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【ターニングポイント】芹澤信雄「体格も才能も人並みの僕がこの世界で生き延びたワケ」

苦悩の表情など見せたことがない。長らく勝てない苦しみも、2度の手術の悩みもあった。体格も才能も「人並み」と自認するが、いつでも明るく爽やかで人懐こそうな、あの笑顔だけは絶やさなかった。笑顔の縁がくれた「ターニングポイント」──。

TEXT/Yuzuru Hirayama PHOTO/Takanori Miki

芹澤信雄
1959年、静岡県出身。82年にプロ入りし、87年「日経カップ」でプロ初優勝。96年「日本プロマッチプレー」でメジャー初タイトルを手にした。太平洋クラブ御殿場コースに「チームセリザワ・ゴルフアカデミー」を開校。ツアー5勝、シニアツアー1勝。(株)TSI所属


縁に恵まれる者がいる。
芹澤信雄にとっての最初の縁は、キャディのアルバイト先である富士平原GCにいたプロの石井隆文だった。次の縁はタレントの次兄芹澤名人が運転手を務めていたビートたけしだった。
二つの縁がくれたのは、モノではなかった。例えばビートたけしがお祝いにくれた真っ赤なポルシェは「運転できないから」と返してしまった。縁がくれたのは、彼が持ってはいなかった、「目標」だった。1982年にプロテスト合格、1996年に日本マッチプレーでメジャー初優勝。目標が、次の目標へとつながり、彼はトッププロへと成長していった。


「強くなってオイラの番組に」
というたけしさんの言葉で
頑張らなきゃと思いました

スキーをしていて冬におカネを使うから、夏休みにキャディのアルバイトを始めた高校1年生のときが、ゴルフとの出合いでした。でもゴルフにはまったく興味がなく、やりたいと思ったことは一度もなかったんです。小学5年生からやっていたスキーに夢中でした。競技に出る緊張感や爽快感が好きで、国体にもインターハイにも出場しました。

高校3年生の9月、スキーの推薦で大学へ進学するつもりでいたら、父・進から「スキーでは食えねえだろ」と反対されました。僕からしたら、食えるか食えないかではなく、好きだからやりたかったんですけどね(笑)。大学を断念させられ、最悪、就職先がなければ、家業である御殿場市内のクリーニング店にでも入るかと、そんな感じでした。

その話を富士平原GC所属の石井隆文プロにすると、「ゴルフをやってみるか」って。以前から石井プロが簡単そうに真っすぐ飛ばしているのを見て、おじさんのスポーツだろとナメていたんです。ところが初めてラウンドをご一緒させていただくと、難しいのなんの! ハーフのスコアは65くらい。キャディのバイトでお客さんが30cmのパットを外すのを見て内心笑っていましたけど、自分が外してびっくりしました(笑)。

18歳から始めたド素人がプロを目指すなんて無謀でしょうが、父に話したら「プロになれなくてもゴルフ場に勤めれば食えるだろう」と(笑)。そこからは、石井プロから与えられた目標に必死でした。「3カ月でハーフ30台を出せ」と言われて、それがどれだけ難しいかもわからないから、できちゃいました(笑)。体格も小さい(173cm、68kg)から力がなくて飛ばないんですけど、曲がらないんです。特別な才能があったわけでもない僕が、曲がらないことを武器にして23歳でプロテストに合格できました。

プロになっても「ラッキ~」としか思っていなくて、アメリカ進出だの、マスターズ出場だの、そんな大きな夢なんてまるでない。目標は「プロになること」でしたから(笑)。そんなとき、1987年の静岡オープンに、ビートたけしさんが現れて会場が騒然となったんです。しかも、集まった報道陣に対して「オイラの師匠を応援に来たんだよ」と。その師匠はと訊かれると、「芹澤信雄だよ」と言ってくれたんです。たけしさんや軍団のみなさんにレッスンさせていただいたことがあったんです。僕なんかまったくの無名だったんですけど、実力より先に注目を浴びちゃいました(笑)。

