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【ターニングポイント】中嶋常幸「人生はもがくのが醍醐味。僕はそう思って生きてきた」

一流と称される者には、自身のゴルフスタイルを確立するためのきっかけとなった転機がある。例えばそれは、ある1ホールの苦しみかもしれない。例えばそれは、ある1ショットの歓びかもしれない。積み重ねてきた勝利と敗北の記憶を辿りつつ、プロゴルファーが静かに語る、ターニングポイント。中嶋常幸の場合、それは、運転中に聴いたカセットテープでもあった。

TEXT/Yuzuru Hirayama PHOTO/Takanori Miki THANKS/練正館

中嶋常幸
1954年、群馬県出身。父・巌さんの教育で力をつけ、75年にプロ入り。賞金王は82年、83年、85年の3回。青木功、尾崎将司と合わせて“AON”と呼ばれ、ゴルフ界にムーブメントを起こした。初めて4大メジャーすべてでトップ10入りを果たした日本人選手。通算64勝、日本タイトル7冠のレジェンド


スマートフォンの画面に触れ、中嶋常幸は一枚の写真を見せた。
「初めて孫を抱いたとき、僕は横を向いて息をしたんですよ。息でけがれてしまうような気がしてね」
「愛」という名の高校生になった初孫が笑顔で写っていた。ゴルフ部で副主将になり、一緒にラウンドすることもあるという。
「この子は楽しむゴルフだから、腕前はこれからでいいんですよ」
そう言って目尻を下げる67歳にも、高校生だった頃があった。彼のゴルフは、父巌から結果を求められ、平手打ちが日常茶飯事の、凄絶を極める父子の闘いだった。
78年に父と訣別し、89年に建設した千葉県成田市にある練習場『練正館』。雨上がりの午後のテラスで、生姜湯を啜りつつ、彼は語り始めた。包み隠しのない懐旧談に耳を傾けると、「ロボット」「サイボーグ」などと呼ばれた彼も機械などではなく、もがき苦しみ、痛み傷ついた、一人の人間であることが沁みてくる。


“カラスは白だ”と
親父が言ったら黒が白になる家でした

「父の手ほどきで10歳から始めたゴルフは、母(ナミ子)のおにぎりを持ってコースへ行くのが楽しみでした。それが突然、中学3年生のときの全日本ジュニアで、中学生ではトップ(79・78)、高校生まで含めても7位だったんですけど、『上に6人もいる』と父の闘争心に火がついたんです。

うちは『カラスは白だ』と父が言ったら黒が白になる家でした。あるとき『返事がない!』と怒りだし、クラブを折って燃やされました。僕は家を飛びだし、船でアメリカへ渡ってゴルフをしようと桐生駅から横浜駅へ。だけど学生服のズボンのポケットには25円しか残っていなくてね。新聞配達でもと販売店を訪ねると、西海さんという店主が『家出してきたんだろう?』とカツ丼をご馳走してくれました。

18歳で出場した中日クラウンズは、国鉄の春闘で電車が動かず、前の試合会場の千葉から愛知の小牧空港までセスナで移動しました。うちは貧しいのに大金を使った挙げ句が予選落ち。『負けた場所にいないですぐに帰ってこい』と父に言われてタクシーで帰る途中、もう死んでやろうと。薬局へ寄って睡眠導入剤を買って、国道16号線沿いのガソリンスタンドで一瓶飲みました。あんたが成績ばかり求めるからだと、自殺は復讐でした。

胃を洗浄されて3日間寝込んだらしく、目覚めたら父からの最初の一言が『情けない!』でした。もし『悪かった』と言われていたら、もう一回導入剤を飲んでいたかもしれません。だけどこんな人のために死のうなんて、もう二度思うまいと誓いました」


