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ヴィンテージクラブ、絵画、手紙…ゴルフ収集家・國江仙嗣氏の貴重なコレクションを大公開!

1552年開場のセントアンドリュース・オールドコースにはゴルフの聖地として今でも世界中から多くのゴルファーが訪れる。だが、クラブや書籍などは時とともに消耗、離散していき、いつしか忘れられてしまう。500年以上の歴史を誇るゴルフの品々を収集、保存することはゴルフの文化を守ることにもなるという國江仙嗣さんのコレクションの一部をご紹介!

撮影・取材/吉川丈雄 クラブ監修/上野喜久夫(「名器の系譜」著者) 協力/國江仙嗣(ゴルフ収集家)

「先人の思いが息づくクラブやグッズは
歴史の証人です」

「1981年にゴルフを始めました。当時、ウッドはパーシモン、アイアンはマッスルバックで、シャフトはいずれもスチールという時代でした。ジャック・ニクラス、トム・ワイスコフなど、ツアーで活躍している多くのプロがマグレガーのウッドを愛用していました。その時代にアンティークショップを経営していたことから、骨董品などをアメリカに仕入れに行くようになり、そのなかでクラブに興味を抱き、なかでもピンのパターを集めるようになり、気が付いたらヴィンテージからクラシック時代までのクラブが数千本ほど手元に集まっていました。

現在ではクラブだけではなく、書籍、絵画、手紙類、カップや小物など、ゴルフにまつわるものを幅広く収集しています。将来的には、誰もが気軽に訪れ楽しめるゴルフミュージアムを開館できればと思っています」(國江仙嗣さん)

ヴィンテージクラブ[1700年代~]
ロングノーズとフェザーボールでゲームが進化

ヘッドは堅くて耐久性のあるフルーツウッド、シャフトは耐久性と弾性のあるアッシュ(トネリコ)やヒッコリーでグリップの部分は革が巻かれていた。ヘッドはその形状から「ロングノーズ」と呼ばれた。

同じような形状だがヘッド、ライ角など微妙に異なっていたのはメーカー(プロ)が経験値による独自の基準で製作していたからだろう


アイアン[1900年代~]
試行錯誤の塊! アイアンクラブの迷走と進化

リンクスでは天候により大きな影響が生じる。あるがままで戦うにはさまざまな条件に合ったクラブが求められるようになり、耐久性が高く気象条件に対応できる金属製クラブが出現した。草創期のゴルファーやクラブ職人の思いが交差するクラブを手にして当時のプレー風景を想像するだけでも楽しい。

リンクスの状況に応じてアイアンクラブは作られ工夫されていった。すきのような形状やヘッドの中心が開いているのはウォーターアイアンでいずれも1900年代に作られた

(左上)1893~1916年頃に作られたヘッドが動いてロフトが変えられ1本でプレーできるアジャスタブルアイアン/(左中)幅の狭い馬車のわだちに入ったボールを打つために考案されたのがくぼみのある小さなヘッドのラットアイアン。ラフの長い草をなぎ倒すようなクラブもあった/(左下)金属のシャフトが装着されたアイアンも登場。格子状にシャフトに穴が開けられて軽量化を図る工夫がされていた。振ると“ヒュー”と音がすることから「ホイッスルクラブ」とも呼ばれた/(右上)大きなヘッドを持つマンモスニブリックは1905年頃のもの

パター[1920年代~]
工夫され材質にも変化が表れた

アイアン同様にさまざまな工夫がされ、その分クラブ形状も独特だった。現在のようなルールが確立していないこの時代も入るパターが求められていたことがうかがえる。

パターの多くは金属のヘッドだった。ヘッドデザインを見る限り試行錯誤していたことがわかる。1915~20年代になると、ゴルファーに合わせてライ角が変えられるパターも登場した

ファンシーフェース[1925~35年頃]
工作技術が向上し装飾的フェースが出現

ゴルフが普及し工作技術も進化すると、フェースに装飾を施したクラブが生まれた。デザインは多種多様で色彩的にも楽しめるものが多かったが、初期のものはほとんどヒッコリーシャフトだった。この時代、性能よりも遊び心という意味合いが強かったのだろう。

ヘッドにパーシモンが使われ始めた1925年頃になるとフェースにピンなどが埋められ実用性と装飾的な面を兼ね備えたクラブが工場で大量生産された。

コンポジット
100年前に出現していたコンポジットクラブ

1920年頃になると金属のヘッドに木のフェースを合わせたりしたコンポジットクラブも出現。アメリカでは工場により大量生産が行われたが、スコットランドはまだ家内工業的だったため生産量は少なかった。アルミを使用した軽量の金属ヘッドのウッドクラブが作られ、フェースもコンポジットされていたものもあった。現代に通じるアイデアはこの時代にすでに試されていた。