「強くなってオイラの番組に出てよ」というたけしさんの言葉で、頑張らなきゃと思いました。その発奮もあって、その年の日経カップで初優勝できたんです。


へなへなぁ~と座り込んだウィニングパット。
派手なポーズを久しぶりに決めていい場面だったのに(笑)


永遠に感じられる4年間もある。1996年の日本マッチプレーの優勝で5年シードを得て、それを機にさらなる飛躍を望んだ。飛距離アップとアメリカツアーへの挑戦だ。外国人選手と渡り合おうと、スウィング改造に着手した。しかし、「自分らしさ」を失った代償は大きく、まったく勝てない日々が4年間も続いた。そんなとき、思わぬ言葉をかけてくれたのは、闘病中の父・進だった。


日本マッチプレーの優勝も、「ラッキ~」ですよ(笑)。だって決勝日は雨だったから、飛ばし屋のブラント・ジョーブもロングホールで2オンできなくなったんです。それに相手が外国人選手で、完全にアウェイでしょ。僕の応援がめちゃくちゃ多かったんです。しかも僕は攻めるというより、ステディにコツコツいくタイプだから。そんな僕が30ヤードも後ろから寄せて、先にバーディを取ると、ジョーブは嫌だったでしょうね。

だけど、メジャーで初優勝して5年シードを得たのが、後から思えばいけなかったんです。5年も余裕があるからと、憧れの飛ばし、憧れのアメリカツアーに挑戦したくなっちゃったんです。飛ばさなきゃとスウィングをアッパー軌道にすると、アイアンの切れ味が悪くなりました。それにドライバーもあれだけ真っすぐ打てていたのに、急に曲がりだして。

「日本マッチプレー」に優勝したことで5年シードをゲット

飛ばし屋のB・ジョーブとの決勝戦、圧倒的に飛距離で劣る芹澤が取った手段は「遠くから先に寄せる」作戦。1アップのまま迎えた36ホール目で決着がついた

勝てなくなった4年間は、もうこの先、永遠に勝てないんじゃないかと思っていました。1999年10月、父が肝臓癌で亡くなる前に、僕が東京の病院まで車で送り迎えしていたんです。そのとき父から、「俺がこんなことになったから、おまえも成績悪いんだな」と言われました。そんなことない、ただ僕の調子が悪いだけなのにね。

結局、飛ばなくても曲げない、ロングは3オンで勝負、そんなステディなゴルフに戻しました。自分らしさを失ってしまったら戦えないと気づいたんです。

そして、2000年の開幕、東建カップ。最終日最終パー5、2オンはできないけれど、残り129ヤードの第3打をピッチングで1.5メートルにつけられました。入れれば優勝のバーディパット。構えたとき、手は震えるし、初めて頭が真っ白になりました。どうしたらいいかわからない。苦し紛れに、心の中で言ったのは、「親父、入れさせてくれ」と。

どうやって打ったのか覚えていないんですけど、弱いスライスラインを転がった球がカップに入った瞬間は、へなへなぁ~と座り込んでしまいました。40歳にして4年ぶりの優勝ですから、派手なガッツポーズを久しぶりに決めていい場面だったのに(笑)。そして、本当に勝てたんだと思うと、自然と涙が込み上げてきましたね。


プロゴルファーとしての延命手術に、芹澤信雄は2度も挑んだ。左肩の腱板手術と、左股関節の人工関節手術だ。シニアに主戦場を移した自分の勝負を諦めてしまいたくない。それと同時に、彼にできたたくさんの「弟子」たちに、いつまでも自分の体で技術を伝えたい。そうして弟子たちを教えているうちに「鏡の法則」に気付く。自分が発した言葉が、自分に跳ね返ってきたのだ。


