【ノンフィクション】プロキャディ・清水重憲「ロープの中でプロとともに戦う」
トーナメントでは欠かすことのできないキャディの存在だが、一般ゴルファーにはよくわからない仕事ともいえる。プロキャディとして最多勝利数の記録を更新中の清水重憲に25年目を迎えたキャディ人生を振り返ってもらった
TEXT/Kenji Oba PHOTO/Tadashi Anezaki、Shinji Osawa、Hiroyuki Okazawa
清水重憲
しみずしげのり。1974年大阪府生まれ。近畿大学卒業後、プロキャディの道へ。今年でキャディ歴25年目。2016年6月にツアー通算33勝を達成し、最多勝キャディに。現在38勝まで記録を更新中。愛称は「ノリ」「ノリさん」
プロキャディとして国内男女ツアー通算38勝、最多勝利記録を更新中なのがプロキャディの清水重憲だ。選手からは優勝請負人と呼ばれるほどだ。また一昨年、発足した「日本プロキャディー協会」では副会長を務め、キャディたちの兄貴分的な存在でもある。まさに“ミスターキャディ”と呼ぶに相応しい活躍ぶりだが、実は大学に入るまでゴルフとはまったく無縁の生活を送ってきた。
「小学生のころから甲子園を目指す野球少年でした。甲子園に出られるかもという理由で高校は強豪校を選びました。チームは3年生の最後の夏に甲子園出場を果たしたのですが、部員が100人以上いるなかで、僕はベンチにも入れませんでした。それで進路を野球部の監督に相談したんです……」
大学でゴルフを始め、4年生のときに
初めてプロのバッグを担いだ
清水の話を要約するとこうだ。野球部の監督と近大ゴルフ部の監督が知り合いだった。近大ゴルフ部といえば、東の日大、西の近大といわれた関西ゴルフ界の雄。ほとんどがジュニアゴルフで成績を残し、推薦で入学してくる選手ばかりだった。そうした強豪のゴルフ部に、まったくの初心者として入部したのが清水だった。
「全員がプロを目指すような感じで、口利きで入れてもらったものの『これはえらいところに来ちゃったぞ』というのが正直な感想でした。最初はまったくボールに当たらないし、とにかくヘタなのは自分だけでしたからね(笑)」
もっともゴルフにはすぐハマった。野球では苦しいことばかりだったが、たまに当たるとどこまでも飛んでいくのが爽快で、とにかくおもしろくて仕方がなかった。大学生活はゴルフ漬けの毎日。他の学生が就職活動を始める4年生になってもスーツすら買わず、汗まみれのゴルフウェアでボールを打ち続けた。このころには片手シングルにもなっていたが、
「プロになろうと思ったことは一度もありません。ひとつ上の先輩に2年連続日本アマを制した杉本周作さんがいて、レベルが違うのが自分でもわかっていましたから。じゃあ、なんでそんなにゴルフ漬けになれたかといえば、単純におもしろかったし、純粋に上手くなりたいと思ったんでしょうね。それに自分はどこか世間知らずなところがあって、就職活動の方法すらも知らなかったんです」
そんな清水がプロキャディの道に進むきっかけを与えたのが先輩の杉本周作だった。卒業後すぐにプロテストに合格した杉本。そのデビュー戦のブリヂストンオープンで後輩の清水がバッグを担ぐことになったのだ。清水が大学4年の96年10月のことである。デビュー戦で予選通過を果たした杉本は余勢を駆ってQTを通過、ツアー前半戦の出場権を手に入れた。そこで卒業後の進路が決まっていない清水にプロキャディにならないかと誘いがきたのだ。
「忘れもしません。日本のプロキャディの草分け的存在の今井哲男さんという人がいて、週刊ゴルフダイジェストにその人の特集が組まれ、その誌面を見せながら『ノリ、こういう道もあるぞ』って」
卒業後、無職確定の清水にとっては渡りに船。やがて顔と名前を覚えられるようになると、杉本以外の選手のバッグも担ぐようになっていく。そうした流れのなかで98年、「自分のキャディとして人間としての核を作ってくれた恩人」という田中秀道の専属キャディとなったのだ。
仕事はすべて
田中秀道プロに教わった
「秀道さんは自分にも周りのスタッフにも厳しい人ですから、とにかくいろいろなことを教えていただきました。試合中は常に感じろ、アンテナを張り巡らせ、そしてさまざまな情報を感じ取れと繰り返し言われたものです。最初はなんのことかわかりませんでしたが、今となってはそれが最高の教えだったと実感しています」
