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【ノンフィクション】スコット・ビンセント「日本ツアーは僕にとって“最高の場所”」

2021年に2勝を挙げ、一気にブレークしたスコット・ビンセント。しかし、コロナ禍でのツアーだったため、直接取材して生の声を伝えることがなかなか難しく、実に残念だった。ナイスガイと、その心優しき妻のストーリー。

TEXT/Mika Kawano PHOTO/Tsukasa Kobayashi、Tadashi Anezaki、Hiroaki Arihara

日本を旅する外国人カップルがふらりとホテルを訪ねてきた。スコット・ビンセントと妻ケルシーさんはそんな風情で我々の前に姿を現した。窓から差し込む冬の陽射しを受け、輪郭を金髪が柔らかく包む。「ブラッド・ピットに似てるって言われません?」そう聞くと、ケルシーさんが「あなたが初めてよ」と笑い出した。穏やかな空気を醸す2人の世界へ、いざ!

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21年、何度「ビンセント」の名をリーダーボードで目にしただろう。「最高の1年でした。2勝して、念願だったオリンピックにも出場できた。そして妻の妊娠。良いことが立て続けに起こりました」と夫婦は柔和な表情を浮かべた。

“90年代世界最強”とうたわれたニック・プライスと同じジンバブエ出身。19年から妻をキャディに日本ツアーを主戦場とし、21年、Sansan KBCオーガスタとANAオープンで2勝を挙げ、躍進した。

ANAオープンでの1コマ。ケルシーさん自身アスリートであり、選手のメンタルに通じている。心強き助っ人だ

そこに至る道のりは決して平坦ではなかったが「今振り返るとかけがえのない素晴らしいジャーニー(旅)」とほほ笑む。

92年生まれのビンセントは父(HC7)の影響で6歳か7歳のころクラブを握った。「ありとあらゆるスポーツをかじりました。クリケット、ラグビー、テニス、サッカー、フィールドホッケー……。でも、それらのスポーツを極めるには体が少し小さすぎた。それにチームスポーツは自分がいくら頑張ってもダメ。でも個人スポーツなら努力すればその分自分に返ってくる」とゴルフ一本に絞り「ニック・プライスゴルフアカデミー」に通い腕を磨いた。

アマチュア時代はナショナルチームの一員として世界アマにも出場。高校卒業後は米バージニア工科大学にスカウトされゴルフ部の一員に。その頃出会ったのが後に妻となるケルシーさんだ。

「当時彼にはジンバブエから連れてきていた彼女がいたから私は普通のお友達。でも卒業が近くなってお付き合いが始まりました」(ケルシーさん)

コロラド出身の彼女は同大のサッカー部で活躍し、卒業後はアイスランドのプロリーグに入団。

「学業優先でプロ志向はなかった」というビンセントだが、卒業が決まると夢を追いかけ南アツアーでプロ生活をスタートさせた。

「4カ月付き合ってすぐアイスランドと南アフリカへ。遠距離恋愛になりました」(ビンセント)

15年の元旦にプロ宣言したビンセントはアマチュア時代の実績が評価され、同年の米男子ツアーRBCヘリテージに招待された。家族も応援に駆けつけ初めての晴れ舞台は緊張と興奮で心が躍った。テレビでしか見たことがなかったトッププロと遭遇し目の前にしたアーニー・エルスの大きさに圧倒された。

観客の声援に包まれ、抜群の雰囲気の中でプレーは期待以上。最高峰のツアーで予選を通り4日間プレーするとビンセントは「自分が目指すべき場所はここしかない。いつかここで絶対にプレーする」と心に誓った。


しかし、そこから長いジャーニーが始まる。南アツアーを経てカナダツアー、アジアンツアー、ヨーロッパツアーを渡り歩き、18年のQTで上位に入ってようやく「安住の地」日本ツアーの参戦権をつかんだ。

「今ならどの経験も素晴らしかったと思えます。異なる文化、習慣、コース、人々に出会い、そこでたくさんの人と友情を育むことができました」

ヨーロッパでは目まぐるしく変わる気候に辟易。アジアでは週ごとにグリーンのコンディションが変わり戸惑うこともしばしば。

しかし日本は「どのコースもグリーンが素晴らしい。人々も親切で旅がしやすい。食べものも美味しいし、世界ランクのポイントも稼ぎやすいので、僕にとっては最高のツアーです」。しかし、度々上位争いをするが惜しいところで優勝を逃し続けた。

念願の五輪出場。試合後、妻からサプライズ報告が

東京オリンピック出場は悲願だった。前回のリオ五輪は次点でジンバブエ代表の座を逃し涙をのんだ。日本ツアーを主戦場にしている者にとって日本開催のオリンピックは地の利もある。「今度こそ絶対に出る」と強い決意でシーズンに臨み出場権を勝ち取った。