チーム・セリザワの始まりは、練習を一緒にしたいと慕ってきてくれた後輩たちと、ゴルフは個人競技だけど、みんなで楽しく真剣にできたらいいよねって。態度が悪いヤツは入れませんけど(笑)。藤田寛之は25歳から一緒にやってきて、もうシニア入り。「師匠」って呼ぶから、50歳も過ぎて師匠なんてやめろよって返すと、「一生師匠です!」だって(笑)。

僕がシニアになっても2度も大きな手術を決断できたのは、後輩たちとまだゴルフをしたい、そして自分もまだ後輩たちのように成長していきたい、そんな気持ちを持てたからです。特に人工股関節を入れるのは迷いましたけど、後輩たちに言葉で教えるより、自分のプレーを見せたいなって。

後輩たちの指導に夢中になるあまり、自分のゴルフがおろそかになった時期もありました。だけど、人を教えることで気づくことがあるとも思えたんですね。人を照らすと、自分に跳ね返って照らしてもらえる。そうか、これが「鏡の法則」っていうやつなんだなと思いました。2010年の富士フイルムシニアでシニアツアー初優勝できたのも、そのおかげです。

『4年に1度のオリンピックじゃあるまいし
うまく行かなかったら練習すればいいじゃん』
失敗に寛容なのがチーム・セリザワです


チーム・セリザワのモットーは、「楽しく真剣に」。弟子の藤田寛之は、自らのささいなミスが許せずにいた。また西山ゆかりは、緊張しすぎて実力を発揮できずにいた。あるときは電話で叱咤し、またあるときはキャディとなってバッグを担いで激励する。すると、まるで師匠の、あの屈託ない笑顔が乗り移ったかのように、弟子たちにも余裕が生まれ、輝きを放ちだした。


ゴルフは、2割が技術、残り8割はメンタルの勝負だと思っています。藤田がミスを許せないでいたときがありました。あいつはそこまでストイックになれるのってくらいに練習する選手なんです。電話で僕からあいつに伝えたのは、「ミスすることなんて、あたりまえじゃないか。一生懸命やっているんだったら、しょうがない」と。自分を許して、もっと楽にプレーさせてあげたくてね。

最終日に75とか叩いてプロ8年目でまだ勝てずにいた西山ゆかりには、「一度、キャディをやらせてくれないか」と僕から志願しました。西山のラウンド中の精神状態を見たかったんです。2015年のmeijiカップ、初めてバッグを担がせてもらうと、案の定、あいつは緊張しすぎていたんです。彼女には、現場でレッスンをしたようなものです。ミスでイライラしているときには「もう次のことを考えよう」とか。ピンチでガチガチのときには「これも試練だと思おう」とか。そうしたら、まるで魔法にかかったみたいに初優勝しちゃったんで、こっちがびっくりしました(笑)。

ゴルフは、いかに楽しくできるか、いかにミスを引きずらないか。よく後輩たちに言うのは、「4年に1度のオリンピックじゃあるまいし、うまく行かなかったら練習すればいいじゃん」と。何度失敗しても、リカバーできれば許されるのが、ゴルフの素晴らしいところ。失敗に寛容なのが、チーム・セリザワです。

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外は霧雨だった。
太平洋クラブ御殿場コース内にあるアカデミー。そこはチーム・セリザワの特訓場でもある。

傘を差すほどではないのだが、細かな雨の粒子が気づかないうちに服を濡らして重たくする。そんななか、ウェッジでショートゲームの練習にコツコツと励んでいる弟子の西山ゆかりの姿を、芹澤信雄は見守っていた。
「あれもね、苦しい努力だなんて、僕は思わない。好きなことを、楽しみながら、真剣にやっているだけ。そして、それが実を結べば、もっともっと、ゴルフが楽しくなるでしょ」

彼と、彼の弟子たちによるチーム・セリザワの躍進。それは、苦しみからではなく、楽しみから生まれている。

月刊ゴルフダイジェスト2022年9月号より