】最終回「39年間のお付合いに感謝致します」

KEYWORD 坂田信弘

古閑美保、上田桃子など数多くの名選手を輩出してきた坂田塾・塾長の坂田信弘が、昭和60年から続けてきた連載「ゴルフ野性塾」の最終回。

前回のお話はこちら

頑固一途な
肥後もっこす

であったと思う。
私は熊本市十禅寺町に生れ、8年間を十禅寺で過し、市内九ロ寺で4年間過し、日吉小学校、白川小学校に通い、出水中学近くの堀の内団地で中学時代を過した者であります。
私の父は和菓子職人で店3店舗持っていたが、友人の保証人倒れで倒産した。
家族6人は大阪へ逃げた。
私が中学3年生、12月24日、クリスマスイブの夜汽車だった。

夜逃げした者が働ける場所は少ない。
父と母と中学3年の私はスコップ一本の働きの世界に入った。
苦しくはなかった。
辛くもなかった。
父と母と共に同じ現場で働ける事が嬉しかった。

熊本で債権者に責められていた父と母は眼の力、虚ろであったが、兵庫県尼崎市の土木現場で働く父と母は眼が輝いていた。
父と母が若くなったと思った。
尼崎市立花の商店街、土木作業の仕事帰りに家族6人のその日の夕食の食材を買っていたが、父も母も表示してある値段で買っていた。
店の方が「おまけや」と言って購入してない食材を紙袋の中に沢山入れてくれた。
父も母も驚いた顔をした。
父も母も私も肉体労働帰りの服装だった。

「どっから来たんや?」

私への質問だった。

「熊本です」
「負けたらアカンで。いつ迄も冬やない。いつ迄も夏やない。冬の太陽と夏の太陽の位置は違うても、太陽が輝き惜しみする事はないで。だから太陽なんや。頑張れ。負けたらアカン」

父や母より年上の方と思った。
父が最初に頭を下げた。
母も下げた。
私はその方の顔を見続けた。
その方は微笑んだ。

「素直な眼しとるやないか。田舎の眼やな。親と友達と生まれ育った土地が与えてくれた眼や。大事にせなアカンで」

私はその方の前に立ち続けた。
1月中旬の風はどこにいても冷たい。しかし、寒いとは思わなかった。

「これやるわ。売れ残りもんやけど蜜が入ってて旨いで。食べてくれたら売れ残りのリンゴの顔も立つっちゅうもんや」

優しかった。

「店の前に突っ立ってたら商売の邪魔や。はよ帰りィ。風邪引いたらアカンで」

一言一言が春の風のように暖かかった。

信じる人と
楽観で
生きて行け。

人は一人では生きて行けない。
その大事さを教えてくれたのは女房宣子だった。

女房とは共に同じ夢を追って来た。
世界で戦うプロゴルファー。
その時は来なかった。
結果ではない。
その意志が尊い筈だ。
生きてりゃ挫折なんて日常茶飯事の事。
失敗の数は一日の食事の数と同じ。
失敗を悔いてたんじゃ栄養失調の食生活と同じ。
振り返るな、振り返っても戻れはしない。
だったら前を向いて生きて行け、と私は教えた。
熊本塾、札幌塾、福岡塾、東海塾、神戸塾、船橋塾の子供達に教えて来た。

楽観の心は明日と今をつなぐ。
その楽観の心が作る橋は渡れる橋、と教えた。
昨日を見る心は悔いの橋、己を貢める気持ち、己のこれ迄を否定する気持を生む。
悲劇の心が生じる。
悲観の心が作る橋は昨日と今をつなぐ橋。その橋は渡れない橋、と教えた。
楽観の心で球を打て、楽観の心で今を過せ、と教えた。
夢は楽観の橋の彼方に在る。
悲観の心で打つ球は一瞬早く落ちて行く球、楽観の球は伸び行く球とも教えた。

