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悲劇のベンチュリ、パーマーとの確執(1958マスターズ)【記者が見た“勝負のアヤ”】

記者生活50年を超えるベテラン記者・ジョーが、長い取材生活のなかで目の当たりにした数々の名勝負の中から、いまだ色あせることなく心に刻まれているエピソードをご紹介!

ケン・ベンチュリは1957年からツアーに参戦し64年の全米オープン優勝を含め14勝を挙げている

【1958年 マスターズ】

「最初のボールがチップインしていたら
第2のボールを打ったかい?」(ケン・ベンチュリ)

1950年代後半に入るとスポーツのテレビ中継が全米ネットで放映され始め、ゴルフの人気も日ごとに高まっていった。なかでも、どこからでも果敢にピンを狙って攻めていくアーノルド・パーマーは、たちまち人気選手となっていく。若きパーマーはいつもニコニコして愛想も良く、誰にでも好かれた。19歳でデビューした1935年生まれのエルビス・プレスリーが、たちまち若者の人気者になり、すべてが輝き、明日に夢を感じることのできる黄金のフィフティーズだった。

パーマーがツアーに参戦した55年はそんな時代だった(マスターズのテレビ中継は56年から)。デビュー年に早くもカナディアンオープンを制し、71年まで毎年勝利を挙げ、メジャー7勝を含むツアー62勝を果たしている。58年に獲得賞金1位になると、60、62、63年も賞金王に。まさに人気絶頂の58年、パーマーは70、73、68、73の284でマスターズを制した。

だが、その裏で涙を飲んだ人物がいた。最終日の12番パー3で、パーマーのティーショットはグリーンを外し、ぬかるみに食い込んでしまう。救済を主張したが、競技委員に「あるがまま」と拒否されダブルボギー。だが、納得のいかないパーマーは暫定処置として第2のボールをプレーしてパーで終え、裁定を待つ。この行為に同伴者のケン・ベンチュリは強い不快感を表したが、マスターズ委員会はパーマーの救済を認め、12番は正式にパーとなる。スコア提出でベンチュリはかたくなにサインを拒否するも、委員に説得されやむなく署名。だが気持ち的にはまったく納得していなかった。

その2年後の60年マスターズ。最終日、単独首位でスタートしたパーマーを1打差で追うベンチュリ。前半でスコアを3つ伸ばしたベンチュリが、パーマーに1打差をつけ先にホールアウト。ハウスでは多くの人に祝され、記者はインタビューの準備を、マスターズ委員会は小切手や表彰式に着用するグリーンジャケットの用意を始めた。

ところが17番でパーマーが9メートルを沈めバーディ、18番でも6番アイアンでの2打目を1ピンにつけ、連続バーディで逆転。パーマーは2度目のグリーンジャケットに袖を通した。

この連続バーディをハウスのテレビで見ていたベンチュリは、大粒の涙を流し顔はクシャクシャになったという。ベンチュリはアマチュア時代の56年にジャック・バークJr.に最終日8打差をひっくり返されて敗れ、マスターズに勝ちたくてプロに転向しただけに、マスターズにかける思いは人一倍強かった。58年大会と60年大会での因縁はパーマーとの間にわだかまりを残すことになった。二人は生涯にわたり和解することはなかった。

インタビューを受けるパーマー

文/ジョー(特別編集委員)
年齢不詳でいまだに現役記者。ゴルフダイジェスト入社後、シンガポール、マレーシアをはじめ、フランス、モロッコ、英国、スイス、スウェーデン、イタリア、アメリカ、カナダ、メキシコ、中国、台湾、アラブ首長国連邦、オーストラリア、ニューカレドニア、タイ、インドネシアなどでコース、トーナメントを取材。日本ゴルフコース設計者協会

週刊ゴルフダイジェスト2022年5月3日号より