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【ノンフィクション】写真家・宮本卓「イマジネーション、そしてノック」

「ああ、この写真、宮本卓? 卓さんっぽいよね」。ゴルフ関係者なら“ありふれた”会話だ。「この写真がどうしても欲しい」と問い合わせてくる熱心な読者もいる。写真家、宮本卓の世界観は独特だ。小社の「マスターズカレンダー」の写真もすべて宮本がシャッターを切ったもの。たとえクレジットがなくても、どう見ても“宮本卓”。なぜ? ワン&オンリーの理由を聞いた。

写真提供/宮本卓

宮本卓

みやもとたく。1957年、和歌山県生まれ。神奈川大学から「アサヒゴルフ」の写真部を経てフリー。87年に渡米し、PGAツアーを主戦場に。全米ゴルフ記者協会、世界ゴルフ殿堂選考委員。2021年、拠点を東京から神戸に移す

「宮本さん、数学が好きでした?」そう尋ねると「好きでしたね」と言う。やはり、と思う。宮本いわく「数学って数字じゃないんです。どうやって解くかはイマジネーション。それがつかめたとき、“解”が得られる。あの感覚は好きでしたね」。宮本はインタビュー中に何度も「イマジネーション」という言葉を使った。ないものをイメージするのは、数学好きの得意技だ。では、宮本が大切にする“写真家のイマジネーション”とは。

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宮本とカメラとの出合いは中学生のとき。「オヤジが中古の一眼レフを買ってくれたんです。ミノルタのSRT101。でも、自分が将来写真家になるなんてまったく考えていませんでした」。和歌山の中学時代は「窓から蒸気機関車を見ていました。ああいい煙だなあとか(笑)。あとはギター。高校は進学校で、周囲は『東大だ、阪大だ』などと言っていましたが、僕は勉強はしていません(笑)」。

大学進学後「熱中したのは、専攻の化学ではなくてギター」。ライブなどで演奏をする機会も少なくなかったが「地元ではギターはうまいほうだと思っていたんですけど、東京にはもっとうまいやつがたくさんいた。ギターでは食べていけそうにないと考えていたんですが、当時、レイ・チャールズやジェームス・ブラウンなどブラックミュージックの大物がこぞって来日し、ライブをやっていたんですね。ライブハウスへの出入りもあった関係で、彼らのポートレートなどを撮らせてもらえた。思えば、最初に写真でギャラをもらったのはゴルフの仕事ではなかったですね」。

将来について悩む日々だったが「ある日、ふと開いた新聞に青木功がハワイアンオープンを制覇という記事が出ていたんです。ふーんと思っていたら、別のページに『アサヒゴルフ カメラマン募集』という求人広告が出ていて。応募したら採用。僕自身はゴルフの何たるかも知らなかったですけれど『じゃあ、来週静岡オープンに行って』と言われて。えー、ですよ。コースの歩き方もよくわからないまま撮影に出たら、ギャラリーから『ギャー』と声が上がった。なんだと思ったら、ラフにあった中嶋常幸のボールを僕が蹴っていたんです。肝を冷やしましたが、中嶋が無事優勝してくれて、心底ほっとしました。それが、その後にトミー(中嶋)の密着取材でアメリカを一緒に転戦することになるなんて、ほんとに不思議ですね」

カメラマンとして入社した83年から1年半、出版社の体制が変わり、宮本はそれを機にフリーランスになった。宮本が生涯で“月給取り”だったのは、83年から84年の約1年半だけだった。フリーになってからはゴルフ誌だけでなく、一般週刊誌の仕事でゴルフ以外の写真も多く撮っている。

85年の8月12日もそうだった。週刊誌の企画で企業の社長のポートレートを撮影する仕事。羽田での仕事を無事に終え、その足で大阪に飛ぼうとチケットを探すと運良く1枚おさえることができた。羽田を17時に出る「123便」。しかし、宮本は搭乗直前に空腹を感じた。ふと寿司屋が目に入り「ちょっと食べよう」と思いつく。チケットカウンターに行くと、運良く19時の便に変更できた。その後の123便の事故は誰もが知っているだろう。

宮本は「一度きりの人生だ。やりたいことをやる」。和歌山で機関車を眺め、テレビで「遠くへ行きたい」「兼高かおる世界の旅」を見ては「旅人になりたい」と思っていた少年は、87年に渡米を決める。20代で“世界を巡る人”になった。

21歳頃。初海外はフィンランド。「ホテル泊ではなく民家泊。『泊めてください』とお願いすると、意外と泊めてくれるんですよ(笑)」

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「オーガスタに“バッジ”で入る人に
なりたかったんです」


80~90年代のPGAツアー。「とにかくすごかった。何がって、もう何もかも」。日本の経済も良く、在米カメラマンが少なかったこともあり、仕事はあった。

「日曜に試合が終わって月曜にフィルムを現像に出して、火曜に日本に送る。週末はまたトーナメントに行く」のが日常のスタイルになった。宮本の代名詞的存在でもあるオーガスタナショナルには、渡米初年から入ることができた。「同じくアメリカで仕事をしていたプロゴルファーのハル常住がチケットをとってくれたんです。それで『よし、今度はチケットではなく(プレス)バッジで入ってやろう』と思ったんです」。プロの試合の撮影で実績を積むうち宮本は、チケットではなく“バッジの人”になった。中嶋常幸の密着取材は「まさに珍道中。当時、インターネットはありません。ゴルフ場、ホテルの住所だけしかわからず、地図を見ながら『あっちか、こっちか』って。ナビもないですから(笑)」