絵画
当時のゴルフ文化がうかがえる

ゴルフ絵画は1500年代に存在していたが、ゴルフの起源とされるフランスの「コール」やオランダの「コルフェン」などの競技風景は1400年代後期には描かれ、17~18世紀になるとゴルフ絵画も多く描かれた。まだ写真のない時代の絵画からは、当時の風俗、文化を知ることができる。

(左)ダグラス・アダムス(1853~1920)によって1893年に描かれたザ・パッティンググリーン。コースは1890年開場でウェールズにあるコンウェイGC/(右)1902年、R&A会員でエジンバラのジョージ・リードにより描かれたオールド・トム・モリスの肖像画。完成したときモリスは「帽子だけは私だな」と感想を述べている。オリジナルはR&Aのハウス内に飾られている

(左)1847年セントアンドリュースで行われたサー・デビッド・ベアード、サー・ラルフ・アンストラザーによる“グランドマッチ”の風景。オリジナルは1850年チャールズ・リーにより描かれたものでスコットランドナショナルギャラリーが所蔵/(右)1900年代初期にチャールズ・アルバート・タリーが描いた油絵。タリーの絵画は多く残されている

書籍
書き残された文字は永遠の証言者

ゴルフの歴史を知る方法のひとつとして当時書かれた文章から探ることができる。文章として残されてることは次世代に継承することができ、貴重な書籍であると同時に保存すべき資料でもある。

“アメリカゴルフの父”と称されるチャールズ・B・マクドナルドがスコットランド留学後に記した「スコットランドの贈り物 ゴルフ」は名著とされ、現代のコース設計者の愛読書でバイブルでもある。右上のコース写真は1917年に開場したリドーGCの4番。下はセントアンドリュース18番のスウィルカンブリッジの上で語り合うマクドナルド(左)とアンドリュー・カーカルディ(右)

(左上から)1859年「種の起源」を記したチャールズ・ダーウィンの孫バーナード・ダーウィンの「ザ・ゴルフコース・オブ・ザ・ブリティシュアイルズ」(1910年)/ミュアフィールドのキャプテンを務めたウォルター・G・シンプソンによって書かれた「ジ・アート・オブ・ゴルフ」(1887年)/全英アマを1886、87年と連覇したホレス・ハッチンソンの著書「ブリティッシュゴルフリンクス」(1897年)/全英オープン1892、97年、全英アマ1900、01、11、13年、全米アマ1911年に優勝しているハロルド・ヒルトンの著作「R&A、ゲーム・オブ・ゴルフ」(1912年)/「ゴルフ、R&A編」(1894年)/米国のアマチュアゴルファーだったチック・エバンスの「ゴルフブック」(1921年)/「ザ・ゴルフブック・オブ・イーストロジアン」(1896年)は牧師でもあったジョン・カーの記したガイドブック。ゴルフのほかカーリングの本も書いている

写真
一瞬を切り取った写真は動かぬ証拠でもある

写真が一般的になったのはそれほど昔ではないが、1900年代になるとゴルフシーンは思いのほか多く撮影されている。

“プロの中のプロ”と称えられたウォルター・ヘーゲン(左から2番目)とツアー13勝ながら曲打ちを得意としたオーストラリアのプロ、ジョー・カークウッド(右から2番目)は1930、38年に来日。兵庫ナンバーの車が写っている写真は鳴尾GC(浜コース)を訪れた時と思われる

ウォルター・ヘーゲンは30年に来日した折、新宿御苑内のコースで天皇陛下に妙技を披露し金の煙草入れを下賜されている

1960年の全英オープンは100回記念大会としてセントアンドリュースで行われ、オーストラリアのケル・ネーグルが1打差でアーノルド・パーマーを退けて優勝。18番グリーン上の黒い服装が優勝したケル・ネーグル(左)、白服は同伴競技者でアルゼンチンのロベルト・デ・ビセンゾ。同写真はセントアンドリュース大学にも所蔵されている

手紙
私的な書簡でも時間の経過により貴重な資料となる

遠くにいる人に何かを伝えるには手紙が主流だった時代、トム・モリス・シニアも多くの手紙をしたためていた。手紙を出せば返信が来ることにもなり当時の心模様を推測することができる。現在では簡単に済んでしまう事柄でも文字にすると資料となり、時の経過を考えると貴重といえる。

トム・モリス・シニア宛の手紙。セントアンドリュースの消印は1887年7月24日

1934年11月、ハリー・バードンが知人に贈り物をしたという手紙。レターヘッドには所属していたロンドン郊外のサウスハーツGCの名が入っている。ハリー・バードンは全英オープンを1896、98、99、1903、11、14年と6回制覇し1900年には全米オープンにも勝っている

週刊ゴルフダイジェスト2026年1月20日号より