キャディはバッグを担ぎクラブを出すだけと思っていた清水が、「プロ」として歩き出す瞬間であった。
田中秀道の言葉がまったくピンとこなかったという清水だが、試合ではさまざまな情報が溢れていることに気がついたという。それは残り距離やコースの傾斜、風といった自然だけに限らない。
「たとえばいつもと違う試合の流れ、同伴者の雰囲気など、アンテナを張り巡らせるといろいろな情報が見えてくるんです。パー3で前の組が詰まっているとします。最初は早く打たないかな、少し休めるかな、くらいにしか思わなかったのですが、難しいから詰まるわけです。つまり何かが起きている。その原因は風なのか、ピン位置なのか、グリーン周りにあるのか……といった具合に感じるものがどんどん増えていく。その情報をキャッチするのがキャディの仕事だと、いつしか思うようになったんです。情報は多いほど、判断は正確にできますからね」
試合中に感じよう、感じようと努力していた清水に心境の変化が表れた。それは「ロープの中で選手と一緒に戦っている」という特別な充実感だった。ちなみに清水のキャディ初優勝は98年7月、田中秀道のバッグを担いだアイフルカップである。
田中秀道には今もゴルフ史に語り継がれるスーパーショットがある。同年、大洗GC(茨城県)で開催された日本オープン。その最終日の最終ホール。6Iを握った3打目は、わずか50センチの木と木の間を抜け、グリーンをとらえた。27歳の田中がメジャー初勝利を飾った瞬間である。これはありとあらゆる情報をかき集めていた22歳の清水が、ロープの中で一緒に戦い打たせた、ミラクルショットでもあったのだ。
自分が担ぐことで1日1打でいいから
スコアを縮めさせたい
その後の清水の活躍は今さら説明する必要もないだろう。07年に谷口徹、上田桃子の男女賞金王の2冠をサポート。15、16年にはイ・ボミを賞金女王に導いた。そして16年、ジャンボ尾崎を支えた佐野木計至がもつキャディの史上最多勝利33勝を抜き、日本記録を樹立したのだ。
(左上)2007年、日本オープン谷口徹が逆転で2度目の日本一/(左下)2015年、イ・ボミがシーズン7勝獲得賞金2億3049万円で賞金女王に導く/(右)2007年、上田桃子の賞金女王獲得に貢献
ところで清水は、選手とキャディの関係をどう考えているのだろうか。
「よく野球のピッチャーとキャッチャーの関係にたとえられますが、キャディは選手ではありませんからボールを動かせません。そこが決定的な違いです。若い選手にはメンタルやマネジメント、ときには技術的なコーチの役割も求められます。しかし、それも基本的には違います。強いていえばラリーのナビゲーターのような存在でしょうか。最善のコース取りを指示して1秒でも速く走らせるような。プロが1打でも縮められるようにアシストするのが、キャディという特殊な仕事なんだと思います」
その特殊であることへのこだわりが、一昨年の「日本プロキャディー協会」設立につながった。その目的はいくつかあるが、清水が重視するのは自身が培ってきた経験や技術、ノウハウを若い世代に教えていくことだ。
「プロキャディは今が一番多いんですが、今後は減っていくと思います。なぜなら若い世代が育っていないし、なにより自分だって体力的にいつまでやれるかわからないからです。とくに目の衰えはライン読みに影響を与えるので大きいんです。ただ優勝争いの経験、そんなときにかける言葉、気分転換の方法などは、選手と共に戦った者でないとわからないものです。その伝達と継承は、日本のゴルフ界にとっても不可欠なことではないかと思っています」
自分が担いでいない選手や他の選手のキャディの質問には何でも答えるという清水には「日本のゴルフが発展するなら」という思いが根底にある。日本プロキャディー協会では、オフに研修生やジュニア、一般ゴルファーへの研修会を積極的に行っている。するとゴルファーが次々とベストスコアを更新したというのだ。
「プロであれアマチュアであれ、1打でもスコアが良くなって喜んでくれる。その笑顔こそが、キャディ冥利に尽きますね」と、清水は最後に微笑んだ。
記念のヤーデージブックは今も大切に保管
清水キャディが大切に保管しているヤーデージブック。左から98年、田中秀道の専属キャディで初優勝したアイフルカップ。真ん中が07年、谷口徹の日本オープン。そして右が08年、谷口徹と出場したマスターズだ
週刊ゴルフダイジェスト2021年10月19日号より