「AON」という一つの時代があった。3人並べて語られるが、青木功とは一回り、尾崎将司とは7歳年下だ。それでも全盛期の2人に果敢に挑み、ときに倒して3人による時代を築いた。「A」や「O」と競い合った歳月は、「N」にとって何よりの誇りとなっている。


絶不調に手を差し伸べて
くれたのはジャンボ

「アマチュア時代から、『(プロの)青木に勝て、尾崎に勝て』が父の口癖でした。高い目標を設定してくれたことは父に感謝しています。青木さんは78年から4年連続賞金王。無敵の存在でしたけど、青木さんを破ればトップになれると思って必死にプレーした82年が、僕の最初の賞金王でした。


キャリアのベストマッチは、小樽CCでの90年日本オープン。僕には『ジャンボの呪縛』がありました。この試合でも3日目に逆転され、妻やキャディに99%勝てないと敗北宣言。だから明日はジャンボとではなくコースと戦うと。球聖ボビー・ジョーンズの『オールドマン・パー』の精神でね。

ところが12番で4打差を追いつくと、コースではなくジャンボが視界に入ってしまう。また呪縛です。だって美空ひばりさんの目の前で歌わされたら、どんな歌手でも実力が出せないでしょ。僕にとってジャンボはそういう存在。それに僕が絶不調だったとき、手を差し伸べてくれたのはジャンボでした。『まだ老け込む年じゃないだろう』と直接体を触って動きを教えてくれたんです。自分の練習そっちのけでね。

勝負所の16番パー5の第4打は、グリーンエッジからカップまで8メートルのアプローチ。洋芝独特の予測不能なライで、人生でも極めて難しい一打でした。もしカップを過ぎたら急な下りで何メートルもオーバーしてしまう。球をかなり右に置き、フェースを被せ気味に打ち、ピタリと寄せてパーセーブ。結果的に2打差で逆転勝ちすると、『おめでとう』とジャンボが握手してくれました。

2人とは、骨の髄までプロなんだと感じさせてくれる戦いをやってきました。『AON時代』と呼ばれるのは、僕にとって名誉です」

父の定めた高い目標
“青木に勝て、尾崎に勝て”

78年から連続賞金王の青木、圧倒的な強さとスターのオーラをまとった尾崎と「AON」と呼ばれるまでの存在になれたのは、父の存在なくしては成し得なかったこと。反発と葛藤、時を経て「父に感謝」しているという

90年日本オープンは
「キャリアのベストマッチ」

中嶋は最終日、12番で首位の尾崎に追いつき、そこから粘りのゴルフを展開。対する尾崎は15番から3連続ボギーとし、大会3連覇を逃した。「よくやった」と尾崎にたたえられたのが、心に沁みたという


惨めに打ちのめされたメジャーへの挑戦が、これほどまでに語り継がれている選手がいるだろうか。
オーガスタの13番で13打も叩いた78年のマスターズ。同年セントアンドリュースでの全英オープン、脱出に4打も要した17番のバンカーは「トミーズバンカー(トミーは彼の愛称)」と呼ばれている。
そして、86年のターンベリーでの全英オープン。グレッグ・ノーマンとの一騎打ちとなった最終日。惜敗した試合後、ゴルフ人生で初めて人目も憚らずに涙した。
そんな悔しさばかりが滲む彼のメジャー。けれども、4大会すべてでベスト10入りした日本人は、彼と、松山英樹の2人しかいない。


「メジャーで優勝できるのは一流中の一流。その夢を追いかけて、ひょっとしたらというチャンスが僕にもありました。86年の全英オープンは、最終日最終組で首位ノーマンと1打差でスタート。

ところが1番パー4、3日目までは嵐だったのに天候が回復。僕の体には右からの強いアゲンストが染みこんでいて、2打目を右へ狙ったら、そよ風ではあまり流されずにグリーン右へ。それでもまだアプローチで寄せればパーを取れるだろうと思っていました。