女房と生きて来た。
夢を追って来た。
今、私の代りに私のゴルフを受けた者が夢を追っている。
お前達の目指す空は夕焼け空と教えた。
成績が悪けりゃスタートは早い。昼、太陽が頭のテッペンにいる時、18ホールは終る。
成績が良けりゃマスターズも全英も最終スタートは午後2時30分。18番ホールに来る時は夕焼け空。

夕焼け空の下で最後のパット打てるプロになれと教えた。
長い影を友とせよ、と教えた。
私は夕焼け空の下のプロになれませんでした。
しかし、楽しき日々だった。
悲しい事、苦しい事あったと思うが、総てが懐かしき想い出となっています。

私は幸運だった。
善き師と出会い、善き指導と接する事が出来た。

24歳でゴルフを始め、3カ月でハンディ3になり、6カ月でハンディゼロ、10カ月でプロテスト予選に出場し、3年と11カ月でプロテストに通った。
28歳になったばかりの時であった。
翌年からツアー参戦し、37歳の時に執筆活動を開始した。
残念ながらゴルフがゴルフ稼業になってもゴルフ業になる事はなかった。
業とゆう認識持つには年間純利益300万要ると思うが、その時は一度も来なかった。
稼業は食うに精一杯であっても続ける事の出来る状態を指し、業は看板上げて利益上げる事の出来る状態を言うと思う。
私のゴルフは稼業であった。
執筆は39歳の時から業に移った。
45歳迄は球叩き稼業と執筆業の二脚の日々であった。45歳過ぎて球叩き稼業の脚、細まり、53歳の時、ゴルフ稼業は終わった。
月日が穏やかな優しさで私の肩を叩いて来た。
組織で生きて来た人は強くも激しくも叩かれようが、一匹で生きて来た者の肩の叩かれ様に強さと激しさはない。

運が良かった。
振り返れば運が見える。
振り返れば縁が見える。
人の優しさ、寛大さ、微笑みが見える。
私は塾生達に言って来た。
信じ切れる人、一人作れ、と。
進むべき道に迷いが生じた時、信じ切る事が楽観の力となる。
社会に出たら、上司、同僚、先輩、友人、誰でもいい、信じ切れる人、一人作れ、と。
そして、その人と共に歩め、と。
然ればその日々、幸せの日々である、と。

難しい言葉は要らぬ。
はくズボン、スカートの中に入れて置く言葉が要る。
寒い時、淋しい時、ポケットに手を入れる。
言葉が指先に触る。
取り出す。
眺める。
微笑む。
そして又、ポケットに戻す。
それが再び歩き出す力となる。
信じられる人、一人、探せ。
私はその言葉、ポケットの中に似合う言葉と思って来た。

人前で叫ぶ言葉じゃない。
床の間に飾る言葉でもない。
1円玉、5円玉と一緒にポケットの中で過し行く言葉だ。
1円玉、5円玉が離れて行き、言葉だけになった時、静かに静かに一人ぼっちで過す言葉だ。
淋しいとは言わない。
悲しいとも言わない。
ただ、黙って過す言葉だ。
信じる人と生きて行け。

現在時令和6年7月1日午後12時23分。福岡の自宅にて書いております。
今、執筆業の拙きペンを置く時が来たと感じている次第です。
昭和60年5月から39年間の長きにわたりお付合い戴いた「ゴルフ野性塾」、私の体調不良により最終回とさせて戴きます。
肥後もっこすの身勝手我儘をお許し下さい。
振り返れば、日本全国、世界各国を駆け回り、読者諸兄の悩みに答え続けた日々が私の最高の宝物となりました。
読者諸兄の皆様、ありがとうございました。
お体ご自愛ください。

坂田信弘

「ゴルフ野性塾」の塾長として、39年間にわたり執筆を続けてきた坂田信弘さんが、2024年7月22日、永眠しました。この原稿は生前、塾長が読者のために書き残したラストメッセージです。

坂田信弘

昭和22年熊本生まれ。京大中退。50年プロ合格

週刊ゴルフダイジェスト2024年8月20日・27日合併号より

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