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【ターニングポイント】金子柱憲「“乱れたら左手を鍛え直せ”ジャンボの教えが自分のすべてだ」

金子柱憲は「ジャンボ軍団」の一員として、尾崎将司をそばで見つめてきた。その影響力は強大で、出会ったときは未勝利だったが、その後ツアー通算6勝を挙げるなど活躍した。還暦を迎えた今、尾崎とのまばゆい歳月を、あらためて多くの人々に伝えたいと著書も出版。ともに歩き、ときに戦った、「ジャンボ」との記憶を語る。

TEXT/Yuzuru Hirayama PHOTO/Takanori Miki 

金子柱憲
1961年、東京都出身。83年にプロ入りし、同期の東聡とともにジャンボ軍団で腕を磨いた。88年にシード権を獲得し、以後13年間シードを保持。96年には師匠の尾崎将司に次ぐ賞金ランク2位となり、翌年マスターズに出場。11年、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科に合格。ツアー6勝。


金子柱憲は著書を出版した。一人の男について書いたドキュメンタリーの題名は、『誰も書けなかったジャンボ尾崎』。尾崎と同じ元野球少年でありながら、「ジャンボ」の異名を持つ尾崎将司とは対照的に華奢な体格だった。だが縁とは不思議なもので、節目ごとに尾崎の存在が、彼をプロゴルファーへ導いていった。


憧れの人と回ってるなんて
夢じゃないよなって
左手の甲をつねっていました

「小学校5年生から野球をやっていました。プロ野球選手になりたかったんですけど、中学入学前に身長が130センチしかなく、中学では試合に一度も出してもらえませんでした。中学二年生のときに動悸がして病院へ行くと、不整脈があるので激しい運動は控えなさいと。そう言われたとき、ほっとしている自分もいたんです。プロ野球選手という夢なんて無理だと自覚していましたから。

焼肉店などを経営していた父、正夫がゴルフ好きで、学校の近くに練習場があったからそこで毎日球を打たせてもらうようになりました。父はスパルタでした。挨拶しない、スコアが悪いと怒られて。でも人との競争ではないゴルフが楽しくて、放課後午後3時半から夜10時まで練習場にいました。

1977年、僕が高校2年生のとき、父と一緒に初めてプロの試合を見に行ったんです。横浜CCでのペプシトーナメント。そこでジャンボを見たんです。白いハットをかぶり、青い横縞の白いポロシャツ姿を今も憶えています。14番パー3でバンカーからチップインバーディを決めて、存在感が他のプロとは別格でした。

翌1978年の日本オープン、そのジャンボと高校3年生の僕が一緒に回ることになったんです。高校の担任がいい先生で、ゴルフ部を作れば公欠になるからと、ゴルフに専念させてもらえたおかげで出場できました。

3日目の2番ホールで前が詰まって待っているとき、ティーイングエリアで最終組と一緒になったんです。僕の組にはジャンボと金井清一さん。最終組には青木功さんとセベ・バレステロスとグラハム・マーシュ。そんな豪華な中に、高校生の僕がポツンと。青木さんとセベに頭を撫でられてね(笑)。緊張しすぎて、ジャンボのプレーを間近で見たはずなのに、なにも憶えていません。憧れの人と回っているなんて夢じゃないよなって、左手の甲をつねっていました(笑)。



ジャンボと回った1978年の日本オープンでローアマに輝き、翌1979年から1981年まで関東学生で優勝。1982年の韓国オープンでは、プロを抑えて優勝するという快挙も。1983年、プロに転向したそのオフ、「ジャンボ軍団」の合宿に参加。昼間は壮絶なトレーニングと、そして夜は尾崎が付きっきりの特打ちが、毎晩深夜まで続いた。


“クリーンボディ”って言葉があって
不調を感じたら基本に戻って
体をいじめて整えるんです

プロに転向した年に、全英オープンのマンデーに同期の東(聡)と挑戦しました。2人とも落ちて帰国しようとしていたときに、本戦に出場される飯さん(飯合肇)とジェット(尾崎健夫)が同じ家に泊まるために来たんです。「オフにジャンボのところへ来ないか」と誘っていただいて、即答でした。ぜひ行きたいですと。