そこからは明らかに自滅でした。アプローチはカップを3メートルオーバー。パーパットは30センチオーバー。そして、「お先に」と無造作に打ったらカップを外れ、まさかのダボ。

結局は軽率なミスを挽回できずに優勝争いから脱落。僕はゴルフをして泣いたのはあの一度だけ。松山の17年全米プロでの涙も、気持ちがよくわかりました。初のメジャー制覇を自分のミスで不意にした悔しさは一緒ですから。

戻れるものならあの1番ホールに戻りたい。僕はワンチャンスをものにできずにメジャーを勝てませんでしたけど、松山はマスターズで悔し涙のやり直しができた。それは本当に偉いですよ」


95年3月、父が亡くなった。
病室へ急いだが死に目に会えなかった。父に愛されていなかったのか。父を愛せていなかったのか。
ゴルフでも勝てなくなり、苦悩が6年以上も続いたある日、弟篤志からカセットテープをもらった。それを聴いたとき、止められない涙でようやく過去がすすがれた。


愛されてなかったとしても
愛さなかったことは罪。
孫に気付かされました

「父が肝臓癌で余命3カ月だと弟から聞きました。78年に実家を飛びだしてから、孫にも年に数回しか会わせず、僕の試合を見せたのも80年が最後と、父とは疎遠でした。いまさら長男面して帰れないんですと杉原(輝雄)さんに相談したんです。『バカヤロウ!』と一喝され、病院へ車を走らせました。ところが道路が大渋滞で、その途中で弟から『親父が死んだ』と。

数十分だけ間に合わずに病室を開けたら、怒っているときの顔を父はしていました。悪かったな、勘弁してくれ……。額に額をくっつけて泣きながら、そんな言葉しか出てきませんでした。

それから僕が思ったのは、たとえ愛されなかったとしても、愛さなかったことは罪なんだと。今、僕はこれほど孫が可愛いのに、父に孫をあまり抱かせませんでした。どれだけ罪なことをしていたのか、僕の孫に気付かされました。

僕みたいな親不孝者はいないと、長らく罪の意識に嘖まれました。また、父が亡くなった翌年から01年まで、ゴルフでも6年以上勝てない年が続きました。極度のスランプでショートパットを1日に10回も外したときには、さすがに、もうやめようかと口にしたことも。

02年5月、フジサンケイクラシックへ向かう途中の東名高速の車内で、弟からもらったカセットテープを聴いたんです。田中信生先生(牧師・カウンセラー)のメッセージが録音されていて、『あなたは悪くない……』、そう繰り返してくれて。路肩の非常駐車帯に車を停めて号泣しました。父も一生懸命生きた。僕も一生懸命生きている。その一生懸命こそが、愛するということなんだとわかってね。

そのテープを聴いた半月後です。ダイヤモンドカップで47歳にして7年ぶりに優勝できたのは。だから、スランプだと僕のところへ相談に来る選手にはこう言うんです。もっともがきなさいと。だって、人生はもがくのが醍醐味、僕はそう思って生きてきたから」

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やがて日が陰り、少し冷えてきてテラスのベンチを立った。『練正館』の建物の中へと入ると、彼がストーブを灯してくれてソファに腰を下ろした。
――父に似てきた、そう思うことはありますか。最後にそう訊いてみた。

「トミーズアカデミー」を主宰する彼は、数多くのジュニアゴルファーの育成に尽力してきた。

「それがね、あるんですよ。もちろん、暴力を振るうわけじゃありません。だけど、いろんな工夫をして疲れさせるんです。だって、メジャーに挑戦するってことは、毎日とにかく疲れるんですから。今思うと、父の指導にも、たくさん工夫がありましたし、たくさん疲れさせられました」。

18年に日本ゴルフ殿堂入りしたゴルフ人生を、彼はこう結んだ。

「僕のゴルフは、父と僕との合作です。今ではそう言えるんですよ」。

月刊ゴルフダイジェスト2022年1月号より