選手村に入村し競技の垣根を越えさまざまな国の選手たちと交流。これまでに経験したことがない高揚感を味わった。開会式と閉会式両方に出席し、大会期間を通しビンセントほど五輪を満喫した選手はいなかったかもしれない。肝心の競技では初日の出遅れが響きメダル争いにこそ加わることはできなかったが、尻上がりに調子を上げ16位。確かな手応えをつかんだ。

するとその後、妻からうれしい報告が。

「私自身は体調の変化に気づいていたのですが、彼がゲームに集中できるように打ち明けるのを待ったんです」とケルシーさん。試合後「実は妊娠しているの」という妻の言葉に「言葉を失った」とビンセントは天にも昇る気分だった。

人生最良の報告を受け、閉会式では旗手も務めた。極彩色の渦の中、至福の時に身を委ねた。

「予定日は22年の4月5日、マスターズの週」と声を弾ませるケルシーさん。「子どもができたらキャディはできないから新しい人を探してね」と夫を見つめて笑った。

実は彼女、プロサッカー選手の道を諦め、妻、そしてキャディとして彼を支える道を選んだが、妊娠が発覚する前は日本のプロチームのトライアウト(入団テスト)を受けるつもりだった。しかしそれも妊娠で断念。今は雪深い故郷コロラドでママになる日を待っている。

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オリンピックの感動を胸に挑んだSansan KBCオーガスタでついにその時がやってくる。初日からの首位をキープして迎えた最終日も好調だった。

「勝てなかった頃はリーダーボードをしょっちゅう見て自分にプレッシャーをかけていました。でもメンタルコーチについてからは自分がコントロールできることだけに集中するようにしたんです」

たとえば他の選手のスコアはコントロールできない。バーディを狙っても必ずバーディが取れるわけではない。肝心なのは過去でもなく未来でもない、今この瞬間に自分ができる最善を尽くすこと。

最終18番パー5のティーイングエリアに立ったとき、2位とは2打差。しかし、ビンセントのショットは無情にも左のOBゾーン方向へ。幸い崖下の打てる場所にあったが、前方には木立。ピンチにナイスアシストしたのがケルシーさんだ。「起きてしまったことは仕方ない」と夫の気持ちを切り替えさせた。林の間の隙間を見つけると、そこを狙ってフェアウェイに戻す選択を提案。その通りにフェアウェイに出すと3打目をカラーに運び80センチに寄せてパー。逃げ切りに成功した。

「最後のパットはものすごく長く感じました」と緊張で手が震えたが、目の前の1打に集中してミッションコンプリート。すると1カ月もたたないうちに再びチャンスが訪れる。しかも初日からトップを走って完全優勝したKBCとは全く違うパターンでの勝利だった。

最終日は3打差を追いかける展開。しかし前半4つスコアを伸ばしあっという間に首位の背中をとらえると、9番パー5で6メートルをねじ込みイーグル奪取。その時点で3打差をつけ単独トップ。

後半も順調にスコアを伸ばし一時6打のリードをもらった。魔が差したのは14番。絶対見ないと決めていたリーダーボードを「うっかり見てしまった」。そこで大量リードを知ると鼓動が高まる。「これだけ差をつけたのに勝てなかったらどうしよう?」。結果は後からついてくるとわかっているのに、心を先走らせ余計なことを考えた。それでも慎重にフェアウェイをキープしグリーンに乗せることだけに集中し無難に逃げ切った。

優勝の副賞は米300キロと餅100キロ。彼はそれを地元の児童養護施設に寄付。母国のヒーロー、プライスは世界最強にして世界一いい人といわれる気遣いの男。チャリティ精神は先輩譲りだ。

「ゴルフが上手くて優しい。話しやすくて人柄も良い」と日本選手の中にもビンセントファンは少なくない。

そんなビンセントの憧れの人はタイガー。まだ一緒に回ったことはないが、もうひとりの憧れの人とはANAで初めて一緒にラウンドできた。

石川遼。同世代の石川は「10代の頃から活躍していて世界的に有名でした。憧れていたから一緒に回れてとてもうれしかった。尊敬の念を込めて僕はいつも『ハロー、ミスター・イシカワ』って挨拶するんです。彼も『ハロー、ミスター・ビンセント』と返してくれます(笑)」。

ライバルは? と尋ねると「いません」と即答。「強いていえば昨年の自分がライバル。今年は去年の自分を超えるために頑張りたい」

22年は新米パパとして日本に戻ってくる。現在世界ランクは100位台だが地道にポイントを稼いでPGAツアー初体験のRBCヘリテージで誓ったよう「米ツアー出場のチャンスをつかむ」と初志貫徹を目標に掲げる。

緊迫した場面でも樹々を愛で鳥のさえずりを楽しむナイスガイ、ビンセントの前途に幸あれ!

週刊ゴルフダイジェスト2022年2月15日号より