1月にジャンボの家の母屋の奥にある30畳ほどの和室に寝泊まりして合宿に参加しました。テレビもない部屋で、夜はなにもすることがない。居間でジャンボと一緒に沈黙のまま身動きもできずにテレビを見るのもつらくてね。寒いけど外で練習したほうがいいかなと、東と2人で鳥カゴに出ました。昼間も激しいトレーニングがあってバテているのにね(笑)。

するとそこへジャンボが見に来るようになったんです。見ているからサボれないし、自分たちからやめるともいえなくて、遅いときは12時まで「恐怖の特打ち」(笑)。

ジャンボは一言二言助言してくれるだけで、黙って見ていました。ジャンボの助言は、今の若手に対しても同じですけど、基本的な体の動作に関することだけ。「心技体」ではなく、「体技心」だと。例えばクリーンボディって言葉があって、不調を感じたら基本に戻って体をいじめて整えるんです。球を打つだけでなく、限界まで走ってね。

そんな合宿は、最初は疲れるばかりでした。だけどやがて夜の特打ちが、僕らだけが星空の下でひたすら球を打ち、それをジャンボがストーブを焚いて見てくれていると、神聖な時間に思えてきてね。ジャンボに対する感謝というか、こんなにまでしていただいて、早く俺たちも勝てる選手にならなきゃ、そう思うようになりました。


尾崎将司の「教え」は、プレーのことばかりではない。予選落ちを繰り返す若かりし日、彼が口にした途方もなく遠い夢、「マスターズ出場」。けれども、尾崎はそれを笑いはしなかった。そして10数年の歳月を費やし、彼はその夢を叶えてみせる。


シード選手でもなく、試合にも予選落ちばかりしていた頃でも、トップ争いをしていたジャンボが練習場へ来て、僕の練習に最後までつきあってくれました。「優勝できなかったのはおまえのせいだ」なんて冗談を言われながら。たぶん僕が、真剣に、一生懸命に上手くなろうとしていたからですかね。ジャンボ軍団の選手たちは活躍している選手がたくさんいて、そんな彼らがあれだけ練習しているんだから、僕はそれ以上やらなきゃというのはありました。だって、何もかもが足りていないんだから。技術的なことはさておき、人より多く打つ、多く走る、多くトレーニングする、まずはそれだと。

「おまえの夢はなんだ」

24歳のとき、2人きりでいたジャンボからそう聞かれたことがありました。僕はまだ勝てずにいて、プロでは通用しないかもしれないと苦しんでいた時期でした。それなのに、「マスターズに出ることです」と、思わず言ってしまったんです。本音はシード選手になりたかったんですが、それも難しいし、どうせならとんでもなく大きなことを言ってしまえと。そうしたらジャンボは「マスターズかぁ、遠いな」と。そりゃそうですよ、自分でも日本オープンぐらいにしておけばよかったかなと(笑)。でもジャンボの言葉には続きがあって、「夢というのは、あきらめずに追い続けていると、その思いが宇宙の果てに行って跳ね返って戻ってくるんだ。間に合えば、叶うかもしれないぞ」と。

それから10年以上が経った1996年。東建カップ、キリンオープン、ミズノオープンと3勝を挙げて賞金ランキング2位(1位は尾崎)となり、そのオフにマスターズから招待状が届いたんです。すぐにジャンボのところへ報告に行き、昔ジャンボに言われたことが実現したんですというと、「俺、そんなこと言ったか?」と忘れていました(笑)。

夢のマスターズではジャック・ニクラスと回りながら、体調不良もあって2日間とも77で予選落ちでした。落胆しているとジャンボは、「そんな簡単に上手くいくもんじゃない。俺だって何十回来てもまだ上手くいかないんだ。今回はアメリカに来て、いきなり優勝争いができたんだから、いいじゃないか」と。前哨戦のフリーボート・クラシックで5位に入ったことをジャンボは称えてくれたんです。