一方で、選手やプレー以外に宮本が心惹かれるようになったのがゴルフコースだ。一瞬の光や風で姿を変えるコースの風景を撮りため、プリントしてまとめると、宮本はあのペブルビーチゴルフリンクスに手紙と共に送る。手紙?「はい。手紙を出しました。ツテやコネもなくはなかったけれど、正面から入りました。ノックするのは勇気がいりますが、それをしないと始まらないので」。しばらく後、ペブルビーチから電話が入り「君と契約するよ」と言われた。宮本はリビエラカントリークラブでも同様に正面からドアをノックした。「小さいドアですけどね」。世界のトップにある2コースのドアが開いた。「アメリカで生きるんだから、ドルを稼ぎたいと思っていた」宮本に、日本の新聞社や出版社からではない仕事が入るようになった。

コロナ禍でもオーガスタナショナルに花は咲く。左は90年代前半、30代の宮本。上は60代になった宮本。カメラを構えた宮本もオーガスタナショナルの“風景”の一部になった

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「イマジネーションに
ピタリと合う一瞬を待ちます」

宮本が撮影したコース写真を見ていると、いかにも宮本らしい、ちょっと“あり得ない”一瞬が切り取られている。「この色は夕焼けですか?」。宮本いわく「朝の光が差し込んでこうなりました」。「写っている人はモデルさん?」。いわく「通りがかりの親子です」。「この白い波は合成?」。いわく「まさか。とても風が強い日で」。なんという偶然に居合わせる人だろうと思いきや「現場で、ずーっと待っているんですよ。それで、ここから光が差したら影がこう出る。風がこう吹いたら枝がこうなる。そうなるといいなあとイマジネーションをふくらませるんです。ふくらませるどころか『来い』と願うんです。するとね、来るんですよ、一瞬が。それをつかまえるんです」

ジャック・ニクラスはショットの際、ボールの後ろに立っている時間が長かった。「でも、準備ができたら打つのはすごく早い。ボールの後ろで完全なイマジネーションができていたからだと思います」。宮本は準備して、イメージして、願って、シャッターを切る。その写真が人の心をつかむのはごく自然なことのような気がする。

「PGAツアーの取材から撤退して、日本へ帰ろうと思ったことも何度もあるんです。するとね、何かが起きるんです。タイガー・ウッズの登場もそう。タイガーが巻き起こす渦が日に日に大きくなる。スポーツ界だけでなくアメリカ中を巻き込む様子を肌で感じました」

タイガーのメジャー優勝すべてに立ち会った写真家は、ほかにいるだろうか。男子のメジャー大会100試合、シニア、女子のメジャーを合わせれば200回もカメラを担いだ日本人写真家はほかにいるだろうか。松山英樹がマスターズで最年少ローアマを獲得してから10年、再びその場に立ち合い、優勝セレモニーに本人と同じくらいの感激と感慨を持って足を踏み入れた写真家がいただろうか。松山の表彰式に入ると、ほかのカメラマンが自然と道を空けてくれたという。「モーゼの十戒みたいにスーッと空いて『タクを前に』と言われて」。松山の真正面に陣取った。写真には撮影者の涙は写らないのは幸いだった。

2018年、ニュージーランドのコースで

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「立木さんの一言で見方が変わりました」

宮本に写真の師匠はいない。しかし、日本を代表する写真家、立木義浩には感謝しているという。「立木さんが助言という感じでもなく、ごくサラッと言ったんですよ。『ほかのスポーツも見とけよ』って。『変化があるかもよ』と。ハッとしました。それで、アトランタ五輪やメジャーリーグのオールスター、アメフトのスーパーボウルにも2度行きました」

何か変化はあっただろうか?「すごく。たとえば、オリンピックのプログラムの写真が陸上のゴールシーンじゃない! 手や足のアップだったりする。ああ、こういう伝え方もあるんだ、と」。ちなみに、スーパーボウルのハーフタイムショーにマイケル・ジャクソンが出演したときは「ハーフタイムで持っていたフィルムをほとんど使い尽くしてしまって、あっ、あとハーフあるのに! と焦りましたね(笑)」

写真家・立木義浩と(写真上)。師弟関係ではないが、立木のふとした言葉が宮本の心に響く。

宮本のような写真家になりたいと思う若者もいるだろう。「写真展を開くと若い人も来てくれて、話す機会もあります。すると『カメラは何ですか? 露出は?』というようなハウツーを聞かれることが多いんです。その気持ち、すごくわかるんですけれど……。今は何でも答えがある時代。わからないことはインターネットで調べればわかるし。でも、それでイマジネーションが狭まるのだったら残念です。『カメラはこれで、露出はこう』と答えながら『君だったらどうする?』と思うことも。自分のスタイルは持ってほしいと願います」

露出計で測っていては、間に合わないチャンスがある。写真でも人生でも。
宮本は2021年春、拠点を東京から神戸に移した。どうやら風を感じたようだ。
(文中敬称略)

宮本のフットワークは軽い、ゴルフも同じく軽やかに。アメリカ西海岸の小さな町、バンドンのコース

週刊ゴルフダイジェスト2021年10月12日号より