少し前に『誰も書けなかったジャンボ尾崎』という本を出版した金子。尾崎に信頼されているからこそ、執筆することが許された

師匠の激と気配りで開幕戦を逆転優勝


そんな尾崎将司と、優勝争いを演じた日があった。1996年開幕戦の東建カップ。最終日最終組、絶好調の彼は尾崎を4打引き離して終盤15番ホールを迎える。けれども、大勢のギャラリーにも聞こえるような大きな声で口にした尾崎の言葉に、彼は驚愕する。


15番のティーイングエリアで、「4連続バーディで上がれば、チュウケンに追いつけるな」とジャンボが大声でいうんです。驚くと同時に、ヤバイなと。それ、ひょっとしたらやってしまうんじゃないかという感じがするんです。ジャンボならあり得るぞと。

ただ一方で、ジャンボはこの開幕戦を「オープン戦みたいなもの」といって勝つ気はなかったんです。実際に7戦目の中日クラウンズからシーズン8勝を挙げて結局は賞金王でした。そんなジャンボに「追いつけるな」と言われて、これは「今一度、気を引き締めていけよ」と言ってくれているようにも感じました。そこからは、守りに入ってしまうことなく、最後まで攻めようと心に決めました。

最終18番パー5、残り220ヤードのセカンドショット。刻んでもいい状況でしたけど、2番アイアンでグリーンを狙いました。グリーンのカラーからの7メートルのアプローチも、カップから70センチにつけられました。するとジャンボのアプローチも、僕と同じような位置に止まったんです。ジャンボが先に打ってそのラインを見ることができて。まさかジャンボがわざと僕と同じ位置につけるわけなんか100%ないし、それは偶然でしかないんですけど(笑)。結果的に下りのフックラインを沈めてバーディを奪い、優勝することができました。

尾崎将司はまったく油断のならない存在

1996年開幕戦の東建カップ。最終日最終組、金子は尾崎を4打引き離して終盤15番ホールへ。そこで「4連続バーディで上がれば、チュウケンに追いつけるな」という声を聞いたという。当時のジャンボはそれを実現してしまうくらい強かった

ゴルフ人生、楽しいと思ったことは、正直いってあまりないんです。練習で何かに気づいて、でも不安が交錯して、結果がつきまとって。長年シード選手でいられたとはいえ、毎年綱渡りでしたね。プロとして戦うことは面白い。でも、楽しいとは思っていない。アイアンとトラブルショットは自信があるけどね(笑)。トラブルショットは、磨いたわけではなく、球があっちこっち行くから、磨かれてしまっただけです(笑)。

ジャンボの教えに、「乱れたら左手を鍛え直せ」というのがあります。考えてみると不調のときは、左手が弱くなっているものなんです。左手はスウィングの舵取り役。ヘッドをリリースしたあとのフォローでクラブを支える力が弱くなると、ほんの少しズレが生じる。だから還暦を過ぎて、シニアに挑む今でも、ジャンボの教えどおり、左手一本でバットを振っています。

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横浜市内にある彼の自宅のダイニングテーブルには、出版前の著書の原稿があった。それに目を落とす彼の、右手人さし指に包帯が巻かれていた。

「ジャンボのところで『ハゴミントン』をしているとき、第一関節を骨折しちゃってね」

ハゴミントンとは、羽子板とバドミントンを掛け合わせたようなスポーツで、ジャンボ軍団の合宿恒例のトレーニングだ。

その人さし指が癒える頃、また彼は尾崎将司の後を追うようにして、次なる夢へと向かうのだろう。

「ジャンボが若者に教えている姿を見ていると、自分の若い頃とも重なって、若者に教えるのも、いいなと。最近そう思うんですよね」

75歳にしてなお、尾崎は、還暦を過ぎた弟分を導いている。

月刊ゴルフダイジェスト2022